第一話
「神様。もういっそ、隕石とか落ちて会社が消滅してくれませんでしょうか」
月曜日の朝、午前八時。
私、水瀬栞二十八歳は、死んだ魚のような目で駅のホームに立っていました。
IT企業のシステムエンジニア、と言えば聞こえはいいですが、実態はただの社畜です。現在、悪魔のようなバグ修正のデスマーチに巻き込まれており、三日連続で会社に泊まり込んでいました。一度シャワーを浴びるために帰宅し、今、再び地獄へ向かうための電車を待っています。普段はコンタクト派なのですが、酷使続きの目はすでに限界で、鞄には予備の眼鏡をお守り代わりに忍ばせていました。
私の唯一の趣味は、日曜大工――いわゆるDIYなのですが、ここ数ヶ月はノコギリ一本触れていません。
あぁ、木材の匂いが恋しいです。ホームセンターの資材館に入ったときの、あのワクワク感をもう一度味わいたい。電動ドライバーの駆動音を子守唄にして眠りたい。
そんな妄想で現実逃避をしていた、その時でした。
「う、うわあああああ!? なんだこれ、離せ! 噛みつくんじゃな――」
ホームの端から、血の気が引くような悲鳴が響き渡りました。
見れば、サラリーマン風の男性が、血まみれの男に首筋を派手に噛みつかれています。映画の特殊メイクではない本物の鮮血が、スプリンクラーのように飛び散りました。
次の瞬間、噛まれた男性がビクビクと痙攣し、白目を剥いて立ち上がりました。外の世界では、人が人を襲う地獄絵図がネズミ算式に広がっていきます。
「キャーーー!?」
「ゾンビだ! ゾンビが出たぞ!!」
駅のホームは一瞬でパニックに陥りました。人々が押し合いへし合い、階段へと逃げ惑います。
狂騒の真ん中で、私はただ一人、呆然と立ち尽くしていました。おっとりしているとよく言われる私ですが、流石に脳の処理が追いつきません。
ゾンビ……。
バイオなハザード……。
つまり、都市機能の完全な停止。
カチリ、と頭の中で、優秀なシステムエンジニアとしてのエラー検知システムが作動しました。
『物理的障害が発生しました。これ以上の通勤は不可能です』
私はポケットからスマホを取り出しました。
画面を確認します。いつもなら五分おきに飛んでくる、上司からの進捗確認の連絡が、一通も来ていません。電波のアイコンも圏外。インフラが死に始めています。
「……ということは」
私はそっと胸の前に両手を構え、小さなガッツポーズを作りました。
カサカサだった肌に、じわりと生命力が蘇ってくるのを感じます。
「私、今日、会社に行かなくてもいいのでは……? というか、あの炎上案件、納期ごと消滅しましたよね……?」
じわじわと、胸の奥から歓喜の波が押し寄せてきます。
世界は滅びつつあるようですが、それ以上に、私の出社義務が完全に滅びました。
最高です。神様、隕石じゃなくてゾンビでしたけれど、願いを叶えてくれてありがとうございます!
「あうー……」
私の前でガッツポーズを見ていたおじさんゾンビが、気の抜けた声を上げて両手を伸ばしてきました。口元は血まみれで、目は完全に濁っています。どうやら私を朝食にするつもりのようです。
大変失礼ながら、私は今、猛烈に機嫌が良いのです。
せっかくの永久休暇を、こんなところで邪魔されてたまるものですか。
「申し訳ありませんが、お引き取りください。今の私は、あなたより強いです」
私はビジネスバッグを開け、中に眠っていた相棒を引っ張り出しました。
頑丈さだけが取り柄の、社給品の分厚いノートパソコン(約二キログラム)です。三日間のデスマーチを共に戦い抜き、私の汗と涙、そして上司への怨念がたっぷり染み込んだ鉄の塊。
フンッ、と気合を入れて、おじさんゾンビの顎めがけて下から振り抜きました。
――ガシャァァァン!!
鈍い衝撃音と共に、ノートパソコンの液晶が粉々に砕け散ります。同時に、おじさんゾンビは綺麗に後方へ一回転して、ホームへ叩きつけられました。ピクリとも動きません。
「……ふう。さすが頑丈仕様。素晴らしい打撃力です」
さすがにパソコンは起動しなくなりましたが、これで会社への未練も完全に断ち切ることができました。
周囲を見渡すと、駅の改札側はパニックになった人々で大渋滞しています。あちらに向かうのは危険ですし、そもそも時間の無駄です。
私は人混みを避け、ホームの端からバラストが敷き詰められた線路へと飛び降りました。
線路の脇を数十メートル進むと、一般客には気づかれにくい線路保守員用の小さな勝手口があります。鍵はかかっていません。私はそこから駅の外へと脱出しました。
「タタタッ」と、線路沿いの道を小走りで駆け抜けます。
目指すは、ここから徒歩二十分ほどの場所にある、市内最大のギガホームセンター『コメリコ・メガモール』。
あそこなら、木材も、工具も、最新の電動ドライバーも、すべてが揃っています。しかも世界がこれですから、きっと臨時休業中、いえ、完全なる無人です。
「資材、使い放題……。夢の家が作れます……!」
想像するだけで、口元がにやけてしまいます。
いつもなら死にそうになりながら歩く通勤路が、今はまるでテーマパークの入場列のようです。
背後で街が燃え、悲鳴が響き渡る中、私は今までにないほど生き生きとした足取りで、聖地へと向かって突き進むのでした。
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