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冥府庁調査課 あらたま結縁集

鷺は夜に鳴かない

作者: 秋初夏生
掲載日:2026/04/30

 遠州鉄道の最終一本前。


 小犬丸幸太(こいぬまるこうた)は窓に額を寄せ、車内の蛍光灯に映る自分の顔を見ないようにしていた。


 ヘッドホンから流れているのは、二週間前に適当に落としたプレイリストだった。曲名も、順番も、もう覚えていない。

 何か聴こえていれば、それでよかった。


 予備校の帰りは、何も考えないことにしている。

 模試の出来。志望校の判定。

 ここ最近、親が電話越しに話すときの、妙に平たい声。励ましているのか、諦めているのか、どちらともつかないあのトーン。


 そういうものは全部、ヘッドホンの向こう側へ押しやっておく。


 それでも染み出してくるものは、車窓の暗さに溶かした。夜の遠州平野は本当に暗い。      

 灯りがぽつぽつとあるだけで、田畑と空のあいだに境界線がない。


 電車が、ゆっくりと速度を落とした。


 小犬丸はしばらく気づかなかった。気づいたときには、もういつもの減速ではなくなっていた。

 駅に近づいているというより、暗闇の中で何かを探しているような止まり方だった。


 スマホで路線図を確認しようとして、圏外なことに気づく。


 機内モードにしたっけ。いや、していない。どうせ電波の悪いところでも通っているんだろう。


 そう思ったところで、電車が止まった。


 窓の外に、駅らしきものは見える。

 ホームがあって、屋根があって、駅名標がある。ただし、照明が古い。蛍光灯ではなく、黄色みの強い裸電球のような光で、ホーム全体がぼんやりと浮かんでいる。


 人の気配はなかった。


 小犬丸はぼんやりと駅名標を見た。さぎの宮、ではなかった。


 「さきのみや」。


 一文字違う。

 光の加減かもしれない。どちらでもよかった。

 途中の駅名を、小犬丸は日常的に把握していない。乗って、降りて、また乗る。それだけだ。


「ここ、さぎの宮じゃないですよね」


 ヘッドホンの外から声が届いた。低くはないが、落ち着いた声だった。

 小犬丸は片耳だけヘッドホンを外して振り向いた。


 通路を挟んだ斜め前の席に、男子高校生が座っていた。茶色いショートヘア、カジュアルな格好、無地のパーカー。


 どこにでもいる感じの高校生だ。けれど、なぜかひどく落ち着いた顔をしている。こちらを見て、少し首を傾けていた。


 怯えてもいないし、焦ってもいない。

 ただ、窓の外を見る目つきだけが、どこか仕事中の人間のそれだった。


「知らない」と小犬丸は答えた。


「駅名とか、いちいち見てないし」


「そうですか」


 男子高校生は特に気分を害した様子もなく、窓の外に目を向けた。


「スマホ、圏外になってません?」


 そう言われて、小犬丸はもう一度画面を確認した。さっきと変わらず、アンテナマークが表示されていない。


「なってる」


「他の乗客の気配がないんです」


「……は?」


「他の車両も見てきました。誰もいません」


「確認してきたの?」


「はい。止まってから少し時間があったので」


 その返事が、妙にきれいだった。


 小犬丸はヘッドホンを首にかけた。もう片方も耳から外した。この状況で音楽を流し続けるのは、さすがに間抜けな気がした。


「よくそんなに、いろいろ見ようと思うな」


 その言葉に、高校生は少し笑った。


「見えるものが減ると、逆に探したくなるんです


 それから、何でもないことのように付け足した。


「癖みたいなものですけど」


 小犬丸は通路側に少し身を向けて、高校生の方を眺めた。


 名前も知らない。学校も知らない。ただ、この車両に二人きりで、電波のない見知らぬ駅に止まっている。


 普通なら怖いんじゃないか、と思った。


 自分が怖くないのは、元々何に対しても感覚が鈍いからだ。でも、こいつは怖くないのではなく、怖がるより先に見ることを選んでいるように見える。


 そこが少し違う。


「電車って」


 高校生は言った。


「ちょっと怖いと思わないですか」


「今更?」


「いや、今だから」


 窓の外、黄色い照明のホームを見ながら彼は続けた。


「線路って、決まったところしか走らないじゃないですか」


「まあ」


「だから、みんな安心して見なくなる。駅名も、町も、隣に座ってる人の顔も。降りたら忘れる」


「……何の話」


「気づかないんですよ。少しくらい道がずれても」


 小犬丸は視線を窓に戻した。


 さきのみや。


 そういえば、一文字違っていた。


「気づいたところで」と小犬丸は言った。


「何か変わる?」


 高校生は少し考えた。考えるときに少し口を閉じて、目が遠くなる。


「変わらないかもしれません」


 彼は言った。


「でも、気づかないまま終わるよりはマシです」


 小犬丸は何も言わなかった。


 言い返す言葉が出てこなかった、というよりは、反論する気がなくなった。そういう感じだった。


 扉が、開いた。

 自動的に、音もなく。


 ホームに面した側の扉が開いて、夜の空気が入ってきた。


 けれど冷たくも、ぬるくもなかった。温度がなかった。風というより、空気だけが場所を移したようだった。


 遠くから、太鼓のような音がした。


 一定のリズムではなく、まばらで、不揃いな音だった。


 ホームの端、照明が届かない暗い部分に、何かが立っていた。


 背は人間くらいだった。けれど輪郭が細すぎた。人の形をしているかもしれなかったし、そうじゃないかもしれなかった。


 そのさらに奥、田畑の暗がりの中に、白い鳥のようなものが一羽立っているのが見えた。

 鳴き声はしなかった。


 高校生が立ち上がった。


「降りてみますか?」


「馬鹿じゃない」


 小犬丸は思ったより早く言っていた。自分でも少し驚いた。


 高校生が振り返る。驚いた顔、というには少し薄い。どちらかというと、答え合わせをしている顔だった。


「怖いんですか」


「怖いとかじゃなくて、降りたら終わりだろ。こういうのは」


「経験則?」


「常識」


「常識が通じる場所には見えないけど」


「だからだよ」


 小犬丸は、開いた扉の向こうを見た。


 黄色い光。暗がり。人のようなもの。白い鳥のようなもの。まばらな太鼓の音。


「通じないなら、なおさら降りるな」


 高校生はしばらく小犬丸の顔を見た。


 なんでもない顔で、でも何かを確かめるような目だった。子どもらしからぬ声で、彼は言う。


「へえ、止めてくれるんだ」


「目の前で面倒なことされたら、後味が悪い」


 小犬丸は窓の外を向いた。


「それだけ」


「そうですか」


 高校生は、笑ったような気がした。

 座り直す気配がした。


「じゃあ、戻る方法を考えよう」


 車内広告が、おかしくなっていた。


 高校生が先に気づいて、小犬丸を呼んだ。路線図の額縁の中、駅名がひとつ、またひとつと知らない名前に変わっていた。


 漢字は読めるものもあったが、意味がわからない。地名として認識できない。


 ただひとつ、元の路線名が残っている箇所があった。


 小犬丸は路線図の端に、小さな染みを見つけた。


 最初は汚れだと思った。けれど違った。染みは、駅名の文字を避けるように広がっている。黒いインクのような水たまりが、読める名前だけを残していくみたいだった。


「あれ」


 小犬丸が指さすと、高校生の目がわずかに細くなった。


「よく気づきましたね」


「見ればわかるだろ」


「見ない人の方が多いですよ」


 高校生は路線図を見上げたまま言った。


「ここがどこかを調べても、たぶん戻れません」


「じゃあ何」


「確認します」


 その声が、少しだけ変わった。


 さっきまでの雑談みたいな柔らかさが消えていた。慰めでも、推測でもない。何かの手順を読み上げているみたいだった。


「君がどこから乗って、どこへ帰るつもりだったか」


「……何それ」


「帰る場所を、こっち側に固定するんです」


 言葉の意味はわからなかった。


 けれど宇佐見の口調には、わからなくても従わせるだけの硬さがあった。


「最寄り駅は?」


「……」


「いつも帰りに寄る場所は?」


 小犬丸は答えかけて、止まった。

 帰りたい場所なんか、と言おうとしたのだと思う。


 でも、その言葉は口の中で霧散した。


 予備校の帰り道。いつも通るコンビニ。微妙にちらつく蛍光灯。店員のおじさんが毎回同じタイミングで声をかけてくる。


 家の最寄り駅から続く、街灯が一本だけ少し暗い道。


 ヘッドホンで聞き流していた、さぎの宮駅のアナウンス。あの抑揚。


 どうでもいいと思っていた。


 でも全部、ちゃんと頭の中に残っている。


「コンビニ」


「道は?」


「駅から、街灯が一本だけ暗い道を通る」


「アナウンスは?」


 小犬丸は目を閉じた。


 聞き流していたはずの声が、耳の奥で再生される。


 さぎの宮。さぎの宮。


「……覚えてる」


 高校生は何も言わなかった。


 ただ、頷いた。


「別に、僕にとって特別な場所じゃないけど」


 小犬丸は言った。


「知ってる場所ではある」


「十分です」


 その言い方が、少しだけ柔らかくなった。


「明日も同じ電車に乗る?」


 高校生が唐突に聞いた。


 小犬丸は少し考えた。


 いつもなら「知らない」で終わる質問だった。どうでもいいから。明日のことを考えると、今日のことが重くなる気がして、考えないようにしていた。


 でも今は、少しだけ、明日の車窓のことが頭にあった。


「わからない」


 小犬丸は言った。


「けど多分、乗るんじゃない」


 それが精いっぱいだった。


 高校生はそれで十分というように、また少し笑った。


 車内アナウンスが、戻った。


 聞き慣れた音声合成の声が、次の停車駅をアナウンスした。


 さぎの宮。


 電車がゆっくりと動き出した。扉はいつの間にか閉まっていた。


 窓の外、黄色い照明のホームが後ろへ流れていった。ホームの端の暗がりは、ただの暗がりになっていた。


 田畑の奥にいた白い鳥のようなものも、もう見えなかった。


 スマホのアンテナが戻った。着信が二件、LINEが数件、まとめて届いた。


 二分ほどで、本物のさぎの宮駅に着いた。


 ホームには数人の人がいた。普通の人が、普通に立っていた。


 小犬丸は立ち上がって、ふと思い出したように高校生の方を向いた。


「名前」


 高校生は少し面食らったような、それでいて少し嬉しそうな顔をした。


宇佐見翔(うさみ かける)。君は……小犬丸君?」


 バッグの名札でも見たのか、さらっと呼ばれた。返事がないのを肯定と受け取ったのか、宇佐見は少し間を置いて言った。


「また会ったら、話してよ」


「ヘッドホン、してない日なら」


 小犬丸は背を向けて、ドアへ歩いた。


 翌日、小犬丸は同じ時間の電車に乗った。


 ヘッドホンはしていたが、音量を少しだけ下げていた。理由はうまく説明できない。


 昨日のことが気になって、というほど劇的なものでもなかった。ただ、完全に外界を遮断する気になれなかった、というだけだ。


 通過する駅名を、目で追った。


 今まで一度もしたことがなかった。当たり前にある文字として読み流してきた。

 でも今日は、ひとつひとつが、確かにそこにある場所の名前だと思いながら見た。


 車窓の暗い田畑、遠くに点在する灯り、線路沿いに続く低い防音壁。


 それらが急に意味を持つわけではなかった。

 ただ、見えていた。


 昨日まで見ていなかったものが、今日は少し見えた。


「こんばんは。今日は通常運行ですね」


 隣の車両から宇佐見が来た。


 昨日と同じパーカー姿で、少し眠そうな顔をしていた。

 そのくせ視線だけは、線路脇の暗がりを拾っている。


 小犬丸はため息をついた。


「止まらなくていいだろ、普通に」


「そうですね」


 宇佐見は笑いながら、向かいの席に座った。


「普通が一番です」


「昨日のこと」


 小犬丸は窓の外を見たまま言った。


「誰かに話すと思う?」


「話して信じる人がいますか?」


「いない」


「じゃあ、話さなくていいと思います」


 宇佐見はあっさり言った。


「でも、君が覚えてるならそれでいい」


 小犬丸は返事をしなかった。けれど、ヘッドホンは外したままにしていた。

 


けれど、ヘッドホンは外したままにしていた。

それに気づいたのは、次の駅名がアナウンスされたあとだった。

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