鷺は夜に鳴かない
遠州鉄道の最終一本前。
小犬丸幸太は窓に額を寄せ、車内の蛍光灯に映る自分の顔を見ないようにしていた。
ヘッドホンから流れているのは、二週間前に適当に落としたプレイリストだった。曲名も、順番も、もう覚えていない。
何か聴こえていれば、それでよかった。
予備校の帰りは、何も考えないことにしている。
模試の出来。志望校の判定。
ここ最近、親が電話越しに話すときの、妙に平たい声。励ましているのか、諦めているのか、どちらともつかないあのトーン。
そういうものは全部、ヘッドホンの向こう側へ押しやっておく。
それでも染み出してくるものは、車窓の暗さに溶かした。夜の遠州平野は本当に暗い。
灯りがぽつぽつとあるだけで、田畑と空のあいだに境界線がない。
電車が、ゆっくりと速度を落とした。
小犬丸はしばらく気づかなかった。気づいたときには、もういつもの減速ではなくなっていた。
駅に近づいているというより、暗闇の中で何かを探しているような止まり方だった。
スマホで路線図を確認しようとして、圏外なことに気づく。
機内モードにしたっけ。いや、していない。どうせ電波の悪いところでも通っているんだろう。
そう思ったところで、電車が止まった。
窓の外に、駅らしきものは見える。
ホームがあって、屋根があって、駅名標がある。ただし、照明が古い。蛍光灯ではなく、黄色みの強い裸電球のような光で、ホーム全体がぼんやりと浮かんでいる。
人の気配はなかった。
小犬丸はぼんやりと駅名標を見た。さぎの宮、ではなかった。
「さきのみや」。
一文字違う。
光の加減かもしれない。どちらでもよかった。
途中の駅名を、小犬丸は日常的に把握していない。乗って、降りて、また乗る。それだけだ。
「ここ、さぎの宮じゃないですよね」
ヘッドホンの外から声が届いた。低くはないが、落ち着いた声だった。
小犬丸は片耳だけヘッドホンを外して振り向いた。
通路を挟んだ斜め前の席に、男子高校生が座っていた。茶色いショートヘア、カジュアルな格好、無地のパーカー。
どこにでもいる感じの高校生だ。けれど、なぜかひどく落ち着いた顔をしている。こちらを見て、少し首を傾けていた。
怯えてもいないし、焦ってもいない。
ただ、窓の外を見る目つきだけが、どこか仕事中の人間のそれだった。
「知らない」と小犬丸は答えた。
「駅名とか、いちいち見てないし」
「そうですか」
男子高校生は特に気分を害した様子もなく、窓の外に目を向けた。
「スマホ、圏外になってません?」
そう言われて、小犬丸はもう一度画面を確認した。さっきと変わらず、アンテナマークが表示されていない。
「なってる」
「他の乗客の気配がないんです」
「……は?」
「他の車両も見てきました。誰もいません」
「確認してきたの?」
「はい。止まってから少し時間があったので」
その返事が、妙にきれいだった。
小犬丸はヘッドホンを首にかけた。もう片方も耳から外した。この状況で音楽を流し続けるのは、さすがに間抜けな気がした。
「よくそんなに、いろいろ見ようと思うな」
その言葉に、高校生は少し笑った。
「見えるものが減ると、逆に探したくなるんです
それから、何でもないことのように付け足した。
「癖みたいなものですけど」
小犬丸は通路側に少し身を向けて、高校生の方を眺めた。
名前も知らない。学校も知らない。ただ、この車両に二人きりで、電波のない見知らぬ駅に止まっている。
普通なら怖いんじゃないか、と思った。
自分が怖くないのは、元々何に対しても感覚が鈍いからだ。でも、こいつは怖くないのではなく、怖がるより先に見ることを選んでいるように見える。
そこが少し違う。
「電車って」
高校生は言った。
「ちょっと怖いと思わないですか」
「今更?」
「いや、今だから」
窓の外、黄色い照明のホームを見ながら彼は続けた。
「線路って、決まったところしか走らないじゃないですか」
「まあ」
「だから、みんな安心して見なくなる。駅名も、町も、隣に座ってる人の顔も。降りたら忘れる」
「……何の話」
「気づかないんですよ。少しくらい道がずれても」
小犬丸は視線を窓に戻した。
さきのみや。
そういえば、一文字違っていた。
「気づいたところで」と小犬丸は言った。
「何か変わる?」
高校生は少し考えた。考えるときに少し口を閉じて、目が遠くなる。
「変わらないかもしれません」
彼は言った。
「でも、気づかないまま終わるよりはマシです」
小犬丸は何も言わなかった。
言い返す言葉が出てこなかった、というよりは、反論する気がなくなった。そういう感じだった。
扉が、開いた。
自動的に、音もなく。
ホームに面した側の扉が開いて、夜の空気が入ってきた。
けれど冷たくも、ぬるくもなかった。温度がなかった。風というより、空気だけが場所を移したようだった。
遠くから、太鼓のような音がした。
一定のリズムではなく、まばらで、不揃いな音だった。
ホームの端、照明が届かない暗い部分に、何かが立っていた。
背は人間くらいだった。けれど輪郭が細すぎた。人の形をしているかもしれなかったし、そうじゃないかもしれなかった。
そのさらに奥、田畑の暗がりの中に、白い鳥のようなものが一羽立っているのが見えた。
鳴き声はしなかった。
高校生が立ち上がった。
「降りてみますか?」
「馬鹿じゃない」
小犬丸は思ったより早く言っていた。自分でも少し驚いた。
高校生が振り返る。驚いた顔、というには少し薄い。どちらかというと、答え合わせをしている顔だった。
「怖いんですか」
「怖いとかじゃなくて、降りたら終わりだろ。こういうのは」
「経験則?」
「常識」
「常識が通じる場所には見えないけど」
「だからだよ」
小犬丸は、開いた扉の向こうを見た。
黄色い光。暗がり。人のようなもの。白い鳥のようなもの。まばらな太鼓の音。
「通じないなら、なおさら降りるな」
高校生はしばらく小犬丸の顔を見た。
なんでもない顔で、でも何かを確かめるような目だった。子どもらしからぬ声で、彼は言う。
「へえ、止めてくれるんだ」
「目の前で面倒なことされたら、後味が悪い」
小犬丸は窓の外を向いた。
「それだけ」
「そうですか」
高校生は、笑ったような気がした。
座り直す気配がした。
「じゃあ、戻る方法を考えよう」
車内広告が、おかしくなっていた。
高校生が先に気づいて、小犬丸を呼んだ。路線図の額縁の中、駅名がひとつ、またひとつと知らない名前に変わっていた。
漢字は読めるものもあったが、意味がわからない。地名として認識できない。
ただひとつ、元の路線名が残っている箇所があった。
小犬丸は路線図の端に、小さな染みを見つけた。
最初は汚れだと思った。けれど違った。染みは、駅名の文字を避けるように広がっている。黒いインクのような水たまりが、読める名前だけを残していくみたいだった。
「あれ」
小犬丸が指さすと、高校生の目がわずかに細くなった。
「よく気づきましたね」
「見ればわかるだろ」
「見ない人の方が多いですよ」
高校生は路線図を見上げたまま言った。
「ここがどこかを調べても、たぶん戻れません」
「じゃあ何」
「確認します」
その声が、少しだけ変わった。
さっきまでの雑談みたいな柔らかさが消えていた。慰めでも、推測でもない。何かの手順を読み上げているみたいだった。
「君がどこから乗って、どこへ帰るつもりだったか」
「……何それ」
「帰る場所を、こっち側に固定するんです」
言葉の意味はわからなかった。
けれど宇佐見の口調には、わからなくても従わせるだけの硬さがあった。
「最寄り駅は?」
「……」
「いつも帰りに寄る場所は?」
小犬丸は答えかけて、止まった。
帰りたい場所なんか、と言おうとしたのだと思う。
でも、その言葉は口の中で霧散した。
予備校の帰り道。いつも通るコンビニ。微妙にちらつく蛍光灯。店員のおじさんが毎回同じタイミングで声をかけてくる。
家の最寄り駅から続く、街灯が一本だけ少し暗い道。
ヘッドホンで聞き流していた、さぎの宮駅のアナウンス。あの抑揚。
どうでもいいと思っていた。
でも全部、ちゃんと頭の中に残っている。
「コンビニ」
「道は?」
「駅から、街灯が一本だけ暗い道を通る」
「アナウンスは?」
小犬丸は目を閉じた。
聞き流していたはずの声が、耳の奥で再生される。
さぎの宮。さぎの宮。
「……覚えてる」
高校生は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
「別に、僕にとって特別な場所じゃないけど」
小犬丸は言った。
「知ってる場所ではある」
「十分です」
その言い方が、少しだけ柔らかくなった。
「明日も同じ電車に乗る?」
高校生が唐突に聞いた。
小犬丸は少し考えた。
いつもなら「知らない」で終わる質問だった。どうでもいいから。明日のことを考えると、今日のことが重くなる気がして、考えないようにしていた。
でも今は、少しだけ、明日の車窓のことが頭にあった。
「わからない」
小犬丸は言った。
「けど多分、乗るんじゃない」
それが精いっぱいだった。
高校生はそれで十分というように、また少し笑った。
車内アナウンスが、戻った。
聞き慣れた音声合成の声が、次の停車駅をアナウンスした。
さぎの宮。
電車がゆっくりと動き出した。扉はいつの間にか閉まっていた。
窓の外、黄色い照明のホームが後ろへ流れていった。ホームの端の暗がりは、ただの暗がりになっていた。
田畑の奥にいた白い鳥のようなものも、もう見えなかった。
スマホのアンテナが戻った。着信が二件、LINEが数件、まとめて届いた。
二分ほどで、本物のさぎの宮駅に着いた。
ホームには数人の人がいた。普通の人が、普通に立っていた。
小犬丸は立ち上がって、ふと思い出したように高校生の方を向いた。
「名前」
高校生は少し面食らったような、それでいて少し嬉しそうな顔をした。
「宇佐見翔。君は……小犬丸君?」
バッグの名札でも見たのか、さらっと呼ばれた。返事がないのを肯定と受け取ったのか、宇佐見は少し間を置いて言った。
「また会ったら、話してよ」
「ヘッドホン、してない日なら」
小犬丸は背を向けて、ドアへ歩いた。
翌日、小犬丸は同じ時間の電車に乗った。
ヘッドホンはしていたが、音量を少しだけ下げていた。理由はうまく説明できない。
昨日のことが気になって、というほど劇的なものでもなかった。ただ、完全に外界を遮断する気になれなかった、というだけだ。
通過する駅名を、目で追った。
今まで一度もしたことがなかった。当たり前にある文字として読み流してきた。
でも今日は、ひとつひとつが、確かにそこにある場所の名前だと思いながら見た。
車窓の暗い田畑、遠くに点在する灯り、線路沿いに続く低い防音壁。
それらが急に意味を持つわけではなかった。
ただ、見えていた。
昨日まで見ていなかったものが、今日は少し見えた。
「こんばんは。今日は通常運行ですね」
隣の車両から宇佐見が来た。
昨日と同じパーカー姿で、少し眠そうな顔をしていた。
そのくせ視線だけは、線路脇の暗がりを拾っている。
小犬丸はため息をついた。
「止まらなくていいだろ、普通に」
「そうですね」
宇佐見は笑いながら、向かいの席に座った。
「普通が一番です」
「昨日のこと」
小犬丸は窓の外を見たまま言った。
「誰かに話すと思う?」
「話して信じる人がいますか?」
「いない」
「じゃあ、話さなくていいと思います」
宇佐見はあっさり言った。
「でも、君が覚えてるならそれでいい」
小犬丸は返事をしなかった。けれど、ヘッドホンは外したままにしていた。
けれど、ヘッドホンは外したままにしていた。
それに気づいたのは、次の駅名がアナウンスされたあとだった。




