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勝利

 翌朝、谷には深い霧が出ていた。

 夜の間に山々から降りた湿気が谷底に溜まり、白い靄となって木々の間を漂っている。

 南岚の兵は、夜明け前から配置についていた。谷の両側、高みに弓兵を伏せる。鳥銃を扱える兵も、その中へ数名ずつ混ぜた。谷の南側には槍兵。さらに少し離れた場所へ、予備の兵を置く。北側――敵が入ってくる方角には、退路を塞ぐための部隊が潜んでいた。

 郭清自身は谷を見渡せる高台にいた。岩に腰を下ろし、膝の上には簡単な地図。傍らには、いつもの酒壺が置かれている。

「霧が深すぎませんか」

 隣に控える南岚の武将が言った。郭清は谷を眺めたまま答えた。

「こちらにも見えませんが、向こうにも見えません。むしろ好都合でしょう」

 郭清は酒壺に手を伸ばした。

「知らない土地で霧の中を進む者ほど、自分の見たいものを見るものです」

 南岚軍が逃げた。援軍は来ない。城まで押し込めば、この戦は終わる。敵には、そう思わせてある。

 昨夜撤収させた村には、慌てて逃げたように見せるため、荷車や食糧の一部まで残した。敵の斥候が、それを見ていることも確認済みだった。

「こちらが怯えて逃げていると思っている間は、多少おかしなことがあっても、自分に都合よく解釈してくれるでしょう」

 郭清は杯を傾ける。

「人は自分が勝っていると思っている時がーー、一番扱いやすい」

 武将は何も言わなかった。


 やがて、谷の北から物音が聞こえ始めた。馬の蹄、鎧の擦れる音。低く交わされる兵たちの声。霧の向こうに、敵の先鋒が現れる。武将が身を強張らせた。

「来ました」

「ええ」

 郭清は動かない。

 敵の先頭が谷へ入る。続いて二列、三列。細い道に、兵が吸い込まれていく。

 まだ郭清は何も命じなかった。

「……まだですか」

「まだですよ」

 敵兵はそのまま進んでいき、先頭はすでに谷の半ばを越えている。後続も次々と入ってくる。

「郭清殿!!」

 武将の声に焦りが混じった。

「このままでは先鋒が抜けてしまいます!」

「そう簡単には、抜けさせませんよ」

 郭清はようやく杯を置いた。

 視線を北へ向ける。敵の後陣が、谷の入口へ差しかかっていた。郭清の目が細くなる。

「今です」

 傍らの兵が旗を振った。

 その直後、谷の北側で轟音が響いた。あらかじめ斜面に用意していた丸太と石が落とされ、街道の一部を塞ぐ。完全に通れなくするほどではない。だが、大勢の兵が一斉に退くことはできない。

 敵兵たちが後ろを振り返った。その瞬間、南側から銅鑼が鳴る。槍兵が一斉に姿を現し、先頭を塞ぐ。前へ進めず、後ろへも退けない。

 ーー敵軍の列が止まった。

「弓!!」

 郭清が叫んだ。

 高所から、矢が降り注ぐ。霧の中で敵兵の姿を正確に狙う必要はない。狭い谷道に密集した兵の上へ、纏まって射かければよかった。敵陣から怒号が上がる。盾を掲げる者、前へ押し出そうとする者、後ろへ戻ろうとする者。命令が幾つも飛び交い、かえって軍列が乱れていった。郭清はその様子を黙って見ている。

「鳥銃は?」

 武将が尋ねた。

「まだです」

「しかし、今なら好機!」

「音は、一度聞けば慣れてしまいます。時期を見定め、相手が一番嫌な時に聞かせましょう」

 敵の先鋒が槍兵へ突撃した。数で言えば敵の方が上である。南岚の兵が押される。一歩、二歩ーー。少しずつ後退する。それを見た敵から歓声が上がった。

「押せ!」

 敵将の声が谷に響く。南岚軍の正面が崩れかけているように見えた。

 だが、郭清は笑った。

「狙い通り、食いつきましたね」

 南岚の槍兵が、予定どおり左側だけを大きく退いた。そこに一瞬の隙間が生まれる。

 敵兵が殺到した。突破できるーー。そう思ったのだろう。兵が次々と狭い一角へ集まっていく。

 郭清が手を上げた。

「撃て!!」

 乾いた破裂音が谷に響いた。

 ーー一発。

 ーー二発。

 ーー続いて数発。

 硝煙が霧と混じり合う。命中した数など、大したものではない。

 だが、すでに混乱しているところへ突然轟いた銃声は、十分だった。

 馬は暴れ、兵が身を屈める。前進が一瞬止まる。そこへ、隠していた予備の槍兵が右側から突入した。敵の側面が崩れる。

「退くぞ!」

 誰かが叫んだ。それが命令だったのか。ただの兵士の叫びだったのか。もはや誰にもわからない。

 一人が後ろへ走る。二人目が続く。それを見た兵がまた退く。軍が崩れる時とは、そういうものだった。命令によってではなく、恐怖が伝わることで崩れていく。敵兵は北へ殺到した。だが街道には石と丸太がある。さらに脇へ逃げようとした者たちは、昨夜のうちに障害を置かれた細い獣道へ入り込み、互いに進路を塞いだ。谷は一気に混乱した。南岚の武将が剣を抜く。

「追撃します!」

「なりません」

 郭清は即座に止めた。武将が振り返る。

「今なら敵を!!」

「今日の目的は、敵を全滅させることではありません」

 郭清は谷底を見下ろした。敵軍はすでに潰走している。

「死ぬまで追えば、向こうも次は死ぬ気で来ます」

「では、このまま逃がすのですか」

「ええ」

 郭清は再び酒杯を手にした。

「負けた兵に、こちらが恐ろしかったと話してもらいましょう。次に来る者たちは慎重になるはずです」

 谷を逃げていく敵兵を眺めながら、静かに続けた。

「慎重になれば、進軍は遅れます。斥候を増やし、兵糧も多く持つでしょう。探索する場所も増える」

 郭清は笑った。

 戦は、午を迎える前にはほとんど終わっていた。


 勝報が城へ届いたのは、午を少し回った頃だった。

「敵軍、北谷にて潰走(かいそう)!」

 伝令兵の声が政庁に響く。

「我が方の損害、軽微! 郭参軍より、追撃の必要なしとの命です!」

 重臣たちから安堵の息が漏れた。麗政も大きく息を吐く。だが、その顔には安堵だけではないものが浮かんでいた。

 麗華には、それが何なのかわかった。兄は国が救われたことを喜んでいる。同時に、自分には決断できなかった策で勝ったことを、悔しく思っている。

「兄上」

 麗華が静かに呼ぶ。麗政はしばらく黙っていた。

 やがて、「……民の犠牲は?」とだけ尋ねた。

「退避した村では、死者は出ていないとのことです」

 伝令が答える。麗政は目を閉じた。

「そうか」

 それ以上は何も言わなかった。

 麗華もまた、胸の中で小さく息を吐いた。

 ――勝った。

 そして、ふと思い出す。昨夜の軍議で交わした、もう一つの約束を。勝ったならば、郭清が自分に求婚することを許す。

 受けるとは言っていない。そのはずなのに、どういうわけか、敵軍のことより、その約束の方が妙に気になった。


 郭清が城へ戻ったのは、夕刻だった。

 白い衣の裾には泥がつき、いつもより少しだけ髪が乱れている。それでも怪我一つない。そして当然のように、酒壺も持っていた。政庁へ入るなり、郭清は拱手した。

「戻りました」

 麗政が立ち上がる。二人の間に、一瞬だけ沈黙が落ちた。やがて麗政が頭を下げた。

「……貴殿の策で、国は救われた。礼を言う」

 郭清は少し意外そうに目を瞬いた。それから、いつものように笑う。

「今日は、でしょう」

 麗政が顔を上げる。

「何?」

「救われたのは今日だけです」

 郭清は地図の前へ歩み寄った。

「向こうは引いただけで、滅びたわけではありません。次はもう少し頭を使って来るでしょう」

「……相変わらず嫌なことを言う男だな」

「よく言われます」

 郭清は悪びれない。麗華は少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。やがて郭清の視線が、こちらへ向いた。

「ああ」

 何かを思い出したような顔をする。麗華は嫌な予感がした。郭清が歩いてくる。そして、麗華の前で止まった。

「麗華殿、勝ちました」

「知っています」

「では、求婚してもよろしいでしょうか」

 郭清は、ごく自然な調子で言った。

 部屋の空気が止まった。麗政の眉間に、みるみる皺が寄る。

「貴様――」

「兄上」

 麗華が先に止めた。昨夜、自分で認めたことだ。勝てば、求婚することを許す。約束は約束だった。麗華は郭清を見る。戦場から戻ったばかりだというのに、この男には達成感らしいものがほとんどない。敵軍を破ったことも。自分の策が当たったことも。すべて当然のことのように受け止めている。そのくせ、今だけは妙に楽しそうだった。

「……どうぞ」

 郭清の眉がわずかに上がる。

「では、麗華殿」

 一度、姿勢を正す。

「私の妻になっていただけませんか」

 あまりにも簡単だった。戦の時ほどの策もない。麗華は思わず目を瞬いた。

「それだけですか」

「はい」

「もっと、何か仰るものでは?」

 郭清は少し考える。

「私はそれなりに皇帝陛下に気に入られています」

「……そうなのですね」

 手ごたえがないとみると、少し考えて口を開いた。

「酒はやめられません」

「それは存じています」

「戦があれば、よく家を空けるでしょう」

「……なにか、長所を仰る気はないのですか?」

「嘘をついて嫁いでいただいても、後で困りますので」

 郭清は真顔だった。

 麗華はしばらく彼を見つめた。この男が何を考えているのか、やはりよくわからない。戦場では人の心を先回りして読むくせに、自分の縁談になると驚くほど飾り気がない。

「少し考えさせてください」

 郭清はあっさり頷いた。

「もちろん」

 麗政が怪訝な顔をする。

「急がないのか?」

「急がせても仕方ありませんから」

 郭清はそう答えると、もう麗華から視線を外した。

「それより、敵はおそらく十日ほどで態勢を立て直します。その前に、北の砦を一つ取り返しましょう」

 麗政が絶句した。

「お前は今、妹に求婚したばかりだろう!」

「ええ、しましたね」

「もう少し余韻というものはないのか!」

 郭清は不思議そうに首を傾げた。

 麗華はとうとう、小さく笑ってしまった。

 春の夕陽が、政庁の柱を長く染めている。国はひとまず残った。敵もまた、まだ残っている。

 そして麗華の前には、昨日まで存在しなかった厄介な問題が一つ増えていた。酒の匂いをまとった、大衡の参軍。郭清、字は奉遠。どうやらこの男との縁は、戦が終わっても簡単には切れそうになかった。

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