出会い
それは春の終わりだった。
南岚国の山々は、萌え出たばかりの薄緑に霞んでいた。南岚国は大衡国の朝貢国として、百年近く平穏を保ってきた小国である。だが今、その平穏は崩れようとしていた。
北に国境を接する隣国が兵を進め、すでに幾つかの砦が落ちている。形式上は和平の約が結ばれているとはいえ、もはや紙切れに等しかった。南岚は大衡を宗主国と仰ぎ、その庇護を受ける立場にある。当然、援軍を求める使者も出した。しかし、大衡が一小国のためにすぐさま大軍を動かすことはなかった。
国主は長く病床にあり、政は長子の麗政が代わって執っている。麗政は義に厚く、民を思う心も強かった。ただ、その正義感ゆえに捨てるべきものを捨てられない性格だった。重臣たちの意見が割れれば、すべてを守ろうとして決断が遅れた。
その妹、麗華は政に口を出せる立場ではない。公主は王位を継ぐ者ではない。それでも彼女は、人知れず軍報に目を通し、兄以上に戦況を理解していた。
窓辺に立ち、遠く霞む山並みを眺めながら、麗華は呟いた。
「……本当に、来るのかしら」
大衡へ援軍を請う使者を出してから、すでに一月近い。返書には、ただ一言に近い文面しかなかった。
――参軍一名を遣わす。
大軍ではない。兵でもない。たった一人の男しか寄越さないと、大衡国は判断したのだ。
しかも、その参軍には大衡皇帝の勅命が与えられ、南岚の軍務に参与する権限まで認められているという。それほどの人物なのか。それとも、大衡にとって南岚とは、その程度の国なのか。誰にも判断がつかなかった。
その日の未の刻を過ぎた頃だった。城門の外に、一騎の馬が止まった。男が一人、馬上から降りる。
名は郭清。字を奉遠という。大衡朝廷より派遣された参軍である。
痩せた身体に白い長衣をまとい、腰には剣より先に酒壺が目についた。目元は眠たげで、長旅の疲れを隠す様子もない。そして、近づけば微かに酒の香りがした。
「南岚の姫君は、どちらです?」
出迎えに並んだ者たちが、一瞬顔を見合わせる。麗政ではなく、最初に姫を尋ねたのだ。
麗華は静かに一歩進み出た。兄が制止しようとする気配を感じたが、小さく首を振る。
郭清の視線が、こちらへ向いた。眠そうな目だった。だが、その奥だけが妙に醒めている。麗政が一歩前へ出た。
「貴殿が、大衡より遣わされた参軍か」
「郭清と申します。字は奉遠」
郭清は軽く拱手した。
「遠路は少々堪えましたが、酒があれば何とかなるものです」
麗政の眉間に皺が寄る。郭清は気づいているのかいないのか、視線を麗政から麗華へ移した。
「貴女が麗華殿ですね」
「はい」
「なるほど」
何がなるほどなのか。麗華が怪訝に思っていると、郭清は口元だけで笑った。
「使者から聞いた通りです」
「何を聞いたのです?」
「この国で、一番静かな方が、一番よく周囲を見ていると」
麗政の表情が変わった。
「政は私が執っている。妹は関係ない」
「そうですか」
郭清はあっさりと頷いた。反論すらしない。
ただ麗華へ向けて、「では、後ほど地図を見せてください」と言った。
「一人で来た以上、長居はしたくありません。早く終わらせましょう」
援軍として現れた男とは思えぬほど、緊張感のない声音だった。
政庁の一室に、大きな地図が広げられた。
南岚北部の山岳、谷、街道、村落。敵軍の進路。砦の位置。各地に配された南岚兵の数。麗政が上座につき、その左右に重臣たちが並ぶ。麗華は末席に近い場所へ座った。郭清だけは席につかず、地図の前に立っていた。片手には、いつの間にか酒杯がある。
「現状を」
麗政が説明を始める。北方の砦が二つ落ちたこと。敵兵が谷沿いに南下していること。南岚軍は兵力で劣り、各所の守備に兵を割いた結果、まとまった戦力を作れずにいること。郭清は黙って聞いていた。やがて、地図の一点を指差した。
「ここに村がありますね。敵の斥候は出ていますか?」
重臣の一人が答えた。
「数名が出入りしているとの報告が」
「これは、追わなくて結構です」
「何?」
麗政が眉を上げる。郭清は杯を置いた。
「むしろ、見せましょう」
「何をだ?」
「我々が負けているところを」
部屋が静まる。郭清は地図の上を指でなぞった。
「この村を捨てます。民は今夜のうちに南へ退かせ、守備兵も引く」
「捨てるだと?」
麗政の声が強くなった。
「民の暮らす土地を、そう簡単に――」
「もちろん、民は事前に逃がします」
郭清は淡々と返した。
「家はまた建てられる、畑も作り直せる。ーーしかし、死者は戻りません」
麗政が言葉を詰まらせる。郭清は続けた。
「兵を退かせる際、わざと慌てているように見せてください。荷を幾つか置いていくのもいい。敵の斥候には、『南岚軍は援軍を得られず、守備を縮めて城へ退いている』と思わせるのです」
麗華は地図を見つめた。その先にあるのは、北から南へ続く狭い谷道だった。
「敵を……誘うのですか?」
郭清の視線が麗華へ向く。
「ええ」
口元に笑みが浮かんだ。
「待ち伏せを警戒する敵に、『谷へ入れ』と言っても入りません」
指先が谷道を軽く叩く。
「だから、自分から入りたくなるように仕向ける」
重臣の一人が低く唸った。郭清は続けた。
「敵は急いでいます。大衡が大軍を送る可能性が消えたわけではない。長引けば長引くほど、不利になるのは向こうです」
「だから、こちらが崩れたと思えば追撃してくる、ということですね」
麗華が言う。
「その通り」
郭清は満足そうに頷いた。
「兵をここへ集めます」
指が谷の出口を示す。
「両側の高所に弓兵と鳥銃を持った兵を置く。正面には槍兵。先頭を止めて、後ろを詰まらせればいい」
「しかし、敵が別の道を選べば?」
麗政が問う。
「選ばせません」
郭清は即答した。
「敵の斥候が持ち帰る情報も、村に残す痕跡も、退去していく兵の姿も。すべて、一つの答えを示すようにするのです」
そして、ゆっくりと酒杯を持ち上げた。
「敵に選択肢があると思わせたまま、こちらの望む道を選ばせる。それが一番楽です」
誰もすぐには口を開かなかった。麗華は地図を見つめる。無謀ではない。むしろ、今ある兵力で戦うなら、この方が理に適っている。麗政が低い声で言った。
「村を捨てることには、まだ賛成できん!」
郭清は兄ではなく、麗華を見た。
「姫は?」
突然問われ、麗華は一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに地図へ視線を戻す。
「民を先に逃がすことができるなら、私は賛成します」
「麗華!? お前まで……」
「兄上! 今の兵力で、すべてを守ることはできません!」
麗政の顔が強張る。麗華も、それ以上は言わなかった。郭清だけが、少し笑っていた。
「やはり、話が早い」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ、麗政殿」
郭清は酒杯を取り上げた。
「では、これで」
「まだ決定したとは……!」
「決めてください」
郭清の声音が、初めて少しだけ低くなった。眠たげだった目が、鋭さを帯びる。
「敵は、こちらの軍議が終わるまで待ってはくれません」
麗政はしばらく郭清を睨んでいた。やがて、拳を握ったまま頷いた。
「……民は、必ず先に逃がせ」
「もちろん」
郭清はすぐに普段の調子へ戻った。
「死んだ民から、税は取れませんからね」
重臣たちが何とも言えぬ顔になる。麗華だけが、僅かにくすりと口元を緩めた。
その夜から、城は一気に動き始めた。
北の村では、住民を南へ移す準備が始まった。兵は夜陰に紛れて配置を変え、食糧は谷の南側へ集められた。味方の斥候には、敵の斥候を追い払わないよう命じられる。
さらに郭清は、退却する兵に荷車を一台だけ置き去りにさせた。中には、半分ほど米が残されている。
「もったいない」
役人が呟くと、郭清は言った。
「敵に拾わせるためですよ」
郭清は笑った。
「本当に罠だと思っている道なら、人は慎重になります。慌てて逃げた跡を見れば、疑いは少し薄れる」
麗華はその様子を横で聞いていた。
この男は、兵だけを動かしているのではない。敵が何を見て、何を考えるかまで動かそうとしている。三日で、大枠の準備が整った。兵の移動、糧食の配分、斥候の配置、弓兵と鳥銃手の位置。郭清は細部まで確認した。だが不思議なことに、忙しそうには見えなかった。夜になれば酒を飲み、地図を眺め、眠くなればさっさと寝た。徹夜で策を練るような様子もない。
ある夜、麗華が回廊を歩いていると、柱にもたれて月を眺める郭清と出会った。手には酒壺がある。
「まだ起きていらしたのですね」
麗華が言う。
「姫こそ」
「眠れないのです」
「それはお気の毒に」
郭清は酒を一口飲んだ。
「私はよく眠れますよ」
「明日にも戦が始まるかもしれないのに?」
「だから眠るんです」
あっさりした答えだった。麗華は思わず彼を見る。郭清は月を見たまま言った。
「戦は、始まる前が一番面白い」
「面白い?」
「ええ」
少し楽しそうに笑う。
「敵が何を考えているか。何を恐れているか。何なら信じるか。それを考えて、一つずつ道を塞いでいく」
酒壺が静かに揺れる。
「始まってしまえば、あとは手順です。読むべきものを読んで、動かすだけですから」
麗華はしばらく黙った。
「……郭清様は、本当に勝つつもりなのですね」
「もちろん」
今度は即答した。
「負けに来るほど、暇ではありませんので」
春の夜気に、微かな酒の香りが溶けた気がした。
四日目の夕刻。
敵軍が予定通り北の村へ入り、そのまま南下を始めたとの報が届いた。敵は、南岚軍が総崩れになりつつあると見ているらしい。郭清の読み通りだった。政庁に人が集められる。地図の前に立った郭清は、報告を聞き終えると頷いた。
「明日の昼までには、先鋒が谷へ入るでしょう」
麗政が問う。
「勝算はどれほどだ?」
郭清は少し考えた。
「敵がこちらの用意した道を最後まで歩いてくれるなら、八分」
「八分……」
「十割勝てると言う軍師は、詐欺師ですよ」
郭清は肩を竦めた。何人かの重臣が顔を見合わせる。
郭清は地図から顔を上げた。そして、唐突に言った。
「ところで」
麗政が嫌そうな顔をする。
「何だ?」
「勝った後の褒美について、先にお願いしておきたいのですが……」
麗政の眉が跳ね上がった。
「褒美だと?」
「働く前に約束していただいた方が、こちらも励みになりますので」
郭清は平然としている。
「金か?」
「ご心配なく。お金なら、大衡に戻れば困りません」
そう言って、郭清は麗華を見た。その瞬間、麗華は嫌な予感がした。
「この戦に勝ったら」
郭清は酒杯を置いた。
「麗華殿に求婚する許しをいただきたい」
部屋が静まり返った。
麗華自身も、何を言われたのか、一瞬理解できなかった。最初に反応したのは麗政だった。
「ふざけるな!」
勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る。
「妹を何だと思っている!?」
郭清は首を傾げた。
「嫁に寄越せとは言っていませんよ?」
「同じことだろう!」
「いいえ、全く違います」
珍しく、郭清が真顔になった。
「私は、求婚する許しをいただきたい、と申し上げたのです」
そして麗華へ目を向ける。
「断るかどうかは、麗華殿がお決めになることです」
麗政が言葉を失う。郭清は、少しだけ口元を上げた。
「私は戦に勝つことはできますが、女心まで策でどうにかできるとは思っておりませんので」
「……よく言う」
麗華の口から、思わず言葉が漏れた。郭清の目が細くなる。
「お嫌ですか?」
「なんと、お答えしたらいいのかしら」
「では、勝ってから考えてください」
あまりにも平然と言うので、腹が立つより先に呆れてしまった。麗政は到底納得していない様子だったが、麗華は兄より先に口を開いた。
「いいえ、私は決めました。よろしいでしょう」
「麗華!」
「求婚を許すだけです」
兄を制し、郭清を見る。
「受けるとは、申し上げておりません」
「それで結構です」
郭清は満足そうに拱手した。
「では、明日は心置きなく勝てます」
麗政は額を押さえた。
「お前は、そんな話をするためにここへ来たのか?」
「いいえ」
郭清は再び地図へ視線を落とした。
「勝つために来ました」
指先が谷をなぞる。その瞬間にはもう、麗華との話など頭から消えたようだった。
「先鋒がここへ入ったら、まだ撃たない。三分の二まで通します」
部屋の空気が、再び戦のものへ戻る。
「敵の後陣が谷へ入り始めたところで、北側を塞ぐ。正面は槍隊で止める。弓と鳥銃は、私の合図まで待機」
麗華は郭清の横顔を見つめた。
酒好きで、不真面目で、人を食ったような男。それなのに戦を語る時だけは、眠たげな瞳から一切の濁りが消える。
初戦は、明日始まる。
その夜、自室へ戻った麗華は窓を開けた。冷たい春の風が入り込み、遠い山の匂いを運んでくる。
敵軍はもう近い。明日になれば、人が死ぬかも知れない。郭清の策が外れれば、この国も危うい。それでも、不思議と昨日までのような不安はなかった。
麗華は暗い山並みを見つめながら、小さく呟いた。
「……まずは、勝ってもらわないとね」




