番外編4 附票(女の父編)完結
私は逃げていない。
六十回払った。毎月二十五日、五万円。一度も遅れていない。法律上、親に支払いの義務はないと弁護士に言われた。それでも払った。そういう筋の通し方しか、私にはできなかった。
前の晩、娘が来た。
私は居間でテレビを見ていた。野球だったと思う。娘が入ってきて、「お父さん」と言った。
私はテレビを消さなかった。
それだけだ。消さなかったというだけのことだ。娘は少し立っていて、それから「なんでもない」と言って出ていった。
明日は早いんだから寝なさい、と私は言った。優しく言ったつもりだった。
あのとき消していれば違ったのか、と言われれば、それまでだ。だが、娘は「なんでもない」と言ったのだ。私が追い出したわけではない。
当日の朝、私は彼と廊下ですれ違った。
彼は頭を下げて、今日はよろしくお願いします、と言った。私は「ああ」と言った。
顔は見なかった。
見れば、何か聞かれると思った。何を聞かれると思ったのか、自分でもわからない。私は何も知らなかった。娘が何を考えているかなど、知りようがない。
ただ、あの朝、娘は朝食を食べなかった。それは覚えている。
バージンロードの途中で、娘が止まった。
私は腕を引いた。
強くは引かなかった。人が見ている。ドレスは借り物だ。破れれば弁償になる。あの場で娘を引きずるわけにはいかない。九十人が見ていた。
そう考えたことを、私は覚えている。あの一秒で、私はドレスの弁償のことを考えた。
力を入れていれば止められたのか。わからない。止めたところで、その先どうしたのかもわからない。
娘は腕をほどいて、出ていった。私は「待て」と言った。声は出した。追いはしなかった。
追えばよかったと言う人がいる。あの状況で、六十過ぎの男が娘を追いかけて捕まえて、それで何が変わったのか、教えてほしい。
私はその場で膝をついて、費用は全部こちらで持つと言った。
あれしかできることがなかった。金の話は計算できる。ほかのことは計算できない。
彼のお父さんは私に詰め寄って怒鳴った。ありがたかった。怒鳴られている間は、何も考えなくていい。
彼は封筒を突き返した。当然だ。私が逆の立場でもそうする。
それでも置いてきた。彼のお母さんが受け取ってくださった。あの方はしっかりした方だ。あの家には、あの方がいてよかったと思っている。
三か月後に内容証明が届いた。
三百万。弁護士に見せた。娘本人に対する請求であって、親には義務がないと言われた。妻がそれを聞いて、黙っていた。
私は払うと言った。
払っている間は、私は何かをしていることになる。それが大きかった。娘を探すのでもなく、謝りに行くのでもなく、毎月二十五日に五万円を振り込む。それが私の五年間だった。
役所の窓口には、一度だけ行った。
戸籍の附票というものがある。直系の親なら取れる。娘が転入届を出していれば、いまの住所がそこに載る。
用紙をもらった。名前まで書いた。
窓口の列に並んで、二人前で、私は列を出た。
理由はある。
あれを出して住所がわかれば、私は何かを決めなければならなくなる。連れ戻すか、行って謝るか、それとも見なかったことにするか。三つのうちどれかを選ばなければならない。
出さなければ、選ばなくていい。
卑怯だと言われれば、そうだろう。だが、選んだうえで見捨てるより、選ばずにいるほうが、まだ娘に対して誠実だと私は思っている。
冬に、娘から電話があった。
妻が出た。私は隣の部屋にいた。聞こえていた。
替わらなかった。
替われば、何か言わなければならない。金の話しかできない。金の話をすれば、それで終わりになる。
妻は、居場所を聞かなかった。あとで理由を聞いたら、「聞いたら、あんたが行くって言い出すでしょう」と言われた。
妻は私より、私のことをわかっていた。
妻は去年の十一月に死んだ。
娘には知らせていない。住所を知らないのだから、知らせようがない。それだけのことだ。
通夜も葬儀も、身内だけでやった。下の娘の家族と、親戚が数人。それで十分だった。
あの日、誰も来なかった。
四十九日も同じだった。斎場を出て、駐車場で車に乗って、まっすぐ帰った。何も変わったことはなかった。
最後の振込は、今年の一月だった。
六十回目を出して、通帳に記帳した。行が一つ増えて、それで終わりだった。
何か言われるかと思っていた。誰からも何もなかった。当たり前だ。私は義務のない金を勝手に払っていただけだ。
用紙は、まだ引き出しにある。
書き損じでもないので、捨てていない。名前まで書いてあるので、出せばそのまま受け付けてもらえるはずだ。
あれを出せば、一週間で娘の住んでいるところがわかる。
出していない。
出さないかぎり、私はまだ、娘を探している途中だということになる。
六十回、払った。
私は逃げていない。
(了)
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