第一話 晴天
式場に着いたのは朝の八時半だった。
駐車場で黒いワゴンとすれ違った。式場の業者だろうと思った。運転席の男が窓越しにこちらを見ていた気がしたが、確かめる前に建物の影に入った。
控室で父がネクタイを直してくれた。「曲がってる」と言いながら、父の手も震えていた。母は入ってきてすぐに泣いて、すぐに「泣くのは後」と言って化粧を直しに出ていった。
窓の外は雲ひとつなかった。天気予報は曇りだったのに、朝になったら晴れていた。運がいいと思った。
前日のリハーサルは夕方に行われた。
バージンロードを歩く速さ、指輪を渡す順番、立ち位置まで細かく指示される。プランナーの女性が「新婦様、もう少しゆっくりで大丈夫ですよ」と何度か声をかけていた。彼女は歩くのが速かった。三回やり直して、三回とも速かった。
終わってから、彼女が「明日、大丈夫かな」と言った。
僕は「大丈夫だよ」と答えた。何が大丈夫なのか、僕は聞かなかった。
誓いの言葉は、二人で書いた。文例集をもらって、そこから直していった。彼女は最初「そういうの恥ずかしい」と言っていたのに、結局、彼女の担当分の方が長くなった。僕は自分の分を通勤の電車で覚えた。三週間かけて、つっかえずに言えるようになった。
小学生の頃、彼女と裏山に秘密基地を作った。段ボールとブルーシートで、雨が降れば三十分で潰れるようなものだった。それでも僕たちは毎日そこに通った。彼女はそこで、大人になったら何になりたいかを話した。看護師、パン屋、外国で暮らす人。日によって全部違った。僕は毎回「いいと思う」と答えた。彼女はそのたびに笑った。
あの頃から、僕は彼女の言うことに反対したことが一度もなかった。
九時前に、大学の友人が控室を覗きに来た。スピーチの原稿を見せてきて、「ここ笑うとこだから、ちゃんと笑って」と言った。僕は読んで笑った。彼はそれで満足して出ていった。
その原稿は、結局、読まれなかった。
九時を過ぎて、介添えの女性が挨拶に来た。「花嫁様、もう仕上がっておられますよ」と言ってから、少し声を落とした。
「少し感極まってしまわれて、お化粧を直しています。よくあることですので」
僕は笑って「そうですか」と答えた。目が赤いのは、嬉しいからだと思った。
廊下で彼女の父親とすれ違った。「今日はよろしくお願いします」と頭を下げた。彼は「ああ」と言った。それだけだった。ネクタイの結び目を何度も指で押さえていて、最後まで僕の顔を見なかった。緊張しているんだろうと思った。娘を送り出す日なのだから。
スーツの内ポケットで携帯が震えた。友人からの「今どこ」だった。開いたついでに、彼女とのやりとりが目に入った。
昨日の夜、彼女から一通だけ来ていた。
『明日、ちゃんと話すね』
僕は『誓いの言葉、噛まないようにする』と返した。既読がついたのは日付が変わってからで、返事はなかった。
緊張して眠れなかったんだろうと思った。
十一時。パイプオルガンが鳴った。
高い天井に音が反響して、話し声が消えていった。列席者の視線が一斉に扉へ向かう。自分の心臓の音が聞こえた。白い手袋の中で、指先が濡れていた。
扉が開いた。
光が差し込んで、その中に彼女がいた。父親と腕を組んで、ゆっくりと歩いてくる。ドレスの裾が床を擦る音がした。
彼女は僕を見なかった。
ベールの向こうで、視線がずっと足元にあった。緊張しているんだ、と僕は思った。三度目だった。今日、僕がそう思ったのは。
歩くのは、リハーサルよりも遅かった。
バージンロードの半ばで、彼女が足を止めた。
父親が腕を引いた。彼女は動かなかった。
扉の脇に、男が立っていた。
黒いスーツ。列席者ではなかった。招待客の顔は全部覚えている。僕は覚えるようにしていた。彼女の友人も、親戚も、名前と顔を一致させて、当日ちゃんと挨拶できるように。
その男だけ、知らなかった。
男が手を差し出した。
「行こう」
大きな声ではなかった。教会の隅まで届く声でもなかった。ただ、彼女には届いたらしかった。
彼女は父親の腕をほどいた。
振り返って、僕の方へ歩いてきた。一瞬、何かの間違いだったのだと思った。彼女はまっすぐ僕の方へ来て、そのまま——
通り過ぎた。
ドレスの裾が、僕の靴の先をかすめていった。
僕はまだ、誓いの言葉を暗記したままだった。
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