人類の期待
数百年後――。
あの大決戦の末に神という絶対の存在が消え去ったこの世界からは、かつて誰もが当たり前に授かっていた「信託」という概念が完全に消滅した。
当時は世界中で大きな混乱を招いたものの、それでも、人類は強かった。
人々は立ち止まることなく、この世界の大気に漂う魔素の研究を独自に進めたのだ。
その結果、今や自らの肉体で魔素を練り上げることで、まるでかつて神の信託を受けたかのような驚異的な効果を、その身に宿らせることができるようになった。
世界には今も魔王がいて、勇者がいる。
神の信託ではなく、自らの努力の果てに魔素を身につけるという形で、かつてと変わらない活気に満ちた世界が、そこには確かに続いていた。
――旧魔王城――
「ネフィリア。なんだか、今日はやけに城内が静かだね」
「今日は北の国から新しい勇者が来るって、事前に伝えておいたでしょう。余計な混乱が起きないよう、従者たちは皆、すでに一時避難させてあるわ」
そう応えたのは、冥氷の魔族ネフィリア。
かつて彼女の全身を包んでいた、周囲のすべてを凍てつかせるような鋭い冷たさは陰を潜めている。
月夜の光に照らされたその表情からは、まるで美しい氷晶のような、透き通るような温かさが静かに窺えた。
「それよりレヴァナス。あなた、最近どうにも魔王としての威厳がなくなってきたんじゃないの?」
普段通りの厳しさは崩さぬまま、ネフィリアは少し呆れたように言い放つ。
「そうは言ってもね。この姿で威厳を保てという方が、少々無理な話というものじゃないかい?」
レヴァナスと呼ばれたその存在は、厳格という言葉とはおよそ正反対の、不格好でどこか可愛らしい『ドラゴンのぬいぐるみ』の姿のまま、部屋に置かれた姿見の前で、よじよじと己を動かし、姿をまじまじと見回していた。
布でできた顔の表情までは分からない。
しかし、その声のトーンからは、きっと彼がいつも通り優しく微笑んでいるのがよく分かった。
それが、今の無力な自分に対しての苦笑いなのか、あるいは、ネフィリアが彼の核を守るために丹精を込めて作ってくれたこの器への愛おしさゆえなのかは、誰にも分からないが。
「もうそろそろ、元の姿に戻ってもいいんじゃないか?」
「ダメよ。あなたの魔力はまだ完全に安定していないの。今人型に戻ろうとしたら、一瞬で魔力とともに飛散してしまうわ。今度こそ消滅するわよ」
ネフィリアは相変わらず厳しい言葉を言い放つ。
あの決戦の時、勇者アルスの体内に残されていたレヴァナスの魔力。
高位の魔族は自身の魔力を蓄える核さえ残っていれば、たとえ肉体が消滅しようとも、いずれ長い時をかけて復活を遂げる。
神の消滅とともに魔王という役割の縛りが消えれば、レヴァナスもまた生命として消滅するはずであったが、神が消え去った瞬間、すでに魔力の核をアルスに宿していたレヴァナスは、世界の消滅に巻き込まれることなく生きながらえたのだ。
そして今、彼の生命の核が霧散してしまうのを防ぐため、ネフィリアが夜なべをして手作りしたぬいぐるみに、その核を一時的に宿らせている。
少しだけ得意げにそのぬいぐるみを見つめる彼女の横顔には、かつて人間を深く憎んでいた冷徹な魔族の面影など、もうどこにもなかった。
「……それにしても、ここ数年は、わざわざ私の城を訪ねてくる勇者の来訪も随分と増えてきたね」
ぬいぐるみという微笑ましい姿になってもなお、彼の紡ぐ発言には、かつての深い温かさがあった。
「はぁ……。この城で魔王と戦った勇者たちは皆、自分の努力不足を痛感して帰っていくって、今や人間たちの間では有名な話なのよ」
ネフィリアは不満そうに小さく溜め息を漏らしたが、その表情のどこかには、人間たちの確かな成長に対する満足そうな色が浮かんでいた。
かつての、互いの存在を抹殺し合う魔王と勇者の関係は、もうここにはない。
今の魔王は、向かってくる勇者を圧倒的な戦力差をもって叩きのめして撃退し、敗れた勇者は、更なる高みを目指して再び血の滲むような成長を誓う。
それはその昔――魔王に幾度負けようとも決して諦めずに立ち上がり、ついには魔王と手を取り合って世界の崩壊という更なる脅威へと立ち向かった、【伝説の勇者】の生き様に倣っているのだろう。
まぁ、魔王や魔族たちと直接の友好関係を築いているのは各国のほんの一部のお偉いさんだけであり、人類のほとんどは今なお魔族を「世界の脅威」と見なしたままであるのだが……。
それでも、かつての世界に比べれば、信じられないほど大きく前へと進歩したものだ。
「――来たわ。……じゃあ、私とレヴァナスは奥の部屋へ下がっているわね。あまり彼らをいじめすぎないであげてよね」
ネフィリアは、レヴァナスのぬいぐるみをその細い腕にそっと抱き上げると、部屋の中心に佇む俺を一人残して、静かに部屋を去っていった。
――
バァンッッ!!! と、重厚な玉座の間の扉が、勢いよく左右へと押し開かれた。
そこに立っていたのは、自らの努力で限界まで魔素を練り上げ、自らの意志でその剣を握り締めた、次世代の若き輝きを放つ勇者一行だった。
「魔王アルス!! お前に私怨はないが、世界の平穏のため、今ここで討伐させてもらう!!」
迫り来る若き勇者の、燃え盛るような鋭い眼光。
俺は、かつて遠い昔に出会った「あの男」の不敵な姿を目の前の若者に重ね合わせながら、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「……無駄なことを」
俺は静かに、今日もまた、向かってくる勇者へと向けて、漆黒の魔素を纏わせた右の手のひらをまっすぐに突き出す。
あの日、友の放った魔王の莫大な魔素をその身に宿したことで、俺の肉体は、人間でありながら果てのない永遠の寿命を得ることとなった。
人は弱い。
だから迷う。
だから挫ける。
だから、何度でも負ける。
――でも。
人は、期待がある限り立ち上がれる。
かつて俺がそうだったように。
だから今日も、俺はここに立つ。
次の時代を切り拓く、新たな勇者たちを待ちながら。
この世界のすべての人類は、
今もなお、この俺に――期待し続けている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




