第一話
「今日は来てくれてありがとう、ユノ」
まるまると太ったこの人は、私の婚約者。
いつも通り、馴れ馴れしく話しかけてくる。
それでも一応、公爵家の人。
だから、子爵家の娘の私は逆らえない。
本家への多額の援助と引き換えに、私は奴隷になるのだ。
「お気になさらないでください。婚約者として当たり前のことですから。
こちらこそご招待ありがとうございます、エンダ様」
美しい婚約者を周囲に見せびらかしたいだけだ。
当たり前とでも言うように、エンダ様は言う。
……私は美しくなんかないのに。
同じ子爵家でも、他の娘のほうが、よっぽど美しい。
お姉様や妹でさえ、私より見目がいい。
なのにどうして私が、と思った途端に思い出す。
……見目が良くないから、私が選ばれたことを。
お父様がこちらを見る。
私はそっと、目をそらしてエンダ様の方を見た。
「エンダ様」
そう呼ぶと、満足そうな顔で微笑む。
今日はご機嫌らしい。
「ユノ」
こちらへ、と言うエンダ様。
頬に湿った感触がした。
その感触はすぐに離れる。
代わりに、髪に触れられる。
「綺麗な髪だな。まるでウィール神のようだ」
そんなこと言わなくて良い。
だからやめて。触れないで。
その言葉は、少し遠くから見ている父によって封じられる。
髪にもキスをされそうになったその時、声が聞こえた。
「今日は我が息子、アインの婚約パーティーへの参加、感謝する」
陛下のその言葉に、はっとする。
そうだ、今日はアイン殿下のパーティーに来たんだ。
キスを諦めたエンダ様の腕に自分の腕を絡ませながら、陛下の話に耳を傾けるふりをする。
実際は、機嫌を損ねそうなエンダ様を見ていた。
そんなことをしているうちに、話は終わっていて。
彼に身を任せて、ダンスホールの真ん中とも端とも言えない場所で踊りだす。
1曲踊った後、私はそっと絡めていた腕を離す。
「疲れたので、しばらく休ませていただきますわ」
そう言って、彼から離れる。
「あぁ、わかったよ。ゆっくり休んでおいで」
そんなエンダ様の言葉を無視して、私は壁の方に向かう。
風が私の髪をさらう。
風だって、触れたことを謝ってはくれない。
けれど、さっきとは違って、嫌とは思わなかった。
こんなことをしていられるのも、あと3ヶ月か。
そんなことを思っていたそのとき、声が聞こえた。
「お嬢さんは踊らなくて良いんですか?」
いきなり話しかけられる。
何を言えば、と黙っていると、相手が再び口を開く。
「いきなりすみません。俺はアイク・シュバルツ・グランファレス、今日の主役の弟です」
「アイク殿下でしたか。先程までの無礼をどうかお許しください。
わたくしはユノ・ヴァレンタイン、以後お見知り置きを」
そう言って、いつぶりかもわからない淑女の礼をする。
マナーの先生に怒られないように、気をつけながら。
「別に気にしてません。ですから顔をあげてください」
そう言われて、顔を上げた。
ちらりと右を見ると、エンダ様と誰かが踊っていた。
ずっとそのままで居てほしいと、思ってしまう。
彼らの方をしばらくのあいだ見ていると、
「大丈夫ですか?ヴァレンタイン子爵令嬢」
そう、声をかけられた。
そこで初めて、アイク殿下がいることを思い出す。
「申し訳ございません、アイクさ……失礼しました。アイク殿下」
別にアイクで構いませんよ、という殿下。
「そんな恐れ多いこと、わたくしには出来ませんわ。
第一、私にはエンダ様という婚約者がおりますので……」
私の声がだんだんと聞こえなくなる。
代わりに楽団の演奏の音が、一層強くなる。
そろそろ、舞踏に戻らなければ。
「わたくしはそろそろ戻りますわ。……ご機嫌よう、アイク殿下」
そう言った直後、アイク殿下に腕を掴まれる。
「良かったら、1曲俺と踊っていただけませんか?」
そう言われて、エンダ様の方を見る。
エンダ様は他の、先程とはまた違う女性と踊るみたいだ。
「1曲だけでしたら……」
そう言った直後、舞台の方へ手を引かれる。
いわゆる、エスコート。
けれどそれは、今までされたエスコートとは違う、優しい手つき。
舞台の端の方に着くと、今度は背中に手を回された。
次の瞬間、視界が揺れる。
音楽が鳴り出す。
アイク殿下に持ち上げられる。
動きかたは、エンダ様と同じ。
けれど、動きが滑らかだ。
それに、嫌だとは思わない。
隣のペアに少しぶつかる。
それでも気にせずに、私達は踊り続ける。
この時間が、永遠に続けばいいのに。
そう思ってしまうほどに、楽しかった。
エンダ様の顔を、見るまでは。
エンダ様は、今まで見たことないくらいに顔を険しくさせていて。
無理やりに、笑顔を作る。
そうすると、エンダ様は更に顔を険しくさせて。
どうしたら良いのか、私にはわからなくなっていた。
振り付けを間違えて、アイク殿下の足を踏んでしまう。
「ごめんなさい」
気づいたら、その言葉が口に出ていた。
大丈夫、というアイク殿下を余所に、
私はエンダ様の方を見ていた。
そんなことをしていたからか。
今度は足をくじきそうになる。
あ、やばい、と思ったその時。
腰に手が添えられる。
瞬間、私は持ち上げられた。
「大丈夫ですか?先程からシュバルツ公爵の方ばかり見ていますが……」
「ええ、大丈夫ですわ。……元々この曲が終わったら、あの人の元へ戻る予定でしたから」
そうだ。
私の帰る場所は、アイク殿下のそばではない。
エンダ様のそばなのだ。
エンダ様を愛し、エンダ様に愛される。
そんな良好な関係を、演じなきゃいけない。
その思いは婚約してからずっと変わっていないはずなのに、なぜだか悲しくなる。
曲の終わりが近い。
嫌だ、離れたくない。
どうしても、そう思ってしまう。
その思いは、すぐに膨らんでいく。
その思いが膨らみきる前に、アイク殿下から離れた。
「さようなら、アイク殿下。」
曲はもう、終わっていた。
すぐに、エンダ様の方へ向かう。
「エンダ様」
『申し訳ございません』
そう言おうとしたとき、私より先にエンダ様が口を開いた。
「どうして、アイク殿下と踊っていたんだい?」
「……申し訳ございません」
謝らなくていいから、理由を教えてほしい。
そう言う彼は、とても恐い顔をしていて。
思わず、俯いてしまう。
「エンダ様が他の方と踊っている時に誘われたから、です」
「……そうか。私も婚約者の前で別の女性と踊るなんて失礼なことをした。次からは気をつける」
私なんかより、他の公爵令嬢と踊るほうが余程政治的価値があるだろう。
別に踊っていていいのに。
私に、近寄らないで。
「……わかりました。次からはわたくしもそうさせていただきます」
どんなにそう思っていても、口から出るのは別の言葉。
そろそろ、このパーティーも終わるだろうか。
月が、上へ上へと昇っていく。
「踊ろう、ユノ」
そんなこと言わないで、もっと他の人と踊っていて。
その手で、私に触れないで。
「はい、エンダ様」
抵抗出来ない程の力で、手を引かれる。
抵抗なんて、しないのに。
楽団が、再び音を鳴らす。
周囲の人達よりワンテンポ遅れて、エンダ様が回る。
きつく握られた手の痛みが、ここが現実であることを感じさせる。
離れたころには、赤くなっているだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、彼に合わせて踊った。
グランファレス歴八四八年、七月二九日。
ペレッティ公爵令嬢と、グランファレス帝国第一王子、アイン殿下との婚約パーティー。
そんなめでたい日に、彼らは出会った。
出会ってしまった。
ユノ・ヴァレンタイン。
彼女の本当の地獄は、ここから始まった。




