「君を愛することはない!」と言われましたので、殿下の愛人と対面することにしました
窓から差し込む午後の陽光が、ポコペン王国の王太子執務室の床に、ステンドグラスの模様を鮮やかに描き出していた。埃が光の粒となって、穏やかに舞っている。
「君を愛することはない」
これから夫になるペンロン王太子に、その言葉を告げられたアメリアは、驚かなかった。
それよりも、窓の外に広がる庭園の緑がなんと美しいことか、とぼんやり考えていた。
ハイソランド王国から政略結婚のために輿入れしてきたアメリア王女にとって、この言葉は予想の範囲内だった。
この政略結婚は互いの国の結びつきを強めるための、いわばビジネスに近い契約だ。愛情など二の次、三の次。
王太子妃としての公務をこなし、国の利益を守ることができれば、それで十分。
アメリアは淡いラベンダー色のドレスの裾を整え、穏やかな笑みを浮かべた。十七歳の彼女は、鏡の前でいつも練習してきた「完璧な姫君」の表情を崩さない。
「承知いたしました、ペンロン殿下」
そう言ったアメリアの瞳には、落ち着きと知性の光が宿っていた。
幼い頃から英才教育を受けた彼女は、一般的な教養にとどまらず、帝王学から魔法学まで習得している。才色兼備の姫として、周辺諸国からも一目置かれているのだ。
その矜持が、今の彼女を支えていた。
「殿下がどなたを愛されていようと、王太子妃としての私の立場と、両国の友好関係を損なうものでなければ、異存はございません」
理性的で、過不足のない返答。我ながら完璧だと思った。
しかし、目の前に座るペンロン王太子の表情は、どこか晴れない。
彼は少しだけ肩を落とし、申し訳なさそうに眉を下げた。どこにでもいそうな、線の細い優しげな青年。それがペンロンの印象だ。
「……君がそう言ってくれると助かる。だが、彼女は本当に素晴らしいんだ。君にも、いつか理解してもらえるといいのだけれど」
「彼女」という響きに、アメリアの胸の奥で微かな火種がくすぶった。
政略結婚の相手として来ることを知ったとき、周囲からは「殿下は非常に慈悲深く、動物を愛する優しい方だ」と聞いていた。
だが、まさか既に深い関係にある女性がいるとは。
割り切ると決めたはずだった。
しかし、王太子妃としてこの国にやってきた以上、ペンロン殿下の周囲にどのような女性がいるのか把握しておく必要がある。
もしその女性が野心家で、王室の秩序を乱すような者であれば、早めに手を打たねばならない。
「よろしければ、どのようなお方か伺ってもよろしいでしょうか」
アメリアが問いかけると、ペンロンの表情がパッと明るくなった。その変わりようは、まるで年頃の少年が初恋の話をする時のそれだった。
「ああ!もちろんだ。彼女は、言葉では言い尽くせないほど愛らしいんだよ!」
頬を紅潮させながら、彼は続ける。
「瞳は黒真珠のように濡れていて、毛並みは極上のベルベットよりも柔らかい」
愛人の髪を撫でるように手を動かしてみせる彼を、アメリアは静かに見つめた。
「私がそばに行くと、いつも嬉しそうに鼻を鳴らして寄ってきてくれる。彼女のためなら、王宮のどんな贅沢も惜しくないと思えるほどなんだ!」
(よほどご執心なのね)
アメリアは淑やかに微笑みながら、心の中で冷静に分析を続けた。
そこまで溺愛されているとなると、相手は相当な才女か、あるいは男性の庇護欲を掻き立てる術に長けた人物なのだろうか。
「黒真珠のような瞳……随分と、美しいお方のようですね」
「ああ、本当に!私はドレスも宝飾品も食事も、彼女には最高級のものを与えているんだ」
(愛人に贅沢三昧させているのは良くないわ)
アメリアは少々心配になった。愛人にどの程度の予算が割り振られているのか、あとで文官に確認しなければならない。
「その方は王宮でどんな風に過ごされていますの?ご趣味などは?」
ペンロンは考えるように首を傾けた。
「うーん、彼女はあまり活発じゃないし、いつも私の側で大人しくしているのだけれど」
そして、ポンと手を打つ。
「そうそう!彼女は風呂が好きだ。私が体を洗ってあげると、目を細めて喜ぶんだ」
(……え?)
アメリアの思考が、一瞬、完全に停止した。
今の言葉を、もう一度脳内で反芻する。
(王太子が、愛人の体を、洗う)
アメリアはティーカップを持つ指先に、無意識に力がこもった。
高貴な宮廷生活において、愛人関係とは秘め事であるはずだ。誰に見せるでもなく、密やかに愛を育むもの。
しかし、王太子自らが湯船で相手の体を洗うという詳細を、こともなげに語るその無防備さに、アメリアは言いようのない動揺を覚えた。
ペンロン殿下は、もしかして、感覚がズレているのでは?
品位という言葉は、彼の辞書には存在しないのかもしれない。
いや、それ以前に。
この人は自分が語っている内容が、王太子妃になる自分にとってどれほど衝撃的か、まったく想像できていない。
アメリアは吐き気を催しそうになるのを必死に堪え、口元の筋肉を引きつらせないように細心の注意を払った。
「そ、それは……大変に、献身的な愛情でいらっしゃいますね」
精一杯の言葉を絞り出す。
「ああ、彼女の満足そうな顔を見ると、私も幸せな気持ちになれるんだ」
その無邪気な言いように、アメリアは鼻白む。
彼女は、好奇心と、これから始まる「戦争」への覚悟を込めて提案した。
「殿下、そんなに愛らしい方ならば、ぜひ一度お目にかかりたいものです。殿下がそこまで大切に想う方であれば、私も敬意を払いたいと思いますし、何より挨拶は必要でしょう」
ペンロンは少しだけ躊躇したが、すぐに自信満々に頷いた。
「分かった、彼女をここに呼ぼう。きっと君も、彼女の魅力に驚くはずだ」
十分後。
王太子執務室の重厚な扉が開かれた。
アメリアは紅茶を片手に、どのような令嬢が登場するのかと身構えていた。
しかし、目に入ってきたのは四人の侍女……と、彼女たちが担ぐ小さな輿だ。
豪華な彫刻が施された輿には、これまた豪華な刺繍が施されたクッションが置いてあり、その上に見たことのないモノが乗っていた。
「……?」
手に持っていたティーカップをそっとソーサーに戻し、アメリアは目を凝らして観察した。
クッションの上のソレは、ずんぐりとした胴体に短い足。そしてなんとも形容しがたい、ぼんやりとした表情をしている。
ぽっちゃりした体をヒラヒラしたピンクのドレスに包み、頭には宝石で飾られた小さなリボンまでつけていた。
アメリアは瞬きを繰り返した。
夢だろうか?それとも、ポコペン王国流の冗談だろうか?
「紹介しよう!彼女が私の愛するポンちゃんだ」
ペンロンは誇らしげに胸を張り、生き物の隣に跪いた。「ポンちゃん」は無表情のまま、トロンとした目で彼を見つめ返す。
(落ち着け……落ち着くのよ、アメリア)
アメリアは深呼吸をし、側近の侍従に小声で尋ねた。
「あれは……何でしょう?」
「あちらは『カピバラ』という、遠い異国の動物でございます」
侍従はそこで小さなため息をつくと、眉尻を下げた表情で続けた。
「殿下が数年前に商隊から買い取り、それ以来、公務の合間もお側から離さずに、愛されているのです」
カピバラ。
確かに聞いたことはある。温泉に入ってくつろぐ、鼻の下がみょーんと伸びた、独特な風貌の動物。
それが、ペンロン殿下の愛する「彼女」?
アメリアは、あまりの衝撃に言葉を失った。
彼は本気でこの生き物を愛しており、それゆえに自分を「愛することはない」と言ったのだ。
ペンロンは、宝石リボンをつけたカピバラ……ポンちゃんに向かって、甘い声をかけている。
「ポンちゃん、可愛いね。今日の衣装は特注のシルクだよ。気に入ってくれたかな?」
ポンちゃんは、微動だにせず座っている。時折、退屈そうに鼻を鳴らすだけだ。
(こんな茶番に付き合ってられないわ)
アメリアの胸の中で、怒りというよりも、深い脱力感が広がっていった。そして、すっと立ち上がる。
「ペンロン殿下」
「なんだい、アメリア」
「殿下は彼女のことを、心から愛しているとおっしゃいましたね。ですが、本当に彼女が殿下の愛情を理解しているのでしょうか?」
その言葉に、ペンロンは険しい表情になった。
「何を言う!ポンちゃんは、私にいつも寄り添ってくれる。言葉は通じなくても、心が通じ合っているんだ」
アメリアはポンちゃんの前に歩み寄った。
「一時的ですが、魔法でポンちゃんの声を聞けるようにして差し上げましょう。彼女が殿下の愛情に応えているのかどうか、確認してみませんか?」
ペンロンは驚いたように目を見開く。
アメリア自身も、習得した魔法をこんなことに使うとは、思ってもみなかった。
「すぐにやってくれ!」
前のめりでペンロンは答えた。彼にとっては、愛するポンちゃんと会話ができるという、夢のような提案だったのだろう。
アメリアは軽く指先を動かし、呪文を紡いだ。目に見えない微細な魔力が、ポンちゃんを包み込む。
部屋に静寂が訪れた。
やがて、ポンちゃんがゆっくりと口を開いた。
「……あの」
それは、少々甲高くはあるが、落ち着いた声だった。
「ペンロン殿下。いつも大切にしてくださって、ありがとうございます。温かいお部屋も、豪華な食事も、感謝しております」
ペンロンの顔が歓喜に染まる。
「ああ!ポンちゃん!私の想いが伝わっていたんだね!」
ポンちゃんは、表情一つ変えずに続けた。
「……ですが、殿下。実はこういう服は好きじゃなくて。動きにくいですし、何より夏場は暑苦しくてたまりません」
「そ、そうなのか。それは気づかなくてすまない」
ペンロンは素直に謝った。
「ポンちゃん、他にして欲しいことはあるか?」
「そうですね、ボクもお年頃なので、そろそろお嫁さんが欲しいです」
…………?
部屋に、重苦しい沈黙が落ちた。
ペンロンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「お前……オスだったのか!」
彼は膝から崩れ落ちた。
まるで世界が崩壊したかのように、彼はうなだれてしまう。
人間でなくてもいいけれど、女の子でないのはダメらしい。
うなだれる彼を複雑な思いで見つめながら、アメリアは魔法を解いた。
ポンちゃんは再び、無言の愛らしいカピバラに戻り、そわそわと足を動かしてクッションから降りようとしている。
涙を流し始めたペンロンを見下ろし、アメリアはそっと彼の隣にしゃがみこんだ。
「殿下」
震えるその肩にそっと手を置く。
涙で濡れたペンロンの顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
「私は、間違っていたのかな?」
「ええ。酷く間違っていましたわ」
アメリアは、努めて優しく微笑んだ。
これからの長い結婚生活を共に歩むパートナーとして、彼を導かなければならない。
「でも、大丈夫ですわ。殿下は、ポンちゃんに対してそれほどまで熱心に尽くせる『優しさ』をお持ちなのですから」
アメリアは立ち上がり、呆然としているペンロンに手を差し伸べる。
「さあ、まずはポンちゃんを、この窮屈なシルクのドレスから解放しましょう。そして、お嫁さんを探してあげましょうね」
ペンロンは、子供のようにコクリとうなずくと、差し出されたアメリアの手を握り返した。
窓の外では、夕暮れの陽光が、先ほどよりもずっと柔らかく、暖かく差し込んでいる。
アメリアの胸の奥にあった、少しだけ冷めていた感情が、不思議と熱を帯びていくのを感じていた。




