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薔薇は赤く染まり、花嫁は消えた  作者: 川崎 春


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その後の話 1

「ゆっくりしておいで」

 優しくマクシミリアンに言われ、アルルは笑顔で馬車に乗り込んだ。乗った直後、その顔から笑みが儚く消えていく。

 アルルは結婚して半年後、イスマイア家のタウンハウスに、しばし居を移すことにしたのだ。

 マクシミリアンは馬車が見えなくなっても、しばらくそこから動かなかった。

+++


 アルルが十年の重みを実感したのは、結婚してしばらく経ち、周囲が落ち着いたころのことだった。

 魔法の研究を再開して、それに気づいたのだ。

「既に、立証済み」

 アルルが十四歳で認められた魔法文法の短縮技術を元に、多くの研究が一般に行き渡っており、彼女が次に研究しようと思っていたことは、全て別の誰かに実用化された後だった。

 マクシミリアンは、魔法の研究ができるから侯爵夫人としての役割を軽くしてくれると言っていたのだ。それなのに、アルルは自分が得意とする分野で研究することができなくなり、今の最先端の魔法文法の理論すら分からなくなっていたのだ。

 アルルは酷く気落ちしていた。焦れば焦るほどに、どの論文から目を通せばいいのかも分からなくなっていく。それなのに、使用人もマクシミリアンも優しい。


 ベルクレア家で何の役にも立たず、ただ生きているという感覚だけが日に日に強くなっていった。マクシミリアンのことは愛している。それなのに、一緒にいることが辛くなってしまった。しかし、それを口にできない。口にしたら、酷い言葉を言いそうだったからだ。

 現実を感じない内に受け入れてしまったケイトリンの謝罪。早すぎたのだと、今なら分かる。

 マクシミリアンも嬉しそうにしていたし、皆が喜んだからそれでいいと思っていた。そうすべきだと。今更、苦しいなんて言えるはずもない。


 そんなとき、アルルの母親であるイスマイア伯爵夫人が、突然ベルクレアの屋敷にやって来たのだ。

「近くまで来たから、様子を見に来たの」

 そう言って応接室で笑う母親に、アルルは堪えきれずに抱き付いて泣いていた。

「あらあら、どうしたの?」

 そして、促されるままに全てを話していた。

「魔法のことが、分からないの」

「十年は長いものね。すぐに元通りになるのは無理よ」

「ずっとこのままかも知れない。それが怖いの」

 夫人は黙ってアルルの手の甲をそっと撫でた。

「私、人を嫌いになったことがなかった」

 アルルは苦しそうに吐き出した。

「でも、今はケイトリンが憎くて仕方ないの。こんなことになったのは、あの子のせいだって思うと、苦しくて……」

 夫人は俯くアルルの様子をじっと見た後、言った。

「あなたは研究ばかりしていて、人との関係が薄かった。私も旦那様も、本当はあなたを嫁に出す気はなかったの」

「そうだったの?」

「ええ。あなたはやると決めれば、人を傷つける魔法であっても作れてしまうから」

 アルルは、ぽかんとして夫人を見た。

「あなたのような人が、かつてイスマイア家には何人もいたのよ。利用された人もいるし、酷い事件を起こした人もいるの。だから、学園に通う必要がなくなって、ほっとしていたのよ」


「マクシミリアンのことは、どうして?」

「マクシミリアンは、あなたの論文に惚れたから、申し込んだと言ったの。心の底から魔法が好きな、あなたの同類なのだとすぐに分かったわ。王家からも後押しがあったの。家格も上だから、あなたを守るには丁度いいって。だから会ってもらったの」

 かつて、マクシミリアンと議論を交わした日々を思い出す。

「私……もう、彼と前みたいに話せない。愛しているのに、消えてしまいたい」

 夫人は、おっとりとした笑顔で言った。

「しばらく帰っていらっしゃいな。マクシミリアンには私の方から言っておくから」

 アルルは、母親の胸に顔をうずめたまま小さく頷いた。

 マクシミリアンが夫人を呼んだことも、応接間の外で話の一部始終を聞いていたことも、アルルは気づかなかった。


 マクシミリアンは、ケイトリンの謝罪が駆け足に終わっていくことに、少しひっかかりを覚えていた。

 ケイトリンは丁度二人目の子を妊娠したことが発覚したばかりだった。精神的にも不安定で、アルルの帰還は子に障ると皆考えていた。だからアルルの赦しは当然の流れのように受け入れられた。

 その結果、アルルが我慢を強いられ、苦しむことになってしまったのだ。


 加害者が、いつまでも被害者の側にいる状況こそがおかしかったのだ。

 確かに新たな命は大事だ。害する気はない。しかし、それを理由に、加害者であるケイトリンがアルルに対して、謝罪の言い逃げをしていいはずもなかったのだ。


(帰って来てたったの半年なのに、アルルを守れなかった!)


 アルルがイスマイア家に出発した後、マクシミリアンが戻った部屋の窓ガラスが、バン!っと大きな音を立て、窓枠ごと吹き飛んだ。庭師と洗濯を取り込もうとしていたメイドが跳んできた窓枠とガラス片に悲鳴を上げた。部屋は滅茶苦茶で、家具は瓦礫と化していたし、壁には亀裂が入っていた。


 執事が恐る恐る部屋を覗くと、マクシミリアンは冷たい目で窓の外を見ていた。

「騒がせて悪かった。もうこのようなことはない。……今日は客間で寝る。準備を」

 頭を下げる執事の横を抜け、マクシミリアンは執務室に向かう。

 マクシミリアンは、ケイトリンの夫であるリシャールに手紙を書いた。

 アルルの変化や自分の心境を書いた後、正直な気持ちを書き添える。

『私たちのことは、そっとしておいてほしい』

 リシャールなら、妻子を害するような伝え方はしないだろう。最後の妹に対する情けだった。


 マクシミリアンは侯爵家の嫡子であり、攻撃魔法の名手として、強い感情制御を学んできた。暴走を起こした事は一度もなかった。アルルが消えてしまったあの結婚式の日ですらも。


 リシャールは、義兄の意図を正しく汲んでいた。

 ケイトリンが安定期に入ると保養地に別荘を用意して、子供と共に移住させた。保養地で子を無事に産んでも王都に帰らず、休日になるとやってくるリシャールと過ごす日々。

『解決できない事件に巻き込まれてしまってね。……安全になるまで、ここで暮らしてくれないか?』

 リシャールの言動に微かな怯えを感じたケイトリンは、王都に帰る日がこないことを理解した。

(お兄様は、私を赦さない。……会えば殺そうとするほどに、憎まれてしまった)

 王の調査官であるリシャールは強い。しかし侯爵でありながら、異国に一人で行ってしまう兄には敵わないのだ。

 

 上の娘は五歳になる。この子があの薬でいなくなったら……ましてや、誰かの手で奪われたのであったなら。それがどれほどの苦しみなのかを今更ながら考える。

 初めての子で、手のかかる愛おしい存在に心奪われ、マクシミリアンがどんな思いをしているのか、忘れていた。その挙句、アルルに堂々と会いに行った。あのときも、自分の逸る気持ちばかりを優先した。


(軽率な行いで身を滅ぼしていないのは、周りに恵まれていただけで……もしお兄様の妹でなければ、私は死んでいて、この子たちはいなかったのだわ)


 二度も見逃された。三度目はない。

 あまりの苦しさに、この身を差し出して殺されたいと思った。それさえも、赦してもらえる可能性を考えた甘えなのだと……大人になった彼女には分かっていた。


 ケイトリンは、子供の前では笑いながら静かに病んでいった。


+++


 アルルは、懐かしい屋敷の空気に、大きく息を吐いた。ベルクレア家では上手く息が吸えなくなっていたのだと、今更ながらに思う。夫人とお茶を飲み、夕飯まで仮眠した後、城の魔法研究所から帰って来たイスマイア伯爵と弟であるライオットを出迎えた。

 城の研究所に勤めるのは、領地を持たないイスマイア家の家業なのだ。

 少年だったライオットは、すっかり大人になっていて、アルルは何度見ても慣れない。それはあちらも同じらしく、互いに見ると変な顔になってしまう。

「おかえりなさい……」

「ただいま……」

 伯爵は、にこにこして二人の肩を叩くと、食堂に向かう。

 少しぎこちなく始まった晩餐は、終わるころには和やかな雰囲気になっていた。そうして数日が過ぎると、ライオットもアルルも互いを見慣れて、元の関係に戻っていた。

 ゆっくりと休み、夫人とお茶をして、家族で晩餐を囲む。アルルはその世界に安堵していた。


 そんなある日、晩餐の後でライオットに誘われて談話室に行った。既にメイドに話が行っていたのか、温かいお茶と菓子が用意されていた。アルルは、そのお茶にライオットがキャビネットから出してきた酒を慣れた手つきで入れるのを、複雑な思いで見ていた。

「あなたとここにくるのは久しぶりね」

「魔法のことをよく教えてもらった」

 ライオットはそう言った後で、続けた。

「姉上は、研究をしないのか?」

 アルルは一瞬目を見開いた後、諦めたように息を吐いた。

「私のしたかった研究は、もう終わっているの」

 ライオットはじっとアルルを見た。

「それは、逃げだよ」

 ライオットは続ける。

「姉上の論文を元に発展させた人達は、皆俺達よりも年上だ。それこそ、二十年三十年と研究を続けている」

 アルルはライオットの言葉に俯く。

「姉上からすれば、一瞬目を離した隙に世の中の何もかもが変わっていたんだから、びっくりするよね。……でも、それで折れてしまうのは、俺が嫌なんだ」

 アルルだって、弟の誇れる姉でいたかった。できるならやっている。


「姉上は、十年を失ったと思っているのかも知れないけれど……俺は、十年長く研究ができると思っている」

 アルルは顔を上げた。そこには年上になってしまった弟の真剣な顔があった。

「自分のする筈だった研究を誰かがしてくれている。だから、その先を自分で見られるんだ」

 ライオットの目には、嘘偽りのない羨望が浮かんでいる。研究者の……探求し続ける目だ。

「姉上は、その権利を捨ててしまうのか?」


 その言葉に、アルルの中で何かが弾けた。

 ケイトリンへの怒りや憎しみ、マクシミリアンへの負い目は、暴風雨のように今も荒れ狂っている。だからきつく目を閉じ、固く身を守るしかなくなっていた。しかし、今の言葉でその暴風雨が止んだのだ。

 気付けば目の前に扉がある。ずっとあったのに気づかなかったそれが、しっかりと見えた。アルルは、その扉の先へ行けばいい。どれだけ重くとも、押し開けてその先へ。かつてそうだったように、それだけを考えて。

「そうね……。そうだわ」

 アルルは強い視線でライオットを見返した。

「捨てない。ライオット、ありがとう」

「やっと、俺の姉上が戻って来た」

 ライオットがほっとした様子で言うと、アルルは、久々に心からの笑顔を浮かべた。

 ライオットも嬉しそうに、紅茶を飲み干したのだった。


 アルルは、文献を読むことから始めた。最初は不安に感じながらゆっくり読んでいたが、不安は消えて好奇心と探求心へと変わった。一日に読む数が増え、文献は最新の論文になった。そのころには、アルルは晩餐以外を書庫で済ませるほどに没頭していた。

 そして、強く興味を惹かれたのは、魔法薬の研究だった。


 アルルを十年後に飛ばしたあの薬。


 製作者は既にいないが、残った薬は城で保管されている。内容物を解析したくともできないそれを、どうしても解析したかった。

 そのためには、マクシミリアンを説得しなくてはならない。嫌がることは分かっている。


 アルルは、マクシミリアンに手紙を書いたのだった。

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