54 エピローグ
人生は本当に、何が起こるかわからない。
私はエリスの名に続き、『ド・ブロイ』という姓まで捨てることになった。
なぜならそれは、クロードが私と結婚せんがため、私の養子受け入れ先を見つけてきていたからだ。
まあ、もともと両親とは縁を切るつもりでいたが、それにしてもこんな荒業をよしとしてしまうなんて、なかなか一筋縄ではいかない王子様である。
「せいぜい、うちの親父に恥をかかせないようにしてやってくれよ。ま、これ以上汚しようのない看板かもしれないがな」
お気楽そうに言うマティアスも今日は正装だ。いつも白衣ばかりなので、まるで別人のように見える。
「ははは、違いない。なにせこんな妻と息子のいる公爵様なんて、ねえ?」
そして、闊達に笑ったのはなんとマリアだった。
いつもは料理人姿の彼女も、今日はドレスで美しく着飾っている。
私も知らなかったが、なんとマリアはマティアスを生んだ実のお母さんなのだそうだ。
そして、彼女は市井の出ながら王兄殿下と結婚した、ドラマチックな経歴の持ち主なのだった。
なんでも、はじめは王兄殿下に隠してマティアスを女手ひとつで育てていたらしいのだが、それが殿下の知るところなり、猛烈なアタックを受けて結婚したという。
そして、そのために王位を辞退してしまった公爵も、かなり熱烈なお方だ。
ちなみに、学園ではそのことを隠して仕事を続けているそうだ。
もしそうでなければ、誰も公爵夫人にあんなハードな仕事をさせたりはしないだろう。
「奥さんとマティ。それぐらいにしておくれ。せっかく娘の結婚式なのだから」
―――そう。
クロードが私に用意した養子の受け入れ先は、公爵の爵位を持つ王兄殿下のお宅だった。
つまり私は、マティアスの妹の公爵令嬢になってしまったのだ。
最初に話を聞いたときには何を馬鹿なと思ったが、驚いたことに王兄殿下は私を快く受け入れてくださった。
「僕はね、娘が欲しかったんだよ。だから寂しいなあ。こんなに早くお嫁に行ってしまうなんて」
マティアスと同じ紫の髪をした公爵が、心から残念そうに唸っている。
「やっぱり、式は一年ぐらい延ばさない? それで、家族四人で仲良く暮らそうよ!」
どうもこの公爵は、かなり妻と息子を溺愛していて、しかし二人とも学園で働いていることから一緒に暮らせないのが大いに不満であるらしい。
本気で言っているのかジョークで言っているのか、私だけが挙動不審になり、マリアとマティアスはとりあえず彼のことをきれいに無視している。
「それにしても、綺麗な刺繍ね。自分で入れたんだって? 素敵だよ」
「ありがとうございます、マリアさん」
「マリアさんじゃなくて、お母さんって言ってって」
「ひぇ! でも、そんな、お母さんだなんて……」
試しに言ってみただけでも、顔が熱くなった。
こんな人が本当のお母さんだったらどんなに嬉しいか分からないけれど、いきなり言えといわれても慣れないのだから仕方ない。
「じゃあ、あの、お母様……」
言ってみて、耐え切れず両手に顔を伏せた。
「やめなって。化粧が崩れちまうだろ?」
マリアの手で、無理矢理顔を上げさせられる。
確かに彼女の言うとおりなのだが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「おーおー、じゃあ俺のことはお兄ちゃんだな。ほら、言ってみろ」
「えと、でも普段は先生ですし……」
「なんだ? 母さんは呼べても俺は呼べないか?」
「まさかそんな! その、じゃあ、えっと……お兄様」
恥ずかしい。耐え難い。こんなに恥ずかしいと思ったのは、もしかしたら人生で初めてかもしれない。
「それじゃあそれじゃあ、僕はお父さんって言って欲しいな!」
勢いよく手を上げた公爵の手を、彼の後ろから現れた人物がぱしりとつかんで無理矢理下ろさせた。
王兄殿下に向かって、こんなことをできる人物はそう多くない。
「こら。アリスを怪しげなプレイに巻き込むな」
「クロード様!」
クロードは、濡れたような黒髪を綺麗に撫でつけ、金のモールがついた青い騎士の盛装をなさっていた。
結婚式の際は、この衣装を身にまとうのが王家の伝統なのだという。
少し古風なその衣装は薄藍色の瞳によく似合っていて、改めてなんて美しい人だろうと思った。
初めてであった時はあんなに恐ろしく思ったのに、今は見知った顔に安堵した自分に気づいて驚く。
けれど、今からこんな人の隣に立って大勢の前に出るかと思うと、緊張のせいで体中に震えがくるようだった。
しかし、クロードは私の姿を見ても何も言わない。
ドレスの刺繍は思った以上に大変で、完成したのは昨日の夜なのだ。
だから今日はじめて着ているところを見せたのだが、もしかしたらお気に召さなかったのかもしれない。
「あの……」
「おい、見とれてないで何とか言ってやれ。不安がってるぞ」
マティアスの軽口に、クロードが不満そうな顔をする。
彼は私に歩み寄ると、膝の上に置いた手をそっと攫った。
けれど、彼はやはり黙り込んだままだ。
クロードの口下手(それでいて時に妙に饒舌)なところには慣れているつもりだが、待っている時間が次第に辛くなってくる。
やっぱり、自分で刺繍したドレスなんて王太子妃としては相応しくないのだろうか。
実際自分で刺繍したいと申し出た時、クロードがつけてくれた侍女達は眉を顰めたし、王室御用達の仕立屋もいい顔をしなかった。
でも、刺繍は二人を繋いでくれた思い出だからと、どうしてもとお願いしてやらせてもらえることになったのだ。
そんな風に自分を通した事なんてあまりなかったから、凄いドキドキしたし、不安でもあった。
「あの、殿下?」
我慢しきれず、感想を強請るように少しだけ首を傾げた。
堪えきれないとでも言うように、クロードが手のひらで顔を覆う。
見るに堪えないほどなのか。
自信作だけに、流石にショックだった。
「い、今からでも別のドレスを……っ」
悲しくなって、今すぐクロードの目の前から姿を消したくなった
それか、調子にのらず刺繍はベールのみにするべきだったかもしれない。
悲しくなって、その場から逃げ去ろうとして、でも手を取られてそれもできずにいる私の手を、彼がぎゅっと握りしめた。
「大丈夫だ。よく似合っているから……」
と言ったきり、彼はまた黙り込んでしまったのだ。
でも、私たちの思い出をそうとは知らず話してしまった時と同じように、色の白い彼の肌は薄紅色に染まっていた。
ううむ。その様は、新婦よりも新郎の方がよっぽど可憐だと言わざるを得ない。
クロードは上背もあり筋肉もあるので決して女性的ではないのだが、たまにこうして乙女のように恥じらったりなさる。
そうすると私の脆弱な女子力はすぐに白旗を揚げてしまって、ああ可愛らしい人だなあと見入ってしまう逆転現象が発生するのだ。
「あの、あまり見ないでもらえるか?」
じいっと観察していたら、まだ顔の赤いクロードに窘められた。
言われるがままに目をそらすが、かっこよくて愛らしいその様子をもっと見ていたかったので、内心残念に思う。
「くっくっく、いやあ見せつけてくれるねぇ」
マティアスがぴゅうと口笛を吹いた。
そしてマリアが、呆れたようにため息をつく。
「これから先が思いやられるわ。式の最中にこうならないといいけど」
「いやー、まあそこはしっかりやるんじゃないか? 流石に」
呆れた風情の母子の脇で、侯爵はうんうんと頷いていた。
「いやあ分かる。分かるよクロード! 奥さんが愛おしすぎて言葉にならないんだよね。いやあ僕がマリアと結婚できるとなった時には、そりゃあもう興奮してね。式の前三日間は仕事も手につかないし、寝るに寝られないし胸がいっぱいでごはんも喉を通らなくて―――」
その時、公爵の言葉を遮るようにりんごんと鐘の音が響き渡った。
この婚礼のために、特別に鳴り続ける祝福の鐘。
部屋にはいつの間にか、義理の両親となる国王陛下と王妃殿下もいらしていた。
「間の悪い時にきたようだ。兄さんの嫁自慢に居合わせるとは」
絶対にこの結婚に反対するだろうと思っていたお二人も、初めてお会いした時にはむしろ、やっと息子がその気になったと喜んでくださった。
どうやらそれだけ、クロードの結婚拒絶病は強烈だったらしい。
確かに、貴族王族は幼い頃から婚約者が決まっているのが普通のこの国で、クロードの年齢までそれが決まっていないというのは不自然なことだった。
彼はそれを私と結婚する気だったのだから当たり前だと言うが、私は未だにそんなことあるのだろうかと、半信半疑だ。
だって、自分には誰もいないと思って孤独に耐えていた頃に、まさかそんなにも想い続けていてくれた人がいるだなんて。
夢ならば今この瞬間に醒めてしまうのではないかと、不安になることもある。
「さあ、時間だ」
ようやく冷静を取り戻したらしいクロードが、厳かに言った。
近衛兵が窓に下ろされたオペラカーテンを開く。
王家らしく高価そうな大きな窓の向こうに、広いバルコニー。そしてその向こうには、広場に詰めかけた多くの人が見えた。
窓が開かれ、割れんばかりの歓声が聞こえる。
「いくぞ」
ぎゅっとにぎった手を、クロードが優しく引いた。
まだうっすらと紅をさしたような頬に、優しい笑みが浮かぶ。
今日、この人と結婚すると思うと、まだ夢の中にいるみたいだ。
王家の方々が続々とバルコニーに出て行く。
今日は私たちのお披露目の日。
私の新しい毎日の第一歩。
『すげえ人だ! アリスも早く来いよ!』
『お、おめでとうー』
興奮するサラに、おどおどと祝福してくれるグノー。
『ほほう。この国の王室は、国民に慕われているようじゃなあ』
林檎のような体型のシルヴェリウスが、感心したように自慢のちょびひげを撫でている。彼らは全員、私が今日のために作った燕尾服で正装していた。
晴れ渡った空から、眩しい日差しが差す。
『さあ、これが私からの結婚祝いよ!』
そしてその空を横切ったウィンが、細かい霧のような雨を降らせる。
水のカーテンは日光を反射して、バルコニーの上に綺麗な虹を作った。
詰めかけた国民が響めき、歓声はより大きなものになる。
こんなにも、祝福された気持ちになるのなんて初めてだ。
「いこう」
私は新しい人生へと、その一歩を踏み出した。




