彼女専用
エアリアルの顔色は随分よくなっていて、とても昨夜まで熱があったとは思えなかった。彼女は落ち着いた様子で食事の準備を手伝い、料理の皿をテーブルへと運ぶ。
「大丈夫だったの?」
グレースが奇妙な表情のまま、そう小さく訊いているのが聞こえた。
「うん、大丈夫」
エアリアルは輝くような笑顔をグレースに向けた。「ありがとう、ベッドまで運んでもらって」
「あ、それはグレイも手伝ったから」
急に話をこっちに振らないで欲しい。そのグレースの言葉に頷いたエアリアルは、皿をテーブルに並べ終わると僕のそばに近寄ってきた。
「昨日はありがとう」
小首を傾げ、明るく微笑む彼女。これは狙ってやってる笑顔なのか、天然なのか。エアリアルは無邪気で、そしてある意味悪質だ。
その朝はレティシアが朝食の場に姿を見せなかったので、コーネリアスはわがままし放題といった感じだった。エアリアルの料理の皿を引き寄せるのも、慣れたものといった手つき。
「あのさ、コーネリアス! 病人から食事を奪うのはやめなさいよ!」
グレースの機嫌が悪くなる。彼女はイライラしたように頭を掻きながら、彼を睨んだ。しかし、コーネリアスは鼻で嘲笑って返した。
「病人なら余計にいらないだろ」
「はあ!?」
グレースの眉間に深い皺が刻まれる。これはまずい、と思って僕は口を出してみた。
「エアリアルはどうやらレティシア様のお気に入りみたいだから、コーネリアスみたいに嫌がらせを続けていたらどうなるかな」
すると、コーネリアスが身体を強ばらせた。そして、僅かな沈黙の後に舌打ちし、奪った皿をテーブルの上で滑らせ、エアリアルの前に押しやった。
エアリアルはしばらくの間、びっくりしたようにそれを見下ろした後、おずおずと顔を上げて笑う。
「えと、ありがとう、コーネリアス」
「は? 早く死ねよ」
無表情でそう応えたコーネリアスを見た途端、エアリアルは一気にしょげ返ったようだった。まるで、主に叱られた犬みたいだ。それでも、彼女はやがて我に返ったようにグレースを見やり、嬉しそうに微笑んだ。
「優しいよね、グレースって。それに、強いし凄い」
「バカ言ってないで食べなさいよ」
グレースは気難しい表情をしてそう言ったけれど、その耳が赤く染まっていたので、照れているのは間違いない。
食事が終わり、皆がそれぞれ掃除をやりに屋敷の中を散っていくと、グレースはエアリアルの腕を掴んで部屋の隅に引っ張っていき、何やら叱っているようだった。
「コーネリアスに関わっちゃダメ」
とか。
「身体が弱いなら無理しちゃダメ」
とか聞こえてきた。
僕はそれを少し離れた場所で見ていたけれど、どうしても気になって彼女に声をかけた。
「昨夜、何があったの?」
「え?」
エアリアルはそれまで、グレースの言葉にうんうん、と真剣な表情で頷いていたけれど、僕が声をかけたことでその表情が間の抜けたものになった。
「地下室で何をされたの? 熱、もう大丈夫?」
そう続けると、彼女はこくこくと頷いた。
「大丈夫! 何だか薬をもらったのかな? 気づいたら随分楽になってて。お菓子ももらった」
「お菓子?」
「うん、すっごく美味しかったよ!」
――エアリアルは馬鹿なのか。
僕は眉を顰めて彼女を見つめた。
「いいなあ、お菓子かあ」
グレースが驚いたように続けたので、僕はグレースも見つめる。馬鹿がもう一人、ここにいる。
「あのレティシア様が何の狙いもなくお菓子などやるはずがないだろう。少し考えろ」
「それだけ気に入られてるってことじゃないの?」
グレースは頬を膨らませ、不満そうな目つきで僕を見た。まあ、その可能性もあるけど。
「それでも、やっぱり危険だよ。お菓子に釣られて、何をやらされるかたまったもんじゃない」
「まーね。そうかも」
さすがにグレースも気まずそうに頭を掻いた。その横で、エアリアルは僅かに困惑したように笑いつつ、こう言った。
「二人とも、優しいね。心配してくれてるんだ」
「いや、あのエアリアル」
「それに、何だか大人みたい。凄く落ち着いてるし、頭もいいし。わたしとは全然違う」
「……それは」
そうしなきゃ、生きてこられなかったってだけなんだけどな。
「ねえ、グレース」
エアリアルは急にグレースの手を取って、熱い眼差しを彼女に向けた。「わたし、あなたをお手本にする!」
「はあ!?」
「わたしも強くならなきゃいけない。もっと頑張らなきゃ、きっと家に帰れない。だから、あなたみたいに強くなるの!」
「いや、あのね、帰れるとは思え」
「絶対、帰るの。こんなところにいちゃダメだってことは解るもの! いくらおバカな頭でも!」
――ああ、自覚はあったんだ。
僕が内心、呆れ果てて言葉を失っているうちに、エアリアルはどうやら自分の中で何か完結させたらしい。キラキラ輝く瞳をグレースに向け、凄まじいまでの笑顔を作って見せる。その笑顔は現実逃避というものではないのだろうか。
そして、グレースがその笑顔に負けてがくりと肩を落としたのが見えた。
時に、馬鹿ほど恐ろしいものはない。僕はそう思う。
レティシアに呼ばれて、エアリアルが地下室に降りるのが増えた。
エアリアルは間違いなく、レティシアに餌付けされている。僕やグレース、他の子供たちはレティシアの恐ろしさをよく知っているから、二人きりになるなんてことは考えたくもない。しかし、エアリアルはレティシアに対する警戒心を緩めていっているように思えた。
地下室には『人形』もあるはずなのに、彼女は見てないんだろうか。
あれを見たら、レティシアがどんな女なのかよく解るのに。
「レティシア様は魔法使いなのよね?」
ある日、エアリアルが真剣な表情でそう僕に訊いてきた。
「そうだよ。誘拐された時、魔法を使われたんじゃない?」
「うん、多分。わたし、バカだったから家を抜け出してきてたの。ほら、冒険ってしてみたくなるじゃない? 街の様子が見たくて、たまにこっそり出かけることがあってね」
「――ああ」
「そこで、すっごく美味しい焼き菓子のお店を見つけてね、一つ買ったの。食べながら歩くの、すっごく楽しかった」
「……それで」
「で、食べてたら眠くなって、ふらふらしてたら後ろから誰かに腕を掴まれて」
――魔法じゃなくて眠り薬か何かじゃないのか。
僕はただ頭を掻いた。
「あの人……レティシア様が言ったのが聞こえたの。声を出さずに歩け、って。そうしたら、逆らえなくて」
「ああ、それなら魔法かもしれないね。それでここに連れてこられた?」
「うん。その時に食べた焼き菓子とね、今もらってるお菓子が同じ味がするの。レティシア様はお菓子屋さんじゃないわよね?」
「そんなわけあるか!」
僕はつい大声を上げた。そして、慌てて声をひそめる。
「あのさ、エアリアル。前から言いたかったけど」
「あのね、グレイ。そのお菓子、わたし専用だってレティシア様が言うの。何でだと思う?」
少しだけ、エアリアルの瞳に不安が揺らいでいるのが見えた。さっきまでのお気楽な口調の裏に、怯えのようなものが混じり始めていた。
「たくさん食べちゃったけど……もしかして、何か食べてはいけないものが入ってた? レティシア様は魔法使いで、グレイたちの言葉によると、悪い魔法使いなのよね?」
「そうだ」
僕は頷きつつ、額に手を置いてこめかみを揉んだ。確かに嫌な感じがする。
「グレイは頭がいいよね。レティシア様に魔法を教えてもらってるってホント?」
エアリアルの表情は必死だ。「お菓子、全部食べないで少しだけ残してきたの。それ、グレイなら何か中に入ってるって解る? でも、見ただけじゃ無理かな……」
「無理だと思うよ。確かに僕は少し前から魔法を教えてもらってるけど、雑用をこなすためだけの魔法ばかりだし」
「そっか……」
エアリアルががっかりしたように笑い、唇を噛んだ。「もう、食べないほうがいいかな? 何だか、レティシア様の目が怖くて、食べなきゃいけないって気になっちゃうの」
「食べないほうがいい。残ってるなら、捨てたほうがいいよ」
そう、僕が言った時。
屋敷のどこかで、悲鳴が響いた――ような気がした。そしてそれは、聞き間違いではなかった。
「グレース!」
僕は彼女に駆け寄った。絨毯にみるみるうちに広がっていく血。
グレースは床の上に倒れ込み、もがき苦しんでいた。身体中のいたるところから溢れ出す血は、酷く黒っぽく見えた。
「何で……」
僕は彼女な身体を抱き起こした。そうしているうちに、彼女の肌が奇妙に蠢く。まるで、皮膚の下に何か生き物が這い回っているかのように。
そして気がつく。
絨毯の上に転がったお菓子。キツネ色に焼けた、焼き菓子。
「エアリアル!」
僕の後をついて、この部屋に入ってきたであろう、彼女の名前を呼ぶ。背後に彼女の気配を感じたから。しかし、彼女の返事はなかった。
凄まじいまでの苦痛の声を挙げるグレースの身体を押さえ込みながら、僕は何とか振り向いた。すると、エアリアルが真っ青な顔で絨毯の上に転がった焼き菓子を見下ろしていた。
「……嘘」
エアリアルのかすれた声。
「これか!?」
――レティシアからもらったお菓子というのは!?
グレースはこれを食べたのか? エアリアルからもらったのか!?
「た、すけ……」
グレースの喉が奇妙な音を立てる。溢れ出す血、痙攣する身体。
「お前専用だと言ったろう」
立ち尽くすエアリアルの背後に、いつの間にかレティシアが立っていた。無表情で、冷ややかな目つきでグレースを見下ろしながら。
「レティシア様、一体何を」
僕が震える声でそう言うと、彼女は薄く微笑んだ。




