手帳で呼び出し
自慢できない――とは。
わたしはレベッカの横顔を見つめたまま次の言葉を待ったが、彼女はそれ以上何も言うつもりはなさそうだった。
「あの、ここで大丈夫です」
レベッカは時折カーテンを開けて外を見ていた。そして人気のない路地でそう言って、わたしは馬車を操るマックスにとめるように声をかける。
「ありがとうございました」
レベッカは馬車を降りる時にわたしにぎこちなく微笑みかけ、慌ただしく頭を下げた。「あの、気をつけて帰ってください。最近、夜遅くには強盗も出るという話も聞きますから」
「だったら一緒に歩こう」
わたしは眉を顰めつつ言う。馬車の外はもう夕方で、だんだん暗くなろうとしている時間帯だ。確かに治安が悪いと言われれば納得できるような路地だと思う。でも、こういうところからレベッカは通学してきているんだよなあ、と心配になる。
レベッカが申し訳なさそうにわたしを見やり、ふるふると首を振ったけれど、わたしは問答無用で馬車から降りて彼女の横に立った。マックスがそんなわたしを見つめ、慣れた様子で少し離れた場所からゆるゆると追いかけてくる。さすがにマックスも長い付き合いだけあって、わたしの監視には慣れたものだ。
「馬車は見られないようにするよ。金持ちそうに見えたら狙われるんだろ?」
わたしは冗談めかした口調でそう言って、ニヤリと笑う。レベッカはため息をついて、小さく頷いた。
わたしはそんな彼女を横目で見つつ問いかける。
「夜遅くには強盗、とか言うけど。図書室で勉強して、それから帰ったら暗くなってるよね?」
「そうですね」
彼女は困ったように頷いた。「でも、慣れてますから。この辺りに住んでいる人も把握しているし、危険な場所も人間もよく解ってます。だから、いつも急いで家に駆け込みます」
「うーん」
わたしが唸っていると、レベッカは少しだけ歩く速度を速めた。
「家が見えましたので、もう大丈夫ですから」
レベッカは路地を抜けて何軒か家が並んでいるのを見て走り出す。大丈夫、と言われても彼女が無事に家の中に入るまでは見守るわたし。
考えてもみてよ、今のわたしは男性なのだ。
か弱い女の子を守るのは当たり前のことなんだし。
そんなことを考えつつ、少しだけその場に立ち尽くしていた。ふと辺りを見回せば、路地を行きかう人影が見える。その服装や雰囲気から、この近所に住む人たちなんだろうと思う。
マックスが少し離れた場所に馬車をとめていたけれど、確かにこの辺りには馬車なんて一台も見当たらないのだから目立つ。さっさと帰ったほうがいいだろうなあ、と思いつつ、もう一度レベッカが消えた家に目をやって。
レベッカとその母親らしき女性が家から出てきたのを見かけ、わたしは目を細めた。
レベッカの母親は、気の弱そうな顔立ちの女性だった。その彼女が、泣きそうな表情でレベッカに何か話しかけている。レベッカの表情も、母親と似たようなもので、焦りと混乱が見える。
――帰ってきていないのか。
すぐにそう思う。
レベッカはやがてわたしがまだこの場にいることに気づいて、気まずそうに動きをとめた。そして少しだけわたしを見た後、思い切ったようにわたしのところに走ってくる。
「こんなことを頼むのはどうかと思うんですけど」
レベッカは青ざめた頬をこちらに向け、酷く思いつめた様子で言った。「少しだけ、一緒にきてもらえないでしょうか」
「どうしたの?」
わたしが訊くと、レベッカは俯いた。
「姉が働いている場所は解ってるんです。でも、さすがに一人ではいけないし……」
「レベッカ、駄目よ」
すぐに彼女の母親がこちらに走ってきて、レベッカの肩を乱暴に引いた。「今からなんて無理。明日、わたしがいってくるから」
「明日なんて」
レベッカが首を振った。「もし何か事件に巻き込まれていたなら、待ってなんていられない」
「でも、事件に巻き込まれていたなら、もう手遅れなのよ」
母親は苦しげに、そして簡単にそう言った。レベッカは息を呑んで、身体を硬直させる。
「解ってるでしょ、あなたは頭のいい子なんだから。こんな遅い時間に行ったら、あなたと――この人……お友だちも危険なの。死にたいの?」
「それは」
レベッカが口ごもり、そしてゆっくりとうなだれた。
彼女の母親は申し訳なさそうにわたしに頭を下げ、薄く微笑んだ。
「娘のご学友でしょうか。あの、こちらは大丈夫ですからお帰りください」
その笑顔は静かではあったけれど、瞳には苦痛が見えたし、とても大丈夫とは思えなかった。それに、一瞬だけ、レベッカの目に浮かんだ表情も見逃せなかった。明らかに彼女はあきらめていない。もしかしたら、わたしがこの場を離れた後に、勝手に出かけそうだと直感する。
「危険な場所なんですか?」
わたしがそう訊くと、母親よりもレベッカが先に応えた。
「女性にとっては危険です」
そう聞いたら、この状況を放っておいて帰れと言われても帰れない。
わたしは一瞬の逡巡の後、制服のポケットから手帳を取り出した。そして、手帳を開いて小さくエリザベスの名前を呼んだ。
「はぁい、呼ばれましたあ」
手帳の上に、小さな姿が浮かび上がる。手のひらサイズのエリザベス。その肉体はキラキラと輝き、そして透き通っている。
「ちょっと危険な場所に付き合ってもらいたいんだけど」
と、わたしがエリザベスに話しかけると、小さな幼女が一瞬にして不機嫌そうな表情をして見せた。
「何ですか、危険な場所って!」
「いや、それはこれから確認するけど」
と、わたしが慌ててレベッカを見ると、彼女は目を見開いて手帳を見つめていた。そして彼女の母親も、口を開いたままこちらを見つめている。
「手帳は誰かに見られたらマズかった……かなあ」
ぽつりと呟いたわたしの声が聞こえたらしく、エリザベスが「見られたんですね」とため息と共に言っているのが聞こえた。
「いいですよ、お付き合いします。そこはどこですか? どこに行きたいんです?」
エリザベスが続けて話しかけてきたので、わたしはレベッカを見つめなおした。レベッカは一瞬遅れて我に返ったようで、手帳とわたしを交互に見ながら、小さく言った。
「ウィストー通りに行きたいんです。歩くと二十分くらいかかるんですが……」
ウィストー通り。
わたしは息を呑んだ。
レベッカはわたしを見ないようにして続けた。
「あの、ご迷惑をおかけしてしまうので……母の言う通り、やっぱり」
「でも行くつもりだよね、これから」
わたしが苦笑しつつ、マックスのいる方向へ目をやった。「付き合うよ。そこなら馬車で行ったほうが安全だと思う」
「あの……知ってるんですか。ウィストー通りが……」
どういう場所なのか。
知ってる。そこで働いているという彼女のお姉さん。そういうことなのか、と胸の中がざわめくのは確かだ。
「ウィストー通り……」
エリザベスの声が低く響いた。
何となく、彼女の声にいつもとは違う緊張があったような気がして気になった。すると、エリザベスが声を少し大きく張り上げて言った。
「誰かが行方不明ということなんですか?」
手帳の上でエリザベスが腕を組んで首を傾げている。わたしが頷き、レベッカが困惑しつつも小さく言う。
「姉が……」
「ウィストー通りでお姉さまが行方不明……」
エリザベスは待って、と言いたげに手を挙げた。そして、彼女の姿がさらに透き通る。霧がかかったかのようにエリザベスの姿がかすんで見えて、そして何か言っている様子だった。でも、何も聞こえてこない。
「エリザベス? 聞こえないけど」
と、わたしが何度か彼女に話しかけていると、やがてエリザベスの姿がまたはっきりと浮かび上がる。
「すみません、ちょっと打ち合わせを」
「打ち合わせ?」
わたしが彼女に問いかけるように単語を繰り返すと、エリザベスは意味深に笑った。
「こちらもウィストー通りに向かいます。エ……イスさまは行かれるんですよね?」
「行くよ。レベッカも」
と、目の前にいるレベッカを見上げると、彼女も頷いている。エリザベスは笑みを消して、真剣な表情で続ける。
「それなら、これだけは約束してください」
「ん?」
「あなたがたがウィストー通りに行ったとしても、そしてわたしと誰かがそこで合流したとしても、我々は初対面ということにしてください」
「初対面?」
エリザベスと誰かが? 司法局からエリザベスの他に誰かがきてくれる?
「全部、こちらが対処します。お願いですから、あなたがたは何も知らないということにしておいてください。できるだけ早くそちらに向かいますので、あまり勝手に行動はしないでくださいね」
「解った」
わたしがそう言うと、エリザベスは小さく唸った。
「何だか不安だなあ」
――それはどういう意味だ。




