あなたはだあれ
「ただい……」
玄関の扉を開けると、そこには頑張って編み上げブーツを履こうとする母の姿があった。
「あ、おかえり杞憂~~」
「うん、ただいま……どっか出かけるの?珍しくそんなおしゃれしちゃって」
「失礼ねえ~私はいつもおしゃれにしてるつもりだけど~~?」
そういう母さんはいつもより一段とおしゃれに着飾っている。中々普段は見られない、これは明らかによそ行きの格好である。
「実はね、今夜急に昔の友達と会うことになっちゃって~、あ、昼間にたまたま駅で見かけたんだけどそこから色々話が進んじゃって~~あまりに盛り上がるもんだからちょっと今夜ゆっくり話さない?ってことになって~~」
「あーーハイハイ分かった!分かったからゆっくり楽しんできなさい!でもあまり遅くならないように気をつけて!家のことは任せろ!」
「さすが杞憂頼りになる~~!ありがとう、絶対酔っ払って朝帰りとかそういうことにはならないようにするから!」
長くなりそうな思い出話を追い出すように母さんの背中をぐいと押す。少し不吉な台詞を残し、母は忙しそうにぱたぱたと駅に向かっていった。後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、嵐が過ぎ去ったような静けさが残った。
「ハァ……騒がしい人だ全く」
『今、なんとなくお前が誰の影響でこんなになったのかが分かりかけたぞ』
「いやいやノイズ人の親に向かってこんなっていうんじゃないよこんなって」
今のでどっと疲れがきた。そのおかげか、先程までの落ち込んだ気分はどこかへ吹き飛んだような気がする。再度家に入ると、がちんと玄関の鍵をかけた。
夕食は既に用意されていて、簡単なメモと一緒に電子レンジの中に入れられていた。『チンして食べてね~~』という呑気なメッセージと共に一人分の親子丼が入れられている。海藻サラダは冷蔵庫に入れてあった。
「自分はさぞかしおいしいもの食べてくるんだろうな~~親子丼好きだから別にいいけどさあ」
『杞憂、冷蔵庫に刺身が置いてあるぞ。これも恐らく食べてよいものだろう』
「ホント!?食べよう食べよう……って、ノイズ冷蔵庫開けられるの?」
『ん、少し覗いてみただけだ』
「ふ、ふーん」
冷蔵庫の奥の方に顔を突っ込むと、確かにそこには見落としていたマグロの刺身が置いてあった。サラダの影に隠れて気づかなかった。しばらくの間、ひんやりとした空気を楽しんでいると後ろから声がした。
『杞憂……冷蔵庫は開けたらすぐ閉めろといつも言われているではないか。ばれたら母に叱られるぞ?』
「ふんん……もう少しだけ涼む。ばれなきゃよいのだ、ふっはは」
もしこの場に母さんか絵梨香がいたら、ここで一発後頭部に何かしらのそこそこに硬い物がぶつけられていたんだろうけど、それはもちろん現実になることは無かった。
ノイズのまったく、というため息だけが聞こえた。
夕食を済ませ食器を片付けたあと、軽く机の上を整えた。鞄の中から筆箱やらノートやらを取り出すと、ばばっと一斉に広げる。
『すごいな、さっきまで何も無かった机が一気に汚く』
「汚いっていうんじゃないよい。今から絵を描くんだよい」
誰もそんなこときいてないぞ、というノイズの呟きは無視して早速愛用のシャーペンを握る。特に描きたいものは思いつかなかったので、淡々と適当な落書きを増やす。思いつくままにペンを走らせると、案外いいものが出来上がったりする。そこから世界を広げていくのが、楽しい。
「ちぇー。せっかく母さんにもノイズの事話したかったのになぁ。絵梨香も母さんも、タイミング悪いんだからさぁ」
『……あまり私のことは周りに言わない方がいい』
「え……?」
突然ノイズが真面目なトーンでぽつりと言ったのが気になり、自分は顔を上げて何もない隣をふっと見た。
『別にお前の母や友人――絵梨香なんかはもう知っているからいいが……これ以上私の存在を他の奴らに言いまわるのはあまりいいことではない、と思う』
「なんでそんなことを?自分、そもそもそんな仲良い子いないし、多分大丈夫だと思うけど。なんでそんなこと心配してるの?」
『いや、杞憂のことだからはしゃぎすぎてそこらかしこにこのことを叫び散らすんじゃないかと予想したまでだ』
「ちょっとノイズの自分に対するイメージおかしくない!?そんなことしたって周りから白い目で見られるだけだし!これ以上やばいやつだと思われたくないよ!」
『安心しろ。お前は今のままでも充分やばいやつだ』
「今ちょっと思った。自分言い終わる前にアッこれ言いそうだなって思った。かなすぃ」
スケッチブックにはぐるぐると黒い円が増えるばかりだった。ふとそれを見た自分は、はっと手を止めるとあたりをきょろきょろと見回す。
「そうだ、ノイズ……」
『?私が何か』
言い終わる前に自分は急いで2階の自室に駆け込む。机の下に積まれた紙の束をがさがさと撒き散らし、「あった」と目的のものをつまんだ。
階段を一段踏み外しかけ危うく転びそうになるのをこらえ、勢いよく元通り椅子に座りなおした。
『杞憂どうした、急に飛び跳ねたと思ったら……』
「思い出したのよ!まだ中学生の頃に、一度ノイズの絵を描いてたこと!ほっとんど黒歴史だけどねハハ!」
破かれたノートに描かれた「ノイズ」はまだ自分の絵心が開花する前(?)のクオリティなものだったから見るに耐えなかったが、それでもその全身図の横に書かれた当時の自分が考えた設定を見てみると、これがびっくり今のノイズと大して変わらないのだ。この頃からノイズの上から目線な態度は健在だったらしい。
「どうして声しか聞こえないんだろうってずーーっと思ってたからね、自分で色々と想像してたんだよ!数学の時間に!多分亡霊的な感じなのかなって思って!」
『これが私?というか授業中にこれを描いてることについてはもう突っ込まなくていいのか?』
「いやー懐かしいなあ!よくこんなもの描いてたな、自分」
肩の上くらいまでのショートヘアは、赤色のボールペンでこれでもかというくらいに塗りつぶされており、額には謎のサングラスのようなものがかけられている。瞳の色は髪の毛と同様に赤黒く描かれていた。首には十字架の付いた黒いチョーカー、胸元から下はお化けのような描き方で足がなくふわふわとしたデザインだった。
「その当時、自分は手を描くのがめっぽう苦手でな。手を隠すためにふわぁっとした袖を描くのがすごく好きだったのだ。あとこれ、某電子の歌姫の腕のやつが気に入ってたからそういう感じ」
『ああ……なんとなく言いたいことは分かったが、その言い方はアウトじゃないか、杞憂』
「まあ大丈夫だと思う。……じゃなくて!そう!それでノイズはなんと戦うことができます!戦闘になると身体を鎖に変えてそいつを振り回して敵をなぎ払い一網打尽にするのです!」
『今一度確認するがそれは全て授業中に考えているのだろう?ろくに人の話を聞いていないってことだな……』
テンションが上がり楽しそうに話す杞憂は、小さい頃ノイズに話しかけていた頃の杞憂と変わらなかった。それから夜遅くまで、誰もいないリビングで一人話し続ける杞憂はスケッチブックをたくさんのノイズで埋め尽くした。
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そんなこんながあり、自分がノイズと再会を果たしてから約一週間が経った。
今日も授業の終わりのチャイムが鳴り、自分はいつも通りに絵梨香の席に向かう。
「えーりかーえろーう……っと」
「いい加減その変な誘い方はやめてよね」
「絵梨香、帰ろうよ。あの星に」
「急に真面目ぶって訳分からないこと言うよりかはマシだけど……」
正門を出て、駅の近くにのびる商店街をのんびり歩く。が、今日は特に用事も無く二人とも暇だったので途中で道を外れ、小さな公園に寄った。ブランコとすべり台、簡易な作りのシーソーがあるだけの質素な児童公園だ。
「絵梨香!シーソーやろうぜシーソー!」
「ううん……できれば一人でやっててもらいたいけど」
渋々ながらも絵梨香は反対側に座ってくれた。絵梨香のこういうところが好きだ。しばらくの間は大人しかった絵梨香もだんだんとのってきたらしく、勢いよく地面を蹴り上げるようになった。そのせいで自分はお尻を痛めた。涙目になりながらしばらくじっと座ったまま痛みに耐えていると、絵梨香が「ごめん、つい……」と照れくさそうに謝った。
シーソーを思う存分楽しんだ自分と絵梨香は、ここに来る前にコンビニで買ったお菓子を取り出すとブランコに座ってそれをつまんだ。お菓子、といってもチーズやいかそうめんといったおつまみメニューではあったが。
ブランコは2つしかぶら下がっていなかったが、元々人の来ないような公園なので子どもの姿は見えず、遊具を占領しても怒られることはなかった。あとですべり台で遊ぼう、と心の中で思いながらゆらゆらとブランコを揺らした。
「うぬ、やっぱりアーモンドピーナッツは美味しいですな、絵梨香!」
「そうだねー!でも、あんまり勢いつけすぎて喉に詰まらせないでよー!」
自分と絵梨香のブランコが、ちょうど交差するように揺れる。体全体で風を受け止めながら童心に返る。こういう子どものやるような遊びでも一緒に付き合って遊んでくれる絵梨香のことを、自分は本当に好きだった。伊達に付き合いが長いわけではないのだ。
数分後、自分はブランコの勢いを緩めるとちょうどいい高さにきたところでぴょんと跳ね、両足で見事に着地した。
「飽きた」
「はやっ!!」
絵梨香の間髪入れない鋭い突っ込みにうんうんとうなずき、自分はすべり台に向かって走った。絵梨香はぽかーんとその様子を見ていた。
『お前ってやつは、気が変わるのが早いな。集中力が続かないタイプだろ』
「おっ、ノイズそこにいたのか!今まで声が聞こえなかったからまたどっかいってたのかと!」
『言っただろう。声は出さなくても、私は基本お前のことは見てるからな』
「やだちょっと怖いストーカーかしら?」
『少しだけ殴ってもいいか』
「殴れるもんなら殴ってみろやい!」
何もない場所にむかいあかんべーをすると、ふと視界の端に黒いものがサッと見えた。
「ほっ?猫だ!黒猫だぁい!」
自分は急に方向転換をし、目標をすべり台からその黒猫に変更した。黒猫はじっとこちらを見つめたまま動こうとしない。と、急に自分から逃げるように走り出す。むっとした自分はスピードをあげ、なんとしてもターゲットを捕まえようと公園の外に出た。きょろきょろとあたりを見回すが、すでに黒猫はどこかへ行ってしまったようだ。逃げられた、と諦めかけたその時、目の前の横断歩道に何か大きなものが落ちているのが見えた。「ん?」と訝しげにその塊に近づくと、それが子猫だということに気がつく。
「うわあ、子猫だああちっちゃあい!可愛い!もふもふしてるう!」
子猫は怯えているのか自分の腕に抱かれても逃げようとはせず、その小さな体を小刻みに震えさせていた。くりくりとした丸い目が潤んで、自分の姿が映った。
「っ杞憂!!!!!!!」
突然、絵梨香の叫び声が聞こえた。何が起きたのか、振り向くまでもなく、自分は空気が裂けるような甲高い音を聞いた。クラクションが鳴り響く、信号のないその道で、大きな運搬用トラックがスピードを緩めることなく目の前に迫っていた。
走馬灯とか、そういうものは見なかった。ただ、こういう状況に陥ると、本当に世界が止まってしまったかのような、時間がスローモーションになるというか、なんというか、生きているうちに体験するかしないかというそんなものが見れるんだと感心した。慌てるような暇もないくらい一瞬の出来事だったから、自分は逃げることもせず、ただ子猫をかばうようにトラックに背中を向けた。お父さんお母さん、親不孝者でごめん、あの世で会おうぜ!絵梨香ごめん、奢るのは来世にツケってことでもいいかい!
ぎゅっと目を閉じると、当然の如く視界は暗くなる。だけれども、トラックの存在がすぐそばまで感じられたその瞬間、何故か自分の瞼には赤黒い光が焼き付いて離れなくなった。
「きゆうううっ!!!」
絵梨香の悲鳴がどこからか響いてくる。あの世に来たというのに、まだこんなのが聞こえるのか。もしかして地縛霊にでもなってこの世に留まってしまったか?
ゆっくりと目を開けると、自分は子猫を抱えたままうずくまっている。ああそうか、君も一緒に連れてきてしまったか。そりゃあこんなかばい方をすれば巻き添えも食らうだろう。ごめんな、君の事はなんとか生かしておきたかったのに……。
右前方に、電柱に突っ込んで黒煙をもくもくとあげるトラックが見える。エアバックが正常に作動したらしいから、きっと運転手は無事なんだろう。自分という存在は天に召されてしまったけどね!
「…………あれ?」
天に、召されたのか?
あまりにリアルすぎるその光景は、自分が事故に遭う前のものと全く変わっていない。遠くからは救急車のサイレンが聞こえてくる。恐る恐る後ろを振り向くと、黒いタイヤ痕が生々しく残っている。今、電柱とごっつんこしているところに伸びているから、これはあのさっきのトラックのものだ。そして自分は、上に影があるのに気づいてそろり、と顔をあげた。
赤黒い、どすぐろいともとれるようなオーラのようなものを纏い、ふわふわとしたそれをなびかせ、お化けのような下半身に真っ赤なショート髪、両手を広げ自分を守るようにそこにいた「そいつ」は二の腕と首についた黒い輪から鎖を出して空中に漂っていた。そいつが振り向くと、額の上に謎のサングラスが乗っているのが見えた。
『……何をしてるんだ、お前は』
赤黒い目をしたその生命体「ノイズ」は、睨みつけるように自分に視線を落とす。自分はまだこの状況が飲み込めず、ぽかんと口を半分開けたまま、「……え?」とだけ呟く。
ふわり、と体をひねり真正面に向いたノイズは、右手をふっとかざすと自分の頭にこつんとぶつけた。
『殴れるものなら、と言ったな。周りの状況を見ずに突っ走るからこうなる。今の私なら、杞憂を殴る権利はいくらでもある。あとで絵梨香にしっかり謝るんだぞ』
そう言うと、ノイズはふっと皮肉な笑みを浮かべた。




