意味の無い言葉など
何も起こらずに。
そしてこれからも、何も起こらないまま。
全ては運命という名の無知な『意識』の思うがままに。
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『……おい』
それはあまりに突然で、誰も予想し得なかった事態。私も。本人ですらも。
何の前触れもなく、何の理由も無しに。
『冗談じゃない』
私の体内に宿るエネルギーを具現化したもの、鎖。私の思い通りに操れる。私自身は重力を感じない。使用者の、私の、気分による。らしい。「私」という存在を生み出した張本人、いわゆる創造主である杞憂。彼女がそう言っていたのだから間違いはない。
……………………
足元――私には足なんてないがあえてそう言わせてもらう――その足元には、いつものように腕の動きと連動し鞭のようにしなるような鎖はどこにもない。
ぼろぼろに朽ち果て、なんとも無残な姿になったそれは、一体何を意味するのだろうか。
うっすらと何となく確認しただけでも、杞憂は息をしているのかどうかも危ういということは分かった。
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ノイズは『意識体』と呼ばれる不思議な存在。お化けみたいにふわふわ浮いているので足は無い。
ノイズには不思議な力がある。自分の体を鎖に変えて戦うことができる。
ノイズは自分にしか見えない。そして、ノイズは自分が想像した姿になることができる。ただしその際ノイズはいつも以上に体力を消耗してしまうため、しばらくの間姿を現すことができない。
ノイズは自身の力を使い、ほんの少しの間だけ実体化することができる。ただし触れるのは、自分だけ。
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――所詮、私はただの『意識』なのである。
そんな私にできることはほんの少ししかなかった。
すうっと息を吸って気を整える。そして、普段は袖に隠れてほとんど見えることのない手先をぐっと伸ばし、割れ物に触るかのようにそっと杞憂の体に触れた。
軽く手を握ると、その指先が冷たくなっているように感じた。あくまで感じただけ。実際はそんなことないのかもしれないが、今はどうだっていい。私はふと、杞憂の上着のポケットにいつも彼女がいじっている携帯が入っているのを見た。
『…………』
私は杞憂に触れる。ただしこの携帯は触れない。これに直接干渉することはできない。私はすっと杞憂の手を掴み携帯を握らせ指先を操り、ホーム画面のロックを解除した。パスワードはいつも見ているから分かっている。
電話マークのアイコンをタッチし、少し迷ってから、「母さん」と書かれた電話番号に発信。しばらくして、もしもし?という聞き慣れたいつもの声が聞こえてきた。
それに対して私は返事をすることはない。言葉を発するにしても、向こうにはそれが言葉には聞こえていないだろう。
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「んん?もしもし~?」
憂華は突然の電話に少し驚きながらも、その相手が自分の娘からだと知り通話ボタンを押した。……押した、はいいのだが、相手からの返事がない。携帯の調子が悪いのかと思い軽く振ったりしてみるがどうやら違うようだ。通話時間を示す数字は一定の早さで時を刻んでいるので、向こうと繋がっているのは確かだ。もしかして悪戯?それにしてもこんなつまらないことをするような娘ではない、ということは憂華も薄々感じている。
「ちょっと杞憂?いたずら電話は無駄に通話料がかかるからやめてよね~、あでもファミリープランに加入したから家族間ならタダなんだっけ……」
少しおどけた様子でそう返しても杞憂の声は聞こえない。そのかわり、耳の奥に直接届くようなノイズがきーんと響いてくる。
「杞憂、なんだか通信環境が悪いみたい、電波が届きづらいとこにでもいるの?」
『――ザザ……ザザ、ザー……ザー……ザ――』
謎のノイズは何かを伝えんとばかりにずっと続いている。通信不良のせいで起こるノイズとは違う。憂華の直感がそう告げる。
「……杞憂?」
やがて、ノイズ音が途切れると共に通話が途絶えた。これは明らかに異変であり只事ではなかった。杞憂か、何かが、私に伝えようとしている。
憂華は予定よりも早く帰路に就き、早足で家へと向かう。さっき、夕方まで出かけると言っていたがどうしたのだろう。家にいなければ商店街を探し回るだけだ。
やがて憂華は自宅のリビングで倒れている杞憂を見つけた。眠っているように見えるその体は全体的に冷たくなり、脈を感じ取ることが困難な状況だった。憂華はすぐさま病院に連絡すると、杞憂をそっと抱きかかえ、未だ目を閉じたままの娘の顔をそっと撫でた。自然と流れてくる涙を必死でこらえて、憂華はただただ娘の無事を祈った。
救急車が到着したのはその数十分後だった。
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ふっと目を覚ますと、いつもの見慣れたクリーム色の天井はどこにもなかった。
真っ白の天井に真っ白の蛍光灯がひっついている。これは寝起きの目には少々痛い。何度か瞬きをした後に軽く伸びをしようと腕を伸ばすと、左手に痛みが走り思わずうめく。ゆっくりと腕を動かして見てみると、そこには針のようなものが刺され管のようなものが通っているまるで機械のような腕があった。ドラマとかでよく見るアレだ、病院で見るやつ。点滴だかなんだか。なんで自分がこんなもの付けてるんだろうか。
右手に柔らかいものの感触を感じ首をそちらに向けると、ずっと握っていたのだろうか、疲れ果てた顔の母が自分の右手を握ったまま眠っていた。なぜこんなところにいるのだろう?今日は遅くなるんじゃなかったのか。
というかそもそも自分が今置かれている状況が確認できない。これはもしやまた夢なんじゃないか。ここまでリアルに病院のベッドの上にいる夢はあまり見たくなかったのだが。何も悪いことはしていない!はずだ。
「………………」
そこで自分は思考を手放し、諦めて真正面から現実を見た。何かよく分からないが、自分はさっき寝て起きて、倒れてまた寝て、今ここにいる。ここまでの記憶が無い。気絶してたのだろう。多分。
母を起こすべきかどうか迷った。この様子からして、きっと自分の用事を放棄してここに来てくれたのだろう。疲れているところをわざわざ起こしてしまうのは悪いような気もするが……?それでもやはり心配をかけてしまったことに対して謝りたかったので、軽く右手を動かして声をかけた。
「母さん、おっかさん」
「……ん」
「寝てた?ごめんね、起こしちゃって」
ふっと顔を上げた母は自分の顔を見るなり、はっと目を開いた。そしてすぐにその瞳を潤ませて強く手を握り返してきた。
「杞憂、杞憂~……よかった、よかった……もう、本当にどうなるかと思っちゃった……!」
「うんうん、自分もびっくりしたよ。ごめんね、母さん」
母は本当に自分のことを心配していてくれたみたいで、それがつらかった。いつも笑顔を絶やさない母がここまで悲しそうな顔をするなんて。申し訳なく思いながら母の手をぐっと握る。
「ホントにごめんね、なんか大変なことになっちゃって。何がなんだか全然わかんないけど、心配かけちゃってごめん」
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それからしばらくして、病室に若い男性が入ってきた。この人が自分の担当医だと母さんが教えてくれた。軽く頭を下げると、相手も軽くお辞儀をして胸元の名札を見せた。「篠田」と書かれた名札を下ろすと先生はふっと安堵の表情を見せ、よかったと言った。
母さんや篠田先生から色々と話を聞いて、やっと自分はその当時の状況を知ることができた。どうやら自分はリビングの床で倒れているところを母に見つかり、救急車で運ばれてきたらしい。そのあとの医師たちの必死の治療で一命は取り留めて、なんとか自分はこうして目を覚ますことができた。もう少し発見が遅れてたらもしかしたら……と、先生が言った時はさすがに背筋がぞくっとした。
「本当に危ないところだった。もう少し、お母さんが早く君を見つけていなかったら手遅れだったかもしれない」
「ちょ、先生そういうのは何度も言わなくていいです怖いです」
「でも本当によかった……杞憂があの時連絡してくれなかったら、私も気づかないままだったから」
「ん?連絡したって、自分が?」
「そうだよ、ずっと変な音が鳴りっぱなしで様子がおかしかったから、きっと何かあったんだと思って不安になって……」
「ずっと変な音……」
「神様からのお告げとか、でしょうかね。何はともあれ、一時的にこうやって目を覚ましてくれただけでもよかったです。ですが杞憂さんにはこれからもう少しの間、こうなった原因を調べるために色々と検査を受けてもらいたいのですが……」
「そりゃあつまるところ入院ということですかい先生」
「そういう形にはなります」
そう言って篠田先生は母さんを呼んで話をしたいと言った。多分入院費だとか治療費だとか今後の予定だとかそういう大人の話だろう。しばらくは安静にしててね、という先生の言葉に大人しく従い、今日は早めに寝るようにと母さんに言われた。
「それじゃあ、杞憂さん。また明日様子を見に来るから。何かあったらすぐに看護師を呼んでくれて構わないからね」
「先生、こんなことを言うのはちょっと悪い気もするんですけど、その杞憂さんって呼び方はやめてもらえませんか?呼ばれ慣れてないもんだから、せめて呼び捨てとかで……」
「こら杞憂、先生は友達じゃないんだからそういうことを言うのは……」
「じゃあ、間をとって杞憂ちゃんって呼ぶのはどうかな?さすがに呼び捨てはあれですから」
「あー、じゃあそれで。まだそっちの方が気が楽ですね」
「もう……本当、すみません」
「大丈夫ですよ。患者さんの要望はなるべく多く取り入れてあげた方がいいんです」
そう言って二人は病室から出て行った。一人取り残された自分は部屋の明かりを少し暗くして目を瞑った。
「いや全然眠くないし」
あんなことがあって急に寝れるか?そんな図太い神経は持ち合わせていない。自分は意外にも繊細だと言われる。意外にも、ってのは余計だが、絵梨香もたまにそう言うのだ。「杞憂は余計な所がナイーブ」だと。
「余計ってなんだ余計って!」
今更になって腹が立ってくる。本当に今更だ。一体いつ頃言われたのかすらも覚えていない。怒っても無駄なのでふぅと一息ついて心を落ち着かせる。そういえば絵梨香は今なにしてるかな?そんなことをふと考えながら、自分は改めて病室を見回し、ここが個室だったことに感謝した。
「ねぇ、今何時?」
誰もいない部屋に、自分しかいない部屋に、他に誰もいないのを理解した上でそう呟いた。無論、外にいる看護師さんに聞いた訳ではない。間髪入れずにその答えはどこからか響いてきた。
『午後10時47分だ。生意気な女子高校生が就寝できるような時間ではないな』
「そこそこに言ってくれんじゃないのさー、喧嘩売ってる?」
『的確な答えを返したまでだ』
ふと右側に首を傾けると、さっきまで母さんが座っていたパイプ椅子の上にノイズが浮いていた。相変わらずむっとした、というよりは無表情のまま、すっかり闇に包まれた窓の外をじっと見つめている。その窓にノイズの姿は映っていない。ノイズの横顔はいつにも増して謎めいた雰囲気を醸し出していた。
「悪いんだけどさ、そこに置いてある自分の携帯取ってくれない?それがあれば毎回わざわざノイズに隣の部屋の時計を見に行ってもらわなくてもすむんだけど」
『知っているだろう。私はこれに触れない』
「ノイズでしょ」
急に真面目な声を出したせいか、ノイズはふっと自分に顔を向けた。自分でもあまり意識はしていなかったけど、意外と低い声が出ていたのかもしれない。
「さっきからずっと気になってた、母さんに連絡したっていう謎の音。ノイズでしょ」
『…………』
「自分は母さんに連絡なんてしてない。どうやったかは知らないけど、ノイズが母さんに知らせてくれたんでしょ?なんで?どうやって母さんに電話したの?」
『別に大したことはしていない。ちょっと考えればできることだ』
「……あ、そう」
自分から話を振ったのに、それ以降話すことがなくなってしまう。何となく重い空気が流れる。その中で自分はただ、「ありがとう」と言うことしかできなかった。
「ノイズがいなかったら、自分本当に死んでたかもね。また助けられた。命の恩人だよ」
『……杞憂が素直にお礼を言うなんて感心だ』
「いつも言ってるけど!」
『少なくとも私にはあまり言ってないんじゃないか?何だかんだ遠回しに言われることならあるが』
「そんなことないと思うけど……」
不意に扉の向こうから足音が近づいてきたので一度会話をやめる。看護師か患者の親族だかは分からないが、その足音が自分の部屋の前を通り過ぎて隣の病室に入っていったのを確認すると、自分はふーっと深めのため息をついた。
「そろそろ疲れた。寝る」
『そうか』
お互いが、この不思議な雰囲気をどうすればいいのかと悩んでいた。と思う。自分は管が繋がれた腕を気遣いながら、なるべく顔が隠れるように掛け布団を持ち上げた。ぎゅっと目を瞑るとそのまま何も考えないように睡魔に身を委ねる。ノイズは、自分が今度こそ本当に就寝準備を始めたのを見届けてから、一度存在を消した。