番外編〜俺の可愛いヴァレンタイン(2)
今日は火曜日、バレンタイン当日。俺は大学の授業を終えるとバイクに乗って、隣駅近くのバーナードカフェのバイトに行く。彼女の火曜日はというと、勤めている喫茶店の定休日で、午後から料理教室のアシスタントのようなことをしていた。それがこの浅葱駅界隈なので、帰りに俺のバイト先のカフェに寄る。
お気に入りのヘーゼルナッツ・ラテを飲みながら、ノートやデジカメを開き、教室でやったことの復習をするのが彼女のきまりだ。記憶が途切れる前にまとめておきたいらしく、教室からほど近いこの店が最適なのだという。
「おい、お呼びだぜ?」
バイト仲間がうんざりした顔をする。俺は今日、志願してキッチンに立っているのに、さっきから何人かの女の子がチョコを持ってやってくる。いつ彼女が来るか、そればかりが気懸かりだ。俺は嫌々ながらカウンターに向かった。
「・・・これ、受け取って下さい」
女の子の手から、リボンの間に手紙が挟まった高級チョコレートの箱がずいと差し出される。
「すみません、俺仕事中なんで」
同じ言葉を何回も繰り返す。
「ご迷惑かけてすみません、でも受け取って欲しいんです」
ばしっと決めた化粧に巻き髪、自信ありそうな表情。今度の子は手強そうだ。
「悪いけど、付き合ってる人がいるから。その人からしか要らない。」
「受け取ってくれるだけで、いいんです」
殊勝な事を言いながら引く様子がない。
「悪いけど」
「お願いします」
「本当に要らないんだ」
「つきあっているって、あの年上の人ですか。似合わないと思います。だって・・・」
その言葉に、かっとした。俺はその包みをひょいと取り上げると、ダストボックスへ思い切りばすん、と捨てる。カウンターの中からも、客の間からも、しんと冷えた空気が漂った。
「勤務中ですので、失礼」
キッチンに下がる。わっ、という泣き声と共に、かっかっと走り去るヒールの音が響いて自動ドアがしまった。店内の空気はまたゆっくりと元に戻ってゆく。
うるせえ。料理がうまくて、頭が良くて、はっとするほど綺麗で・・・大人で。彼女に似合わないなんて俺が一番知ってるさ。だけどこの気持ちはどうしようもない。俺は腹立ち紛れにホイップクリームをやたらにかき回した。
少しすると彼女はやって来た。柔らかそうな茶色の髪、ちょっと物憂げな瞳、小さな肩。彼女を見るだけで、棘だらけだった俺の気持ちは、花屋がするみたいに一息につるんと滑らかにされ、胸の中には匂い立つ薔薇の花しか残らなかった。レジに来ると相変わらず俺に気付いてないようなふりで注文をする。構わずにっこりして目配せをしてやると、ちょっと反応して僅かに赤くなるのが可愛い。彼女は勤務中より仕事を離れた所の方が断然素直だ。注文を待つ間、カウンターに佇む姿も愛しくて、手元が狂いそうになった。いやいや、失敗は許されない。
「お待たせしました。」
かたん、とカウンターに置いたカップ・アンド・ソーサー。いつものラテのカップに寄り添うように置かれた、切手くらいの茶色いクッキーが3つ。
「・・・これ、頼んでないけど。何?」
無表情を装い彼女が言う。
「サービスです」
俺は営業スマイルで返しながら、耳元で囁いた。
「今日はバレンタインだから」
彼女は又激しく動揺して、赤い顔でふらふらしながらラテを持って席につく。いつもの様にノートとデジカメを出して書き物を始めたが、どうにも進まない様子で、ため息ばかりついている。そのうち観念したように肩を落とすと、皿に乗ったクッキーを口に入れた。わかってくれるだろうか。しっかりと噛み砕くと、突然はっとして、せっかく落ち着いた顔色がまたじわじわと赤くなる。ほんと、飽きない。それでも彼女はゆっくりとそれを食べながら、ノートに専念し始めた。時々ぽろりとクズが落ちるが、ナプキンを敷いてあるらしく、小さなかけらももう一度指先で摘んで口に入れている。一粒だって落とさない、というように。いじらしい仕草に俺の心はじんと温まった。
その後も俺にチョコを持ってくる女の子は何人かいたけれど、今度は余裕の笑顔で交わすことができた。彼女さえいれば俺はご機嫌だった。
バーナードカフェにかかる音楽はいつもジャズ。今日はバレンタインにちなんだ愛の歌を流しているので、何度となく繰り返すその旋律も歌詞も耳について離れない。
同じ曲で、なんとまあ色んなバージョンがあるものだ。マイルス・デイヴィスのトランペット、ミルト・ジャクソンのヴィブラフォン、ミシェル・ペトルチアーニのピアノ。ヴォーカルだって、サラ・ヴォーン、トニー・ベネット、エラフィッツジェラルド、ナット・キング・コール。
思わず口ずさんでしまう。My Funny Valentine……彼女のことを思えばことさらに甘く。
そのうち俺のバイトの上がり時間になった。彼女は何も言わないけど、一緒に帰るつもりで、わざとこの時間まで待ってくれているようだ。なぜなら彼女の火曜日の服装は、タンデムが出来るようにいつもパンツ・ルックだから。
俺はバックヤードで着替えを済ますと、彼女のテーブルに近づき、コンコンと軽くテーブルをノックした。ふっと見上げる視線。他の人からだと平然として見えると思うけど、俺には分かる。ちょっと照れて、困惑している。
「・・・帰ろっか」
俺は彼女のとっくに空になったカップとソーサーを慣れた手つきで片付けた。
バイクを押しながら住宅街を歩く。近くの公園までは子供も多い細い道なので、タンデムは避けたい。
「何で、男の君からクッキーを貰わなきゃいけないのよ。ていうか、キャラウェイのクッキーなんてどうせ君の手作りなんでしょ。またバーナードカフェのオーブン、無断で使ったのね」
お説教はいつもの調子だ。
「いや、無断じゃないよ」
「え?」
「今日、俺はタダ働き。今日のバイト代を交換条件にして、昨日の夜オーブンを借りた」
彼女の目がはっと見開いた。
「先にキャラウェイを『盛った』のは、あなただから」
にやっと笑ってじっと彼女を見ると、明らかに動揺している。
「も、盛るなんて!毒薬じゃないわ!」
「・・・でもあなたは、知ってたんでしょ?」
俺は名探偵ポアロさながらに、もったいつけて彼女を追いつめる。
「あなたの幼なじみのろくでなしが言ってた。結婚式の日、彼の奥さんに『恋のスパイス』だって渡されてた、って」
はあっと観念した彼女のため息が漏れる。
「・・・効いたよ」
俺はバイクを置くと、公園の木の陰に彼女を引っ張り込んだ。
「もっと、もっと、あなたが好きになった」
彼女の身体を樹にもたれさせて、逃げないように綺麗な顔の両側に手をつく。微笑みながら見つめれば、長い睫がふるふると震えた。
「あんな可愛いことしなくたって」
彼女の手を取って、手の甲に口づける。
「俺はとっくの昔から、あなたに首ったけなのに」
彼女は訳も分からず首を振る。
「・・・今日、君目当て女の子が、何人も来てたじゃない」
見てたんだ。
「俺があなたから離れるとでも?」
何度言ったら分かるの。どんなに言い寄られても、あんな女共に興味なんかないんだよ。
「順さ〜ん」
俺は腰を折って、彼女が弱いという上目遣いで見つめてやる。
「大好きだからね?」
ぼっと音がする程、急激に赤くなる。
「俺のキャラウェイはどう?効いてきた?」
「きゃっ!」
高く抱き上げると身体を硬くして悲鳴を上げる。俺は声を上げて笑いながらぎゅっと抱きしめると、するすると身体を滑らせるようにして地面に彼女を下ろした。
熱く見つめれば照れて下を向くから、彼女の両頬を両手で挟んで、甘く甘く口づける。口付けが深くなる程に、おずおずと俺の背中に回ってくる小さい温かな手が愛しい。
キスの合間に囁いた。
「愛してるよ」
甘くて辛い、君というスパイスを。
「・・・俺の可愛い、ヴァレンタイン!」
Fin
バレンタインのお話が書きたくて、フライングで書いてしまいました。
もてるのに自分のことは気付いてない天然振りが憎めない彼と、頑固で照れ屋な彼女。
少しお休みを頂いて、この二人のお話を少しずつ書き進めてまいります。
連載が始まりましたら、ツイッターhttp://twitter.com/pleaseinupleaseでお知らせしますので、もう暫くお待ち下さいませ。
仲の良い方はさらにラブラブに、喧嘩中の方は仲直りして。
皆様も素敵なヴァレンタインを!