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第六章|言えぬ句点の先へ

[語れば終わるのか。それとも、終わらせられるのか。]

[To speak—does it end, or is it ended?]




 目覚めた時、彼の中で、まだ声が震えていた。

 外の音ではない。


 語律によって裂かれた、癒えぬ残響。

 声帯は微かに震えていた。

 けれど、声は出なかった。


 失声ではない。


 ——彼は、話すことを恐れていた。


 話した瞬間、また暴走するかもしれない。

 また詩化するかもしれない。

 また、“朗読される”かもしれない。


 彼は身を起こす。


 そこは、谷の外。

 断詞の崖と呼ばれし地なりき。


 空は灰白。まるで消しゴムで擦られた紙のよう。

 崖の端には、断句のように散る石。

 風は肌を撫でるが、無音で薄い


 ここは語律圏から遠く、

「語彙粒子」すら希薄な真空のような場所。


 ラクリマがいた。


 彼女は崖の傍、風に身を沈めおり、

 まるで句点の代わりに置かれた沈黙の記号。


 近づかず、離れもせず——

 ただ、「そこにいる」。


 彼は彼女を見た。喉が渇いていた。


 言いたい。


 けれど、最初に浮かんだのは——


「もし僕が話したら、彼女は去ってしまうのでは?」


 だから、黙った。

 彼女も、黙っていた。


 ヴェインの言葉が、脳裏で響く:

「お前は、私が記すことで初めて存在する。」


 ——誰にも書かれなければ、

 自分は存在していないのだろうか?


「名前はない。君が僕の声を聴いたとき、ようやく——僕は存在する。」


 その句も、

 本当に彼自身の言葉だったのか。


 あるいは、誰かの残響が、

 彼の中にこだましていただけなのか。


 喉が熱い。

 舌の奥に、言葉が詰まっていた。


 言わねばならない。


 言わなければ、

 彼は本当に「無音」となる。


 しかし、言えばどうなる?

 また暴走するのか?

 兵器として扱われるのか?

「完成」されるのか?


 呼吸が震えたその時、

 風が肩を撫でた。


 自然の風、かと思った。

 だが、肩に微かな温もり。


 振り返る——


 ラクリマが、傍にいた。


 彼女の翼膜が、彼の肩を掠めたり。

 触れてはいない。


 だが、「非言語の呼吸」が、

 静電のように彼の耳元に跳ねた。


 彼女の瞳には、灰白の空。

 その奥に、柔らかな期待。


 彼は、悟った。


 彼女が去らないのは——

 彼の沈黙を、聴いていたからだ。


 彼女は彼を名付けず、命じず、

 ただ、彼の沈黙すら「存在」として受け入れていた。


 彼は、ようやく、低く言った:

「……言うべきか、わからない。」


 風は答えず、ラクリマもまた、沈黙を保った。

 だが、彼にはわかっていた。


 その一言は、誰かのためではなく——

 自らのための存在の確かさだった。


 喉の重みが、少しだけ軽くなる。

 言葉を刻む足取りが、ようやく踏み出せる。


 彼は立ち上がる。


 ラクリマは身を翻し、遠方を見る。


 その先には、

 残響の高原——

 未完の詩句が刻まれた碑林。


 沈黙者たちが囁いた、

 忘れられた声が眠る場所。


 彼らは、向かう。


 まだ朗読されていない詩を、探すために。


【第六章 完】

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