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未詠の声:異世界の詩  作者: 雪沢 凛


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第十章|世界は汝を謡う

[私は名前を欲しない。名が付けば、それは私ではなくなるから。]

[I do not want a name—because once named, I will no longer be me.]




 風が運んできたのは——

 声ではなかった。


 それは、「語律」が近づく感覚。


 彼とラクリマは語林の廃径を踏破し、殞詩の荒地を越えて、「無韻界」の境界に辿り着きおり。

 そこには最後の語障の裂谷が広がっていた。


 その先には、詩の原初の痕跡——

 語源深域が待っている。


 そこだけが、彼が問い続けた:

「僕は、いったい何なのか?」

 に答え得る場所だった。


 その夜、彼は目覚めた。

 夢ではなかった。


 世界が、彼に語りかけていた。

 空気中に、無数の声が重なり響く。

 それらは誰の声でもなく、書頁が勝手に捲られ、舌が未知の名前を練習するような、


 ——世界が一つの詩を朗誦しようとしている感触だった。


「お前は、詩を——“言い終える”覚悟があるのか?」


 その声は、彼の意志を問わず、

 過去に彼が語った句、無理に吐き出された殘響の詩を繰り返していた。


 彼は起き上がり、山の向こうに浮かぶ一筋の光を見た。

 それは太陽ではなかった。


 帝国が展開した語律兵器群——


 偽命詩体たち。


 彼の声と殘響を模した彼らが、

「詩律の強制上書き」を世界に向けて放っていた。


 大地が裂け、詩の行が消されるように空間が歪む。

 それは攻撃ではなかった。

 ——それは「彼を完成させる」行為だった。


 彼は膝をつき、喉を押さえた。


 初めて、

 彼は「読まれてしまう恐怖」を知った。


 ——それは署名なき詩に、他人の名前が書かれようとしているような感覚。


 遠くから、クローン体たちの声が響く。


 重なる残響:「われ(くうはく)——」


 心臓が脈打ち、その声と共振してしまいそうになる。


 だが彼は知っていた。

「——それは、僕ではない。」


 世界は、最も大きな声を選ぶ。


 最も理解しやすい詩を、

「世界が朗誦する詩」として選ぶ。


 ラクリマが彼の隣に舞い降りぬ。


 彼を包むように翼を広げ、

 まるで“読み上げを拒否する碑”のように沈黙した。


 彼は喉に手をあて、囁く:

「……今、僕が本当の詩を語ってしまえば、僕は——“僕”でいられなくなるのかもしれない。」


 ラクリマは答えない。


 ——今回ばかりは、

 彼女は“声”を与えなかった。


 これは、彼だけが語るべき行。

 あるいは——語らずに選ぶべき沈黙。


 彼は立ち上がる。


 語源の痕が煌めく裂谷の奥へ、

 彼は自ら歩みを進める。


 ——模倣された“自分の声”との対峙。


 それは勝つためでも、証明するためでもない。

 ただ、世界に告げるため。


「君たちが朗誦してはならない。」

「なぜなら——僕は、まだ“言い終えていない”。」


 彼の声は低く、だが確かだった。


「我、自ら無より生ず。声でありながら、名を持たず。

 汝が書きたがるもの、それは我にあらず。

 この身こそ、未だ語られぬ詩の——始まりなり。」


 ラクリマが、風に乗せて低く唱えぬ:


「彼の名——空に刻まれし声。言の葉に宿りしは、未完の響き。

 いま此処に、世界がそれを謡わん——」


 ふたつの声が交差する。

 ひとつは拒絶。

 ひとつは、詩の起点。



 その瞬間、

 世界の朗誦は——止まった。


【第十章 完】


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