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犬飼くんを連れて辿り着いたのは、一軒の家の前。
今回のターゲットはここにいる。証拠も根拠もないけれど、私の「仲介者」としての第六感がそう告げていた。
家自体はそんなに広くない。三角の屋根と薄い色の壁が特徴的なだけの普通の民家。敷地内には黒い車が一台止まっている。モノクロ世界だからこんな表現しかできないが、本当はもっとカラフルに違いない。
犬飼くんが何かを言いかけたような気がしたけれども、私はそれに一切応じることなく、文字通り限りなく黒に近いグレーの扉を難なく開けた。
ひんやりとした空気。この時期なら暖房が効いていてもおかしくないはずなのに、この家は外よりも寒かった。
よく耳をすませると、家の中からすすり泣いているような音が聞こえる。
十中八九、間違いなくターゲットだ。けれども何故か足が動かない。これ以上入り込むことができないのだ。
ここから先は「時計屋」のお仕事、というわけか。仕方がない。
「ねぇ、澄麗。さっきから何を」
「静かに」
胸の鼓動を少しでも抑えようと、胸元に拳を当てる。気休め程度の行動では一向に収まる気配はなく、余計に心臓の働きが活発になった気さえある。
時間の止まった世界は、こんなにも静寂としたものなのか。音が全くしないせいで、無音空間のみで生じるあの独特の耳鳴りが頭に響いた。
中ですすり泣いているのは女性だろう。年齢ははっきりとしたことは言えないけれども、少なくとも成人はしている。
時間が止まっていることに気付いているのかいないのか、彼女は世界の異変などお構いなしに泣いている。それほどショッキングな出来事でもあったのだろうか。
ひらいたひらいた
何の花がひらいた
れんげの花がひらいた
ひらいたと思ったら
いつのまにかつぼんだ
つぼんだつぼんだ
何の花がつぼんだ
れんげの花がつぼんだ
つぼんだと思ったら
いつのまにかひらいた
聞こえてきた天使の歌声も、今回はどこか悲しげだ。
楽しく歌っているというより、彼女を元気付けようとしているといった方が正しい気がする。
「どうしたの? おばさん、げんきないね」
たどたどしい滑舌のユキちゃんの言葉も、どこか戸惑いを感じる。
子猫のように擦り寄る彼女の姿が容易に想像できてそれだけでもうどストライクに世界平和なんだけれど、聞かれた方は涙声になってて聞き取り辛い。
ようやく聞き取れた唯一のワードは、「ごめんなさい」だけだった。
「どうして謝るの? おばさん、なにかわるいことしたの?」
「……ごめんなさい……ごめんね……ミサちゃん……」
ミサちゃん?
娘さんの名前だろうか。思えばこの空間、ほんのりと線香の香りがする。
もしかして、その“ミサ”ちゃんが亡くなったせいで、制止世界に迷い込んでしまったのだろうか、この人は。
「……どうしよう……困ったな……」
「ユキ」
本当に困り果てた声色に被せるように、別の少年の声が聞こえた。多分これはイトくんだ。
彼の声はユキちゃんのとは異なり、ピンと張った弦のように真っ直ぐで自信に満ち溢れていた。
「俺、あんまり覚えてないけど……このミサって奴に見覚えがある。多分、前に『時間』を止めて、俺が担当した奴だ」
「ほんと?」
驚いた。イトくん、前に自分がやった仕事のこと覚えてるんだ。
「ああ。……でも、どんな内容だったかまでは覚えてない。やっぱり忘れちまうんだな、こういうのは」
「……お兄ちゃん」
「でもこいつは、勝手に自分から死ぬような奴じゃなかった。なんだかんだ言って、どんなに醜くなろうとお構いなしに、必死に藻掻いて生き抜くような強い奴だ。それだけは言える」
ああ、やっぱり覚えてないのか。
でも、大事なところはちゃんと覚えていた。そこは偉い。
すると、そこで突然啜り泣きが止まった。時間が経って落ち着いたのか、イトくんの言葉に感銘を受けたからなのかまではわからないけれども。
「そう……あの子は強い子だったわ……動物も植物も大好きで……あの子……あの日は、生き物係で花壇の手入れをしていたの……。そこに、飛び降り自殺を図った生徒が落ちてきて……」
ぐしゃっと、いってしまったわけのようだ。
しかし、それではただの事故だ。彼女が自責の念に駆られる理由になどなるのか……と疑問に思っていたが、親という生き物は時に珍妙な思考に走る。彼女もそうなのかもしれない。
「私が悪いの……私が、パピーウォーカーなんて引き受けたから……あの子が生き物好きになって……私が……あの子を、生き物好きにしてしまったから……!」
やはり、案の定だった。
わけのわからない思考だ。共感できる要素がない。けれども誰を責めるにも相手がいないのだろう。だからとやかく自分を責めているんだ、この人は。
「この親にしてこの子ありってか?」
イトくんが、久々に生意気な口を聞いてきた。けれども今回だけは何を言い出すのかちょっぴり楽しみである。なんせ相手が相手だから。
「なんでも自分のせいにすりゃあいいと思って。そりゃあれか? あんたは娘とアイリスが会わなきゃ幸せだったとか、そう言いたいわけ?」
「……ええ、そうよ……そうに決まってるわ……だってあの子はそのせいで……」
「俺はそうは思わない。だってあんたの娘、アイリスのこと大切な家族だって言ってたんだぜ?」
すらすら言い返すイトくんに、私は言葉を失った。
彼は自覚しているのだろうか。彼自身、“ミサ”という女の子のことをちゃんと覚えているということを。
その証拠に、“ミサ”の家族の名前を、誰に教えられたわけでもないのに、さらっと口にしていた。
「あなたに……あなたにミサの何がわかるのよ!? ミサは私のせいで死んだのよ!? 私の育て方が間違っていたから!!」
「じゃああんたはあいつに一度でも『死ね』って言ったことがあんのかよ!?」
ヒステリックな声に迎撃するイトくんの気迫が、姿の見えないこちら側からでも肌からビリビリと感じ取ることができた。
「俺は俺でもわかるような間違った教育を受けた。お国のために死ね、生きるのは恥だってな。でもそれが間違いだと思うことも口にすることも禁じられた。そういう時代だったからな。
でもあんたは違う。あんたは命の大切さをそいつに教えた。お国のために死ねなんて言ってた連中とはわけが違う。
パピーウォーカー? いいじゃねぇか別に。それのどこが悪いんだよ。生き物係? 上等だ。ペットは無駄だとか役立たずとかいって叩き殺してた奴らと比べりゃ月とすっぽんだ。
あんたの娘は十分立派に育った。なのにあんたは不満なのか? 精一杯生きてたのにこれ以上何を望むんだ? 鷹原美紗都はただ身勝手な他人に殺された被害者ってだけだ。そうだろ?
あんたの娘も、あんたにも、誰にも非はない。ただ……不幸な事故だったってだけじゃねぇか」
覚えているという自覚はなくとも、覚えているという事実がある。
これは、病だ。イトくんたちを苦しめる、クロノスタシスの延長線上を生きる彼らに課せられた、試練そのもの。
その試練の病を患うイトくんの言葉はどこまでも真っ直ぐで、胸の奥にまでぐさりと突き刺さった。
彼らはただ、生きたかったんだ。
そして、“ミサ”ーー鷹原美紗都ちゃんも。




