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「時計屋」についてわかっているのは、彼らが戦争経験者であることと、彼ら自身の記憶がほとんど残っていないこと。
未来を生きられないから体が成長することも老いることもない。その上何かを思い出すことすら困難。時間の止まった世界に順応しきった彼らの精神は、時折世界に迷い込む人間を救うことによって保たれる。
ボランティアする人間は、自分がボランティアされているのだと言うことがある。それは、誰かの役に立てたという喜びを学ぶことにより、人との繋がりを感じて幸福を得るからなのだ。
「時計屋」はつまり、その幸福感によって人格を保ち、自分という人間を守りながら精一杯生きているのだ。これぞまさしく、情けは人の為ならずといえる。
「つまり彼奴らは、特殊な環境下にあるだけのただのボランティア団体というわけか……」
「ぶっちゃけそうだね。でもね、いくら人助けしたからってその人がずっといるわけじゃないし、お互い存在も忘れちゃうんだから結局意味のない活動になっちゃうんだよ。この矛盾、犬飼くんはどう思うよ?」
そう。彼らは忘れられてしまうし、忘れてしまう。それではせっかく繋がった関係も台無しになってしまうのだ。
これでは人格を保つことすら危うくなるのでは? ということを私は指摘している。
でもさすがは犬飼くん。彼ははその答えをあっさりと導いた。
「迷い込む人は一人じゃないから大丈夫……とかじゃない? 澄麗みたいに記憶を維持する人間も、少なからずいるってことでしょ」
「でも彼らはきっと私のことを忘れてるよ?」
「でも会えば思い出すんじゃない? 澄麗だって、例の台本を見たおかげで、忘れてたこともすぐ思い出したでしょ?」
「でもそれはこの世界にいたからかもしれないし。あっちにいたらわかんないよ?」
「じゃあもうひとつの仮説」
さすがは私の彼氏。ディベートのラリーが面白いくらいによく続く。そしてこの手がだめならすぐに次の手を出す。学年一位は伊達じゃない。
「彼らの精神は、彼らとこの世界の間を行き来できる人間によってバランスを保たれているとしたら?」
これはまた新説だ。いや、新説でもないような……?
しかしこの発想は嫌いじゃない。「時計屋」と「迷子」の他に第三の存在があるという説とは実に面白い。ありそうでなかった考え方だ。
「『時計屋』でも『迷子』でもない存在……仮に『仲介者』としようか。『仲介者』は『迷子』と違って『時計屋』と自由にコンタクトがとれる。『時計屋』は彼らの存在により人格を維持することができる、ということなんじゃないだろうか」
「犬飼くんのその仮説に沿うなら、『時計屋』との接触による『仲介者』のメリットは?」
「恐らく『仲介者』は澄麗、君のような人間が選定されるんじゃないかな? 摩訶不思議現象に心が踊るような、非日常に憧れるような人間が」
ほう、私か。確かに、もし「仲介者」という立場があるのなら喜んで引き受けたいな。
「もしくは毎日が退屈で仕方のない人間とか。或いは単純にそういう超能力を持っていて、他に使い道がないから一方的に使っているだけとか。いずれにせよ、暇を持て余した人々の遊び……否、ボランティアってとこかな」
「ボランティアのボランティア……ね。人と人が支え合える素晴らしいシステムじゃないの」
言われてみれば、私もかつて「仲介者」に会った気がする。誰だか忘れたけれど、とりあえずすっごい美人だったような。
「もしかしたら澄麗には、『仲介者』の素質があるのかもしれないよ。現に複数回『時計屋』と接触しているんでしょ?」
「まぁね。前に誰かの能力が移ったーみたいなこと言われたことがあるし……あれ……言われたっけ……?」
さっきからなんなんだ、この違和感は。
喉に小骨が引っかかる、なんてレベルじゃない。なんかものすっごいことを見落としているような……ものすごく大きなトリックアートのようなものに騙されているような……。
どうも私は、根本的なところから勘違いしている気がする。この違和感の正体は、一体何なのだろう。
「能力? 能力って何のこと?」
そういえば一年ほど前に、この近くで自殺騒動があったっけ。確かいじめを苦にした……とかで……。
「澄麗?」
自殺した子は、そのあとどうなったんだっけ? そもそも、なんでいじめられてたんだっけ……?
……なんで私、こんなこと考えてんだろ……?
「澄麗? 聞いてる?」
そういえば、今何時だろう。本格的に冷え込む前に早く帰らないと。
図書室の壁掛け時計を見た時、秒針が一瞬だけ止まっているような錯覚に陥るあの現象ーークロノスタシスが発生した。
でも、今回は何かが違う。根本的に、いつものあの現象とは異なるものがある。
私は思わず、犬飼くんの手首を掴んだ。
「えっ!? どうしたの」
「静かに」
動揺する犬飼くんを制した瞬間、ただでさえ静かだったこの空間に更なる静寂が生まれる。
せわしない図書委員も、本を選んで迷っていた生徒も皆動きを止め、モノクロへと引き込まれていった。
「え……何だこれ……?」
「……やっぱりね」
手を離しても効果は持続し、犬飼くんはモノクロに引き込まれることなく辺りをせわしなくキョロキョロ見渡していた。
「澄麗、これって……?」
「私、『仲介者』になったみたい。……“彼女”の代わりに」
「彼女……?」
校庭の方から気配がする。誰かが悲鳴を上げているような気配。今まで感じたことのない、五感では証明できないような感覚だ。
「行こう、犬飼くん。『時計屋研究会』の名にかけて」
名前の知らない、“彼女”の代理として。