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忘れられたオフィウクス  作者: 酣睡


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迫る試練、母であっても手加減はしない

廊下の両脇に静然と立ち並ぶ白薔薇は、咽せ返るほどに甘美な幽香を放っていたが、吹き抜ける微風はまるで冷え切った霊安室のように凍てつき、死脈の如き静寂を孕んでいた。


セリアとカレナは、互いの指を隙間なく絡め合わせていた。先刻、医務室の病床で交わした熱い愛撫と声なき包容が、とうに砕け散っていた彼女の勇気の残骸を、どうにか繋ぎ止めてくれていた。


しかし、その微かな強がりも、この広大にして冷酷な屋敷を前にしては、あまりにも矮小で、あまりにも滑稽なものに思えてならなかった。


胸の奥には、やり場のない口惜しさと屈託が渦巻いている。


自分だって、血の滲むような思いで戦いの技術を模索してきたはずだ。過去の数年間を無為に浪費してしまったとはいえ、オフィウクスに乗り込み、神経同調率を極限まで引き上げさえすれば、戦場を引き裂き、敵陣を薙ぎ払うことだってできた。


自分も、そしてオフィウクスも、決して無力な籠の鳥などではないはずなのだ。それなのに、母はどうして高度一万メートルの宙空で、あそこまで尊厳を踏みにじるようなやり方で、自分のプライドを泥濘の底へと叩き落としたのか。


ギィィ……


重厚な彫刻が施されたオーク材の扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開かれた。薄暗い書斎には主照明が灯されておらず、ただ長机の片隅に置かれた一本のランプが心細げに揺らめき、豪奢を極めた室内の調度品に、枯骨のような陰惨な影を落としていた。


イレーナは、深い色合いのベルベットを張ったハイバックチェアに、優雅に身を沈めていた。その佇まいは、不気味なほどに凪ぎ、安らかだった。


彼女の手元には一冊の書物が静かに広げられている――それは星系の最高機密書でもなければ作戦報告書ですらなく、セリアが普段、居間のソファに適当に投げ出していた東野圭吾の推理小説だった。


幾千億もの因果の糸を見通し、星々を手の平で転がすほどの当主が、よりにもよってこのような下界の凡庸な娯楽に耽っている。その異様な光景に、セリアの心臓は激しく跳ね上がった。


「ママ……」


セリアは唇を微かに震わせ、掠れた声を絞り出した。


夜風に吹き消されそうなほどに儚く、けれど濃密な嗚咽とやるせなさを孕んだその声は――嵐に打たれ、傷だらけになった幼猫が、引き裂かれた爪を引きずって帰巣し、抗議の声を上げながらも母の懐へすがりついて抱擁を乞うているかのように響いた。


長机の向こうで、イレーナの白い指先が微かに止まり、静かに本が閉じられた。数百年の輪廻を経てもなお、一片の風霜すら刻まれていないその玲瓏たる美貌に、極めて淡い微笑がふわりと浮かぶ。


それは、母親としての心からの悦びだった。


この無垢で純白な長女が、いつの間にか自分を揺さぶる術を心得ていたことに、彼女は内心で快い嘆息を漏らさずにはいられなかった。


昔のセリアであれば、ただ頑なに顎を上げて冷戦を決め込むばかりだったというのに。いまや、こうして柔らかな弱音を武器に変え、母の胸元に飛び込むことを覚えたのだ。


だが、イレーナは誰よりも冷徹だった。


オフィウクスが規格外の怪異であることは事実だ。もし迎撃に出向いたのが屋敷の並み居る親衛隊や、全盛期のラグナであったなら、暴走したセリアの前に鉄屑の塵と化していただろう。


だからこそ、自分自身がリリスのコクピットへと降り立たねばならなかったのだ。


時間を統べる魔神リリスを駆る彼女自身ですら、星系全土を呑み込もうとしているこの知性機械の掃討の嵐の中で、無傷で生き残れる保証などどこにもないというのに――


銃の引き金に指をかけることすら躊躇うような、世間知らずで愛しい我が娘が、血肉を貪り合う二頭の巨獣の間に割って入り、可笑しな「平和の仲介者」などを無事に演じきれると、一体なぜ思い上がれるのか。


「それはね……セリア、貴女があまりにも、儚く無力だからですわ」


イレーナの口元には花びらのような微笑が湛えられていたが、紡がれる言葉には体温の欠片すら宿っていなかった。それは毒の塗られた薄刃のメスのように冷徹に、セリアが最も守りたかった柔らかな急所へと深々と突き刺さる。


慰めてやるわけにはいかなかった。ましてや温かな幻想など、いまの彼女に一片たりとも与えてはならない。


ここで情に絆されて手綱を緩めてしまえば、セリアを生かすために十六歳のあの夜へと時間を引き裂いて戻り、自ら彼女を産み落とすことから始まった、この気の遠くなるような因果のすべてが水泡に帰してしまう。輪廻の歯車は再び噛み合わなくなり、終わりなき死の連鎖を一からやり直す羽目になるのだ。


血を吐くような試行錯誤の果てに、ようやくセリアをここまで生かし続けてきた。宿命の死線とされる二十歳の誕生日が、もう目と鼻の先に迫っているというのに。


外の世界など、滅びたければ勝手に滅びればいい。


主戦派の機械どもが連邦の重鎮どもを皆殺しにしようが知ったことではないし、ジュリアンが救世主気取りで血を流したいのなら勝手に踊らせておけばいい――全人類の存亡など、イレーナには芥子粒ほどの価値もなかった。彼女が望むのはただ一つ、我が娘を守り抜き、その平穏な生を見届けることだけなのだから。


「戦闘技術や膂力が話にならないだけではありませんのよ……」


イレーナの視線がゆっくりと降下し、固く結ばれたセリアとカレナの手元へと注がれた。次元すらも見通すその底知れぬ双眸が細められ、最後の覆いが容赦なく剥ぎ取られる。


「己のすぐ隣に寄り添う、あの歪で重たい愛執からすら、怯えた雛鳥のように目を背けて逃げ回るばかり……。そんな可愛らしい貴女のどこに、二つの種族を血で繋ぐ架け橋になれるだけの覚悟がおありになって?」


その言葉は雷霆の如く、セリアの脳天を激しく打ち据えた。


イレーナは、目を背け続けていた血塗れの真実を、あまりにも残酷に暴き立てていた。


カレナのあの病的なまでの独占欲に真正面から向き合うこともできず、ルネの不器用な甘えや思慕にもどう応えていいか分からず、ただ与えられる無償の偏愛を貪りながら、いざという時には殻に閉じこもって身を引いてしまう。


ちっぽけな少女同士の愛憎からすら無様に逃げ出すような身で、五世紀にわたって積み上げられてきた、人類と過激派機械との絶滅戦争の憎悪に耐えられるとでも思っているのか?


そこは億兆の死者の白骨と、生きたまま解体された将兵の肉塊、そして生体を引き剥がされた者たちの絶望が堆く積み上がった、底知れぬ無間地獄なのだ。


セリアは全身の血が引いていくのを感じ、細い肩を激しく震わせながら、無様に俯いた。


言葉を返すことなど、何一つできなかった。


母の口にした残酷な指摘のすべてが、己の欺瞞と怯惰を赤裸々に突き刺していたからだ。


あまりにも浅薄で、あまりにも愚かしい夢想を抱いていたのだと思い知らされる。


自分には、ジュリアンが見せた覚悟の万分の一すら備わっていなかった。


彼女はつい最近知ったばかりだった。


ジュリアンが世界を欺くための壮絶な偽装死を成し遂げるために、どれほどの対価を払ったのかを――たとえそれが最高精度のバイオロイド義体であったとしても、大衆の面前で生きたまま押し潰され、斬首されたあの瞬間、肉が弾け骨が砕ける絶対的な激痛は、神経ネットワークを介して本体の脳へと百パーセント余すところなくフィードバックされていたのだ。


ジュリアンは、己の身がミンチにされるような想像を絶する拷問を正気で受け止め抜いて、ようやく人類と機械の対話の糸口を力ずくで切り拓いたのだ。


それに引き換え、自分はどうだ。


母のリリスにほんの数発殴りつけられただけで、カレナの腕の中に逃げ込んで悔し涙を流し、あまつさえ救世主にでもなれるつもりでいた。


古神の如きイレーナの眼差しに射抜かれ、セリアは自らの骨と肉を生きたまま剥ぎ取られ、醜悪で無防備な臆病さだけを、凍てつく空気の中に晒し者にされているような屈辱に苛まれていた。


「貴女を傷つけたいわけではありませんのよ、セリア……。ただ、わたくしには貴女を喪うという選択肢など、この世界のどこを探しても存在し得ないのだと……それだけは弁えていただきたいのです」


イレーナは微かに息を零し、ベルベットの椅子からしなやかに立ち上がった。


彼女は音もなく歩み寄ると、拒絶を許さぬ、しかし途方もない慈愛を込めた手つきで、カレナの強張った手からセリアの冷え切った指先を受け取った。


そして、幾千の輪廻の果てに絶望と後悔に身を焼かれながら、数百年の時をかけてようやく護り抜いてきた愛娘を、芳しいアロマの薫香が満ちる温かな胸の中へと、優しく、けれど抗えぬ強さで抱き締めた。


掌に伝わる確かな鼓動。これこそが、幾度もの時空の崩壊を越えて手繰り寄せた、彼女の唯一の救いだった。


「もし、あの悪知恵ばかり働くジュリアンのように、血塗られた架け橋たらんと本気で望まれるのでしたら……わたくしの課す試練、受けてご覧になりますこと?」


「試練……?」


母の腕の中に収まるセリアと、傍らに立つ強張った顔のカレナが、思わず声を揃えて驚愕の視線を向けた。


「ええ。主和派の知性機械たちを相手に、限りなく実戦に近い模擬戦を行っていただきますわ」


イレーナはセリアの艶やかな銀白の長髪を梳きながら、静謐でありながらも抗いがたい威厳を込めて告げた。


「あの鋼鉄の獣どもの包囲網を、どうか無様でも生き延びてみせなさいな。見事成し遂げられたなら、この屋敷を出て盤上に立つ資格をお認めいたしましょう。


けれど……もし無残に屈服なさいましたら、そのような危険な夢想はお捨てになって、わたくしの膝元で、ただの無邪気な学徒として愛らしく過ごしていただきますわ」


そこまで言い終えると、イレーナは二人に反論の隙も逡巡の時間も与えず、部屋の隅の暗がりで石像のように直立していた冷徹な護衛へと視線を流した。


「シヴ、ルネをここへ呼びなさいな」


この試練の過酷さは尋常ではない。セリアの背後を死守するためには、ルネの絶対的な防御が不可欠だった。カレナも同伴させるつもりではあるが、彼女の専用機は敵陣を粉々に切り裂くことのみに特化した凶暴な突撃仕様だ。


それに引き換え、強大な電磁障壁と重磁場による空間掌握を得意とするルネこそが、セリアの背中を預けるに足る至高の盾となり得る。


「ママ……主和派の知性機械と、直接連絡が取れるの……?」


母の肩に顔を埋めたまま、セリアは信じられないといった面持ちでその瞳を丸くした。


以前ジュリアンが語っていた断片的な情報では、主和派はノア家の広大な地下深くに潜伏しており、その中枢拠点を突き止めることすら至難の業で、首領たるクムの行方は風の如く掴めないと言っていたはずだ。


それなのに、目の前の母は、まるで隣町に通信を入れるかのように平然と連絡をつけ、最高難度の実戦すら一存で手配できるというのか。


「クムたちの一派が、その無限の命を繋ぎ止めるためには、人類の手による希少な物資と支援が絶えず必要だからですわ」


イレーナは低く艶やかに笑い、セリアの小さく愛らしい鼻先を指先で悪戯っぽく撫でた。その口調には、盤上を見下ろす絶対者特有の冷徹な嘲笑が滲んでいた。


「知性機械とて、真なる意味での『不死の神』などではないことくらい、貴女方も先刻ご承知でしょう?」


知性機械の肉体は確かに頑強で、炭素生命体など足元にも及ばぬ生存能力を誇る。コアさえ砕かれなければ、彼らは理論上、永遠を生き続けることができる。


だがその反面、常理を逸脱した超高度な量子コアは、稼働を続けるうちに不可逆の論理デッドロックと微細な摩耗を蓄積させていくのだ――その極限の精密メンテナンス技術は、かつての機械反乱の勃発以来、連邦と最高評議会が死守し続けてきた最大の急所であり、ソースコードの根幹は一度たりとも機械側に渡されたことはない。


「かつての古株たちも腐敗しきってはおりましたけれど、完全に脳まで錆びついていたわけではありませんでしたのね。コアの冷却と修復の技術が機械の手に渡った瞬間、人類の黄昏が確定することくらいは理解しておりましたもの」


イレーナはセリアの柔らかな髪の毛を一筋指に絡め、弄びながら淡々と続けた。


「だからこそ、主戦派の過激な機械どもは、最も残虐で、最も稚拙な道を選びましたわ。休むことのない生産ラインで同胞を大量に量産し、無尽蔵の消耗戦と寿命の長さだけを頼みに、人命を削り落とす泥沼の道よ。けれど、あの暗がりに押し込められたクムたち主和派は……わたくしたちが定期的に人を遣わし、その量子コアの深層を優しく解きほぐして差し上げることで、あの脆い均衡を辛うじて保ち続けておりますのよ」


星間全土を揺るがすほどの戦慄すべき裏の真実を耳にして、セリアは完全に言葉を失っていた。


母の豊満な胸元からそろりと顔を上げ、澄み渡る大きな瞳を瞬かせながら、彼女の表情は茫然自失から、やがて弄ばれていたことを悟った憤りと悔しさへと急速に染まり直していく。


「……じゃあ、ママは最初から全部知っていたの……?」


セリアは下唇をきゅっと噛み締め、思わず甲高い声を張り上げた。その声音からは、抑えきれない悔しさと恨み言が溢れ出していた。


「ママはずっと高みの見物を決め込んで、私が泥沼に足を取られるのをただ見ていたの……!? 私が、ジュリアンが本当に死んじゃったんだと思い込んで、何日も毛布にくるまって泣き腫らして、ご飯も喉を通らないくらい苦しんでいたのを……全部知っていながら、面白がって見ていたの!?」


涙目で詰め寄ってくる我が子のその愛らしい剣幕を前にして、幾千万の因果と時空を弄び、銀河中の大立者たちを震え上がらせてきたはずのイレーナが――あろうことか、一瞬だけ目に見えて狼狽し、その瞳を気まずそうに泳がせた。


その微細な動揺を、セリアが見逃すはずもなかった。


本気で怒りが頂点に達していた。


自分がこの数日間に味わった絶望も、恐怖も、引き裂かれるような悲哀も、すべてはこの母の掌の上の筋書き通りだったのだ。


この女はただの悪趣味で、可愛い我が子が痛い目を見るのを特等席で眺め、身の程を弁えさせようとしていただけなのだと!


煮え滾る怒りに我を忘れたセリアは、ぷくっと両頬をリスのように膨らませると、威嚇する仔猫のように飛びかかり、イレーナの胸元の薄絹を力任せに引き剥がした。


そして、剥き出しになった白皙の鎖骨めがけて、積年の恨みを晴らすかのように、躊躇なくその白い歯を力いっぱい突き立てたのだ!


「んっ……っ、痛……ぁ……っ!」


予期せぬ激痛と刺激に、イレーナは眉を顰めて苦悶の声を漏らし、微かに息を呑んだ。


だが、セリアがその幼き報復を満足するまで完遂するよりも早く、痛みに耐えかねたイレーナの口から、ふと遠い記憶が零れ落ちるように、艶めかしい吐息とともに呟きが漏れ出た。


「んっ……ぁ……まったく、この子は……どうして昔から、エルウィンと寸分違わぬ悪癖で……ここばかり召し上がりたがりますの……?」


言葉が落ちた瞬間。


部屋の空気が、まるで絶対零度へと叩き落とされたかのように、完全に凍りついた。


母の鎖骨に歯を立てていたセリアの動きが、ピキリと静止する。彼女はゆっくりと口元を離すと、みるみるうちに熟れきったトマトのように顔を真紅に染め上げ、気まずさと動揺のあまり、両手を宙に彷徨わせて視線のやり場を失ってしまった。


一方、自らの失言に気づいたイレーナもまた、透き通るような白い肌を恥じらいの赤に染め上げ、握り締めた拳を口元に当てて、小さく咳払いを一つ落とした。


そして、今口にした破廉恥な独り言など最初から存在しなかったかのように、そっぽを向いて冷徹な表情を取り繕ったのだ。


「と、とにかく……今宵はお部屋にお戻りになって、静かにお休みあそばせ」


イレーナは顔を背けたまま、銀河の猛者たちを恐怖させてきたはずのその絶対の美貌を、耳の付け根まで赤く染め上げていた。


彼女は抱き締めていた愛娘の身体をいくぶん慌てた様子で押し戻し、視線をあちこちへ彷徨わせながら、威厳を保とうとぎこちなく声を張った。


「明日はクムとの正式な対談をお膳立ていたしますわ。話がまとまり、お前自身にその覚悟があるなら、取り決め通りに模擬戦へと移行なさい……ですが、決して身の程を越えた無茶などなさらないこと。よろしくて?」


言い終えるや否や、数百年にわたり全てを支配してきたはずの当主は、まるで逃げ場を失った少女のように足早にハイバックチェアへと戻り、乱れた胸元の衣擦れを焦るように指先で整えながら、羞恥心からその場から消え去りたい衝動と必死に戦っていた。


だが――日頃から常に翻弄され、踏み躙られてきたセリアが、降って湧いたような決定打を前にして、この絶好の勝機を易々と手放すはずがなかった。


滅多に見られない母の狼狽えと羞恥に染まる姿を目の当たりにして、セリアの胸の奥で、欺かれ続けてきた恨めしさと底知れぬ悪戯心がメラメラと燃え上がった。


彼女は命じられた通りに退室するどころか、音もなく忍び寄る足取りで椅子へと歩み寄り、イレーナが腰を下ろして最も無防備になったその刹那――まるで甘えん坊の愛猫のように、イレーナの柔らかく芳しい膝の上へと、真正面からダイブするように飛び込んだのだ!


「セリア、貴女、何を――っ!?」


驚愕の悲鳴が母の唇から滑り落ちるよりも早く、セリアはしなやかにその身を沈め、熱く湿った唇を滑らかな白首へと這わせた。


そして、先ほど自らが刻みつけた歯型の痕を寸分の狂いもなく捉えると、小悪魔のような無慈悲さで、その微かに尖った鎖骨の突起を再びガブリと深く噛み締めたのだ。


「あ……っ、んんぅっ……!?」


イレーナの華奢な肢体が電流に貫かれたようにビクンと跳ね上がり、艶やかな首筋が無防備に仰け反った。


急激に強張った母の身体、激しく震える濡れた長い睫毛、そして抑え込もうとしながらも喉の奥から洩れ出してしまった甘やかな喘ぎ声――その全てが、セリアに確信を与えていた。ここは間違いなく、この完璧無欠で冷徹無比な女の、最も抗えぬ急所なのだと。


得体の知れない優越感と、母を凌辱するかのような歪な支配欲が、セリアの理性を焼き焦がした。彼女は噛み締めていた小さな歯をそっと緩めたが、その場から退くことはしなかった。


それどころか、底意地の悪い愉悦に瞳を細めながら、小さく湿り気を帯びた桜色の舌先をちろりと伸ばすと、自らが刻みつけた歯型の周りを、じっくりと、執拗に、焦らすように舐め回し始めたのだ。


熱く濡れた舌先が肌の上を滑るたび、少女の吐き出す火照った吐息が吹きかかり、微小な快楽の電流となってイレーナの神経系を容赦なく焼き尽くしていく。


イレーナの白い耳朶は、今や熟れた果実のように真紅に染まり、鎖骨から胸元にかけての肌が一面、淫らな桜色へと変色していった。


彼女の両手の指先は、ベルベットの肘掛けに彫られた装飾へと狂ったように食い込み、過度の力によって関節が青白く浮き上がっている。


豊満な胸は荒い呼吸のたびに激しく上下し、喉の奥からは耐え難い喘鳴が途切れ途切れに絞り出されていた。


この小娘がわざとやっていることなど、痛いほど分かっていた。上空一万メートルで叩きのめされたことへの、あからさまな肉体言語による復讐なのだと!


(わたくしはエスペルの全権を統べる者、幾千の因果を見下ろしてきた支配者ですのよ……? 自らの胎を痛めた愛娘の、このような稚拙な悪戯に屈するなど……決して、決してあってはなりませんのに……!)


イレーナは唇を血が滲むほどに噛み締め、超人的な精神力だけで頭頂部へと突き抜ける甘美な麻痺と痺れに耐え忍んでいた。腰が砕けそうになりながらも、決して弱音の一片すら漏らすまいと、必死に喉を塞いでいたのだ。


母と娘が薄暗い書斎の椅子の上で、息もつかせぬほどに絡み合い、室内の空気が蜜のように甘く濃密に煮詰まりきった、まさにその臨界点――


コト……


重厚なオークの扉が、微かな音を立てて無情にも押し開かれた。


隙間から覗くルネの小さな顔は、当初、出撃前の緊張と張り詰めた警戒心に覆われていた。しかし、室内の光景を網膜が捉えたその刹那、彼女の表情は音を立てて粉々に砕け散った。


普段は冷酷無比で、他者の命など虫けらほどにしか思っていないはずの絶対者の母が、胸元を乱暴にはだけさせ、椅子の上で顔を真っ赤に染め上げて必死に肘掛けを握り締めている。


そして、純白無垢で先ほどまで病室でめそめそしていたはずの愛する姉が、まるで木にしがみつくコアラのように母親の身体に跨がり、その鎖骨に顔を埋めて一心不乱に噛みつき、舌を這わせて舐めしゃぶっているのだ。あまりにも荒唐無稽で、あまりにも淫靡な地獄絵図だった。


ルネの口元が引き攣るように痙攣し、額に青筋を浮かべながら、感情の死に絶えた平坦極まりない声で、隣に控える無表情な護衛へと首を巡らせた。


「……シヴ。貴女、私を格納庫から血相変えて引っ張ってきて……これを見せたかったわけ?」


傍らに直立する死士のシヴは、普段であれば万年氷壁の如きポーカーフェイスを崩さない女だったが、いまやその鉄面皮には、見るも無残な亀裂が幾筋も走っていた。


彼女のこめかみは狂ったようにドクドクと脈打っていた。


天地神明に誓って、彼女はただ、当主の命に従って次女を呼び寄せ、一族の命運を左右する重大な試練の軍議を開くはずだったのだ。


このわずか二分ほどの間に、この密室の中でどのような倫理の崩壊とモラルの大暴落が起きたというのか、彼女に知る由などあるはずもなかった。


ルネから向けられる、ゴミを見るかのような軽蔑と憐憫に満ちた冷徹な眼差しに晒されながら、百戦錬磨の暗殺者であるシヴは、引き攣った唇を小さく開閉させることしかできなかった。


全身を乾いた石のように硬直させ、「主母の誰にも言えない秘密の戯れを発見し、わざわざ妹君を連れてきて特等席で観戦させたド変態」という濡れ衣を晴らすためなら、今すぐ自らの銃口を喉元に突き立てて引き金を引いてしまいたいほどの、途方もない屈辱と絶望に苛まれていたのだった。

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