あるいは、衝動という名の魔物
温室の最深部にひっそりと佇む、マジックミラー仕様の特殊微晶ガラスによって外界から完全に隔絶された独立シャワールーム。
その密閉された空間には、白く濃密な熱い湯気が立ち籠め、息苦しいほどの湿度で満たされていた。
天井に据え付けられた豪奢な金メッキのシャワーヘッドから、絶え間なく降り注ぐ温かく均一な水流。
それが、セリアの雪のように白く、吸い付くように滑らかな柔肌を伝い、無数の雫となって滴り落ちていく。
全身を包み込む柔らかな熱気は、今日一日の間に極限まで張り詰めていた神経の軋みを、束の間だけ蕩かすように解きほぐしてくれていた。
本来であれば、芳醇なアロマオイルの香りが漂う巨大なジェットバスにその華奢な身を沈め、手足を伸ばして心の底から寛ぎたいところだった。
しかし惜しむらくは、少女が思春期の門をくぐって以来、月に一度、どうしても避けようのない不自由で憂鬱な数日間が、まさに今訪れてしまっていることだった。
セリアは濡れた長い睫毛を伏せ、足元へと流れていく水流をじっと見つめた。
排水口の吸い込み口へ向かって渦を巻きながら消えていく透明な湯。そこに混ざり合い、極めて淡い桜色へと薄まりながら散っていく微かな血液の筋。
それを見つめるうちに、セリアの意識はどこか遠く、底知れぬ茫然自失の闇へと引きずり込まれそうになっていた。
この肉体は、とうの昔に無邪気な子供の時代を終え、大人の女性としての階段を登ってしまっていたのだ。
ただ、かつて市街地の片隅にあったあの古びたアパートで暮らしていた頃の彼女は、あまりにも過保護に、温室の雛のように大切に守られすぎていた。
そのため、この過酷な時代基準において、自分はとうに機動兵装の冷たいコックピットへとその身を投じ、突如として牙を剥いた機械反乱の猛威から無力な民衆を守るべき戦士の年齢に達しているのだという冷厳な事実を、つい忘れてしまいそうになるのだ。
セリアは水滴に濡れて微かに震える指先を持ち上げ、自らの唇へと触れた。
赤く熟れた果実のように腫れ上がったその感触をなぞるたび、疼くような痛みと迷いが胸を締め付ける。
彼女の脳裏を満たす思考回路は、すでに処理限界を超え、今にも焼き切れてショートしそうなほどに混乱を極めていた。
ほんの一時間前、彼女はカレナから受けたあの激しい、まるで奪われたものを取り戻そうとするかのような報復めいた深吻によって唇を真っ赤に腫らしたまま、魂の抜け殻のような足取りでエスペル家の広大な屋敷へと連れ戻されたばかりだった。
その異様な姿を真っ先に出迎えたラグナーは目を丸くして仰天し、慌てて氷水のグラスを運んでくると、「お嬢様、まさか水族館で刺激の強すぎる激辛の異国料理でも召し上がって唇を痛められたのですか?!」と、この世の終わりのような大真面目な顔で心配してきたのだ。
そのあまりにも朴訥で、どこまでも的外れな直情的な気遣いは、セリアを居たたまれなくさせると同時に、胸の奥に底知れぬ奇妙さと滑稽さを抱かせずにはいられなかった――
なぜラグナーも、そして日々母から情けない折檻を受け続けている実父エルヴィンも、腫れ上がった彼女の唇を見て真っ先に「辛いものを食べた」と思い込み、「お嬢様が外で他の女に組み敷かれ、濃厚に唇を奪われてきた」などという発想に、天地が引っくり返っても至らないのだろうか?
あの時の彼女の望みは、ただ一つだけだった。
一刻も早くこの温室へ逃げ帰り、身にまとわりつく汗と他人の気配、そして泥のような疲労と混乱のすべてを熱湯で洗い流したかった。
そして、あの広大で柔らかいベッドの羽毛布団に丸ごと包まり、深い眠りの中へと逃避したかったのだ。そうして、ここ数日の間に目まぐるしく起きた天変地異のような激変から、心を閉ざしてしまいたかった。
だが、残酷な運命は、彼女にほんの一片の休息すら許そうとはしなかった。
セリアが温室の豪奢なアーチ扉を押し開けた瞬間、その視界に飛び込んできた最初の光景――それは、あの広大な天鵝絨のベッドの中央に、優美極まりない所作で静かに腰掛けていた実母、イレーナの姿だったのだ。
日頃は一族の頂点に君臨し、氷の冷徹さで生殺与奪の権を握る絶対的な当主。
その女は、帰還した長女の姿を捉えるや否や、セリアには到底その真意を読み解くことのできない、獲物を品定めするような妖艶で危険な玩弄の笑みをその唇に浮かべた。
そして、細く白い指先でベッドの傍らを叩き、無言でそこへ座るよう促したのだ。
その時のセリアは、まだ知る由もなかった。
この実の母親が胸の内に抱く「愛」という名の感情が、どれほど常軌を逸し、狂気と病的な執着の深淵にまで煮詰められてしまっていたのかを。
セリアが心臓を早鐘のように打ち鳴らし、不安と緊張で息を詰まらせながらベッドの端に腰を下ろした、まさにその刹那だった。
イレーナの、すべてを見透かし魂の芯まで射抜くような底知れぬ双眸が、セリアの赤く腫れた唇へと冷たく据えられた。
そして、耳にした者の血液を一瞬にして凍りつかせるような、甘くねっとりとした低語が吐息と共に紡ぎ出されたのだ。
「実に……美味しそうで、魅力的な唇ね……。どうやらルネだけでなく、あのイエラン家の誇り高い小娘ですら、あなたのその愛らしさの前には抗う術もなかったようね」
セリアの瞳孔が恐怖のあまり針のように激しく収縮し、全身の毛穴が逆立つような戦慄が駆け巡った!
彼女が硬直し、悲鳴を上げることすらできない刹那、濃密な独占欲と、脳を痺れさせるような危険な香油の匂いを纏ったイレーナの影が、逃げ場を塞ぐように覆い被さってきた。
耳朶に直接触れんばかりの距離から、湿り気を帯びた熱く息の詰まる囁きが、鼓膜を直接犯すように響き渡る。
「それなら……ママにも味見をさせてくれないかしら?」
イレーナの母性は、二十年間という途方もない歳月にわたる悔恨、孤独、そして冷酷な権力闘争の暗黒の中で、完全に歪曲し発酵しきった、狂気じみた純然たる独占欲へと成り果てていたのだ。
それは倫理的にも、人倫の道としても、そして生物としての本能においても、セリアが決して受け入れることのできない、背筋が芯から凍りつくような絶対の禁忌そのものであった。
あの時のセリアは、全身の全神経を総動員して激しい拒絶と抵抗を爆発させ、泣き叫び、もがき狂いながら、ようやくの思いでイレーナの息苦しく締め付けられるような抱擁から逃れ出たのだ。
ルネの異常な執着であれば、まだ幼少期に母の温もりを知らずに育った妹が、姉の中に母親の面影を見出して救済を求めているのだと、無理やりにでも納得する余地があった。
しかしイレーナは違う。イレーナは……他ならぬ自分をこの世に産み落とした、血の繋がった実の母親ではないか!
倫理の境界線を無慈悲に踏み越えて迫り来るその歪んだ情念の恐怖は、セリアが生まれて初めて骨の髄まで味わった、真の絶望と戦慄であった。
今、この瞬間も、セリアは容赦なく降り注ぐ熱湯の下に身を晒しながら、白く細やかな両手で自らの唇を、首筋を、そして全身の柔肌を、皮が剥け血が滲むのではないかと思えるほどの強さで、自虐的に何度も何度も擦り洗い続けていた。
そこに残された、決して存在してはならない禁忌の熱と、母親の纏うあの甘美で悍ましい匂いを、一滴残らず擦り落とし、消し去るために。
微かに波打つ豊かな銀白の髪を伝い落ちる無数の水滴は、瞳から音もなく決壊して溢れ出た熱い涙と混ざり合い、美しい顎の切っ先で大粒の雫となって、濡れそぼったタイルへと激しく打ちつけられていく。
彼女は、こんな境遇が心底から大嫌いだった。
周囲を取り囲むすべての人間が、自分を一人の人間としてではなく、奪い合い、貪り食うべき極上の獲物として見つめ、息の詰まる檻へと閉じ込めようとするこの世界が、堪らなく憎らしかった。
もしも……産みの親である母親の抱擁すらもが、純粋な愛などではなく、ただの侵略と独占欲の道具に過ぎないのだとしたら。
この広大で冷酷な星海のどこに、人間が信じるべき本物の「愛」が存在するというのだろうか?
「お嬢様、少々お時間が長引きすぎているようでございますが……湯加減はいかがですか? 中へ入り、お背中をお流しいたしましょうか?」
マジックミラーの微晶ガラスの向こう側から、専属の侍女シヴの、深い憂慮と気遣いを孕んだ静かな声が届いた。
お嬢様の身の回りの世話と、影の如き身辺警護を一手に命じられた腹心であるシヴ。表向きこそ完璧な所作と優雅さを備えた一介のメイドに過ぎないが、その真の顔は、エスペル家が誇る最高峰の伝説機体を意のままに操る、星域屈指のエースパイロットであった。
かつてセリアがオフィウクスに初めて搭乗し、圧倒的な力と純粋な暴力によって、ラグナーの駆る重装機ハングドマンを素手で容赦なく鉄屑へと解体してみせたあの衝撃の瞬間――シヴの長年氷のように凍りついていた心は、抗う術もなく完全に奪い去られていたのだ。
セリアの専属侍女という唯一無二の座を勝ち取るため、彼女は誇り高きエースのプライドをかなぐり捨て、イレーナの御前で膝を突き、額を床に擦り付けるようにして幾度も懇願を重ね、ようやくその役目を手に入れたという経緯があった。
シヴは、誰よりも強大で、誰よりも高貴で美しく、それでいてガラス細工のように触れれば壊れてしまいそうな儚い破碎感を漂わせるこのエスペル家の長女を、狂信的なまでに崇拝し、愛おしく慈しんでいた。
少なくとも、あの我が儘放題で短気、気に入らなければ即座に暴力に訴える次女のルネに比べれば、些細なことで白皙の頬を染めて恥じらい、怯えながらも透き通るような純粋さを失わないセリアの愛らしさは、自らの命を賭してでも生涯守り抜きたいと思わせるに十分すぎる輝きを放っていた。
しかし……それほどまでに影の如く付き従う役目であるがゆえに、ほんの少し前、シヴは温室の扉のすぐ外から、イレーナが実の娘を組み敷き、力づくで手を出そうとしたあの一連の悍ましい光景を、息を殺して目撃してしまっていたのだ。
数々の凄惨な死線と血生臭い戦場を潜り抜けてきた歴戦のパイロットであるシヴでさえ、その光景を前にした瞬間は、自らの倫理観を根底から粉々に粉砕され、全身の毛穴から冷汗が噴き出すほどの戦慄を禁じ得なかった。
その後、セリアの必死の抵抗と涙の絶叫によって、イレーナは辛うじてその手を引いたものの、シヴは仕える主の恐るべき本性を知り尽くしていた――あの狂気を孕んだ女当主が、自らの鳥籠へとようやく引きずり込んだこの美しき純白の雛鳥を、本気で手放すはずなど絶対にないのだと。
シヴは痛いほどに理解していた。まともな常識の通用する社会で育ってきたセリアにとって、この血の禁忌を踏みにじる歪みきった母性が、どれほど破滅的で救いのない精神的暴虐であるかを。
先ほどセリアが漏らした崩れ落ちるような嗚咽と、イレーナが放っていたあの有無を言わせぬ絶対的な強圧の威圧感……あれは断じて、長年離れ離れになっていた母と娘の感動的な再会などではない。
権力と暴力に物を言わせ、純潔無垢な少女を己の歪んだ情欲の生贄として屈服させようとする、凶悪な同性の捕食者そのものの姿であった!
だが……シヴがイレーナの残酷さに怒りを燃やそうとするたび、その脳裏には、過去二十年間という地獄のような歳月の中で、あの女当主が深淵の底でもがき苦しみ続けてきたもう一つの哀しい横顔が、呪いのように浮かんできてしまうのだ。
シヴは、イレーナの傍らに最も長く仕え、その暗部を共有してきた唯一の側近であった。
彼女は、イレーナとエルヴィンがかつて身分を越えて燃え上がらせたあの密かな恋路のすべてを見届け、セリアの産声を聞き、そして一族の重責と大局のために自らの愛を引き裂かれ、エスペル邸へと強制連行されたイレーナの、絶望と狂気に染まった幾千もの孤独な夜を見届けてきたのだ。
過去二十年の長きにわたり、イレーナは幾度となく深夜の密室で、セリアの赤子時代の立体ホログラム写真を胸に抱き、魂の抜けたような虚ろな瞳で夜通し涙を流し続けていた。
年月の経過と共に、その募りすぎた思念と自責の念は深刻な神経症へと悪化の一途をたどり、晩年には日中の冷徹な当主としての威厳と理性を保つために、致死量に近い大用量の精神抑制薬を常用しなければ精神を維持できない状態にまで追い詰められていた。
幼いセリアが、街頭で、あるいは学校の正門前で、偶然見かけたイレーナに向かって泣き叫びながら駆け寄り、母の温もりを求めて縋り付こうとしたことは一度や二度ではなかった。
そしてイレーナは、その都度、この世で最も冷酷で残酷な言葉を愛娘に浴びせて突き放し、屋敷の無人の密室へと駆け戻っては、細く鋭利な鋼の針を己の長くしなやかな十本の指先へと、肉が裂けるのも構わず深々と突き刺し続けていたのだ――
指先を貫き骨を軋ませるあの狂おしい激痛を以てしなければ、娘の前で泣き崩れすべてを投げ出したいという衝動を抑え込むことも、一族の中に蠢く豺狼虎豹の如き親族どもに対峙するための冷血な正気を保つことも、決して叶わなかったからである。
二十年に及ぶ血を吐くような忍耐の中で、エルヴィンとイレーナが裏で手段を選ばず、あらゆる資源を注ぎ込んでオフィウクスを秘密裏に修復し続けた目的は、最初からただ一つしかなかった。
セリアが秘める類稀なるパイロット適性と、機体が持つ絶対的な戦術価値を、エスペル一族のすべての者たちの前に見せつけること。
なぜなら、セリアがただの無力で美しいだけの花瓶に過ぎなければ、連れ戻された後の運命など、有力貴族への政略結婚の道具として弄ばれ消費される他ないからだ。
しかし、彼女が伝説の魔神オフィウクスを起動できる唯一無二の適格パイロットでありさえすれば、エスペル家が死んでも手放すことのできない絶対の切り札となる。
そうして初めて、セリアはいかなる政略の相手にも傅く必要がなくなり、一族の中で誰の指図も受けない、真の主権をその手に握ることができるのだ。
ただ……現在のセリアはあまりにも幼く青臭く、その背後に張り巡らされた大人たちの血の滲むような苦心を知る由もない。
そしてイレーナの精神状態は、シヴの目から見れば、すでに伝説の物語に語られる最も恐ろしく、最も重厚な「重力系病態母親」へと完全に変貌を遂げてしまっていた。
表向きのイレーナは今なお氷のように冷艶で高貴であり、長女に対しても近寄りがたい威厳を完璧に繕っている。しかしシヴは知っていた。
主の手首に常に巻かれているバイオモニターの画面には、温室の中で過ごすセリアの一挙手一投足を捉えた最高解像度の監視映像が、四六時中ポップアップ表示され続けていることを。
セリアがこの温室で眠りに就いたこの数日間の深夜、イレーナは薄いシルクのナイトガウン一枚を纏い、温室の外を巡る冷え切った回廊に何時間も何時間も立ち尽くしては、装飾ガラス越しにベッドで眠る長女の寝顔を狂おしい瞳で見つめ続け、夜明けの光が差し込んでようやく、断腸の思いで未練を残しながら立ち去っていたのだ。
次女のルネが狂乱するほどに母の愛に飢えていたように、イレーナとてセリアに対し、この二十年間で積み上げに積み上げたすべての罪悪感と、狂おしいまでの愛の負債を、その全身で一気に清算したいと渇望していたのではないか。
ただ……長年にわたり激痛と精神薬物によって無理やりに正気を繋ぎ止めてきたイレーナの精神は、闇の底で完全に歪みきり、崩壊してしまっていた。
人間としての倫理や常識という最低限の境界線すらも、ブラックホールの如く重すぎる愛の重力によって、跡形もなく木端微塵に磨り潰されていたのであった。
「すぐに出ます!」
外から響いたシヴの呼びかけに、セリアはハッと我に返り、意識を暗い思考の泥沼から引き戻した。
今の彼女にとって、この広大な屋敷の中で辛うじて息を抜くことができる相手は、あの顔を腫らした豚頭のジュリアンくらいのものだった。
外で恭順の姿勢を崩さないシヴにしても、セリアには痛いほど分かっていた――彼女はイレーナが自らの傍らに配置した、最も忠実で最も油断のならない最高位の目付役であり、冷徹な監視者に過ぎないのだと。
幼い頃の記憶の糸を手繰り寄せれば、あの冷酷無比なメイドは、いつだってイレーナの背後に影の如く寄り添っていた。
母の胸へと飛び込もうと泣き叫び縋り付く自分を前に、シヴはいつだって越えることのできない高山のような壁となって冷たく立ちはだかり、襟首を乱暴に掴まれて無表情のまま屋敷の門外へと放り出されたことすら、一度や二度ではなかったのだ。
そうした幼少期のトラウマが蘇るたび、この専属侍女に対する拭いようのない嫌悪感と警戒心が、ふつふつと胸の奥から湧き上がってくる。
それに比べれば、先ほどのイレーナが見せたあの気味の悪い口づけの恐怖すら、記憶の対比によって幾分かマシに思えてしまうほどだった。
苦痛とは、実に相対的なものである。
シャワーのコックを固く締め、素早くバスタオルで全身を拭き上げると、清潔な生理用品を身につけ、ゆったりとした薄紫色のシルクパジャマを纏ってシャワールームの扉を開けた。
彼女は、何かを言いたげに部屋の隅で控えていたシヴの視線を完全に無視し、一瞥もくれることなくベルベットの巨大な天鵝絨ベッドへと真っ直ぐ倒れ込むと、ふかふかの羽毛布団を頭から被り、その奥深くへと自らの身体を小さく埋め込んだ。
セリアは温室のガラスドームから零れ落ちてくる人工の星明かりを、虚脱感に満ちた瞳で見つめ、自嘲と不条理な現実に打ちひしがれていた――あの忌まわしきオフィウクスのシートに腰を下ろして以来、自らの「同性運」は悪魔の呪縛でも受けたかのように狂い咲き、完全な崩壊の坂道を猛スピードで転がり落ちている。
彼女はふと考えてしまう。もしもあの図太く狡猾なジュリアンであったなら、世界中の女たちから一斉に狙われ、骨の髄まで丸呑みにされそうになるこの絶体絶命の包囲網を、一体どうやって打破し、切り抜けるのだろうか、と。
今の彼女は、自らの周囲に侍るいかなる女性のことも、信じることができなくなっていた。
かといって男性陣に目を向けてみても……ラグナーはイレーナに絶対の忠誠を誓う狂信的な死士であり、飼い慣らされた番犬だ。彼が寝返る可能性など万に一つもない。
そして実父であるエルヴィンは……自分をあの魔神オフィウクスへと押し上げた張本人であることは火を見るより明白だが、なぜかあの頼りない父親もまた、この目まぐるしい事態の激流の中で身動きの取れぬ無様な醜態を晒しているように思えてならなかった。
当初のエルヴィンは、あらゆる手を尽くして自分を平民街の片隅に隠し、エスペル家の監視の目から必死に遠ざけようとしていたはずだ。
一体どの段階で歯車が狂い、これほどまでに抜き差しならぬ底なしの泥沼へと転がり落ちてしまったのだろうか?
渦巻く思考の奔流の中、あまりに荒唐無稽でありながら、恐ろしいほどにすべての辻褄が合致してしまう一つの仮説が、不意に脳裏を貫いた。
セリアはベッドから勢いよく跳ね起きると通信端末をひったくり、「馬鹿親父」という不名誉な登録名がつけられたプライベートトーク画面を開いて、胸中に渦巻く疑念の弾丸を迷うことなく叩きつけた。
『お父さん、最初から私をエスペル家に返すつもりなんてなかったんでしょう? 私があのラグナーの取り巻きの挑発にカッとなって、短気にも決闘を受けて計画を滅茶苦茶にしたことと、お父さんのあの隠しきれなかったスキャンダルのせいで、計画を全部白紙に戻して私を差し出す羽目になったんじゃないの?!』
メッセージを送信した後、画面の向こうは永遠とも思える長い沈黙に包まれた。
五分ほど経って、ようやく向こうから送られてきたのは、呑気で愛らしいカートゥーンの動くスタンプだった――毛むくじゃらの白猫が、無垢な顔で両手に大きな赤い「〇(正解)」のマークを抱きしめているイラストである。
その残酷な「大当たり」を示す記号を前にして、セリアはもはや泣くべきなのか、それとも怒り狂って笑うべきかすら分からなくなっていた。
やはり……自分がかつてラグナーの取り巻きからの挑発にカッとなり、熱血のままにあの無謀な決闘など受けたせいで、親世代の大人たち全員を、二度と引き返すことのできない火の海へと道連れにして引きずり込んでしまったのだ!
『じゃあ……お父さんは、本当はお母さんと裏で密通して、最初から私たちを裏切っていたわけじゃなかったの?』
セリアは、最後の望みを縋るようにして問い質した。
しかし、エルヴィンから返ってきた返信は、あまりにも無慈悲な現実を突きつけるものだった。滝のような冷や汗を流しながら、地面に額を擦り付けて土下座をするスタンプが、一言の弁解もなく送られてきたのだ。
セリアは激しい頭痛を覚え、片手で額を強く押さえた。
やれやれ、あの父親が路地裏で食らったあの滅多打ちは、何一つとして冤罪などではなかったのだ!
本来の計画であれば、セリアが秘密裏にオフィウクスを起動させた後、裏ルートを通じてイエラン家と速やかに接触し、中立のエースとしての立場を盾にして確固たる庇護と完全なる自由を勝ち取る手はずであった。
それなのに、下半身の情欲を抑えきれなかった父親が復縁の密会現場をエスペルの特務に完璧に押さえられたせいで、築き上げた計画のすべてが派手に灰燼に帰したのだ!
若気の至りで挑発に乗って決闘を受け、イレーナに強奪の口実を与えてしまったセリア。そして情欲を御しきれず、イレーナに決定的な弱みを握られてしまったエルヴィン。
詰まるところ、この破天荒な父娘は過失の責任において完璧な痛み分けであり、どちらも相手を責める資格など最初からありはしなかったのだ。
一方その頃、暗号通信網の遥か彼方にある安全屋では、エルヴィンが頭を抱えてガタガタと生まれたての小鹿のように震え上がり、セリア以上の絶望的な恐慌に陥っていた。
エルヴィンには、死んでも娘に打ち明けることのできない、恐ろしすぎる秘密があったのだ――
かつて密会において、自分たち父娘を無情に捨て去ったイレーナと対峙した際、彼の胸中には復讐と鬱憤を晴らす暗い快感が激しく渦巻いていた。
あの冷酷で高慢な女を徹底的に屈服させ懲らしめるため、ベッドの上の情交において、彼は持ちうる限りの最も荒々しく乱暴で、狂おしいまでの支配欲に任せて彼女を徹底的に貪り尽くしたのだ。
当初、エルヴィンはあの高嶺の花であった女当主を自らの腕の中で組み敷き、男としての尊厳を取り戻したと内心で快哉を叫んでいた。
だが彼が夢にも思わなかったのは、長年の精神抑制薬と自傷行為で感情を無理やり押し殺してきたイレーナの精神が、すでに極限まで脆く歪みきっていたことだった。
その嵐の如き野蛮な情交の中で、壊れかけたイレーナはその暴力的な支配と略奪を、エルヴィンからの「最も深き、魂を焦がす愛の表現」であると致命的なまでに誤解してしまったのである!
因果応報は、光速よりも早く降りかかってきた。
今や「強奪と支配」こそが唯一無二の愛の証明だと信じ切っているあの重力系の狂気母が、かつて自分が彼女に振るったあの手酷いやり口を、そのままセリアに注ぎ込もうとしているのだとしたら……
愛娘の清らかな初めての体験が、他ならぬ実の母親によって強引に奪い去られる地獄絵図を想像しただけで、エルヴィンは全身から滝のような冷汗を吹き出し、過去の浅はかだった自分を八つ裂きにして殴り倒したい衝動に駆られていた。
だが、そんな狂気の因果関係など、イレーナに千刀万剐にされようとも、セリアに一文字たりとも明かせるはずがなかった。
端末のバックライトが静かに消え、暗転していく。
親父が残した「特大の置き土産」によって、自らが破滅の深淵の縁に立たされていたことなど露知らず、セリアはただ深い後悔と自己嫌悪と共に、顔をベルベットの枕へと深く深く埋め込んだ。
衝動は悪魔。
もしもあの日、ラグナーの取り巻きからの挑発を前にほんの少しだけでも冷静でいられたなら。
もしも功名心や意地に駆られて、あの黒曜石の魔神のコックピットへ足を踏み入れたりしなかったなら……今の彼女は、百花繚乱に見えて飢えた捕食者たちが蠢くこの豪奢な鳥籠の中で、夜な夜な怯える日々を送らずに済んでいたのだろうか。




