第1話 お断りします
「王妃の座を、お降りなさい」
その言葉は、朝の光と同じ温度で置かれた。
謁見の間。
人払いは、されていない。
侍従も、書記も、衛兵も、壁際に控えたままだ。
――聞かせるためだ。
レティシアは、手の中の書類を静かに閉じた。
王太后アデライド・ヴァンデル。
先王ヴィルヘルムの妃であり、夫の母。
アレクシスの即位から数えて、初めて王城へ足を運んだ人だった。
「お義母さま」
レティシアは、その呼び方を選んだ。
王太后さま、ではなく。
アデライドの目が、わずかに細くなる。
だが、それだけだった。
「あなたに、王妃は務まりません」
責める声ではなかった。
怒ってもいない。
ただ、帳簿の数字を読み上げるような声だった。
「王妃に、能力は要りません」
「必要なのは、血と、静けさです」
*
レティシアは、その言葉の形をよく知っていた。
――役に立つかどうかで、人を測る物差し。
かつて、彼女自身がその物差しで測られていた。
王城の誰も彼女の名を出さず、それでも彼女がいなければ国は回らなかった。
あの三年間、自分の価値を「役に立つこと」以外の言葉で説明する方法を、彼女は知らなかった。
その物差しを手放すのに、ずいぶん長くかかった。
手放してよいのだと、誰かに言ってもらう必要があった。
だから、分かる。
アデライドが振り回しているのは、同じ物差しだ。
ただ、裏返しになっているだけで。
――なぜ、この人は。
「ひとつ、伺っても」
レティシアは口を開いた。
「なぜ、私では務まらないのでしょう」
アデライドは答えなかった。
代わりに、こう言った。
「あなたが来てから」
初めて、声に温度が乗った。
「私の長男は、王位を失いました」
*
言葉が、部屋の空気を止めた。
書記の手が止まる。
衛兵が、視線を落とす。
エドワード。
第一王子。かつてレティシアの婚約者だった男。
誰もが次期国王と認めていた人。
だが王位を継いだのは、弟のアレクシスだった。
なぜそうなったのか。
――レティシアは、知らない。
誰も、彼女に説明しなかった。
彼女も、尋ねなかった。
尋ねてよいことだと、思っていなかったからだ。
「お義母さまは」
レティシアは、静かに言った。
「それが、私のせいだと」
アデライドは、否定しなかった。
沈黙が、答えだった。
――違います、と言うことはできた。
私は何もしていません。
私は望みませんでした。
あの方が王位を退かれた経緯を、私は知りもしません。
どれも本当だ。
けれど、この人が欲しいのはそんな言葉ではない、と分かった。
この人は、理由が欲しいのだ。
息子が王にならなかったことの、理由が。
誰かのせいでなければ、耐えられないほどに。
「王妃の座を、お降りなさい」
同じ言葉が、二度目に置かれた。
今度は、意味が違って聞こえた。
*
レティシアは、書類を胸に抱えた。
――ここで、引くことはできる。
それは、簡単だった。
彼女は、それが得意だった。
婚約を破棄されたときも、異議はありませんと答えた。
王城を去るときも、何も言わなかった。
静かに身を引くことは、彼女が生涯でいちばん多く選んできた答えだ。
引けば、丸く収まる。
誰も傷つかない。
アデライドは満足し、アレクシスは母と争わずに済む。
国は、何事もなく回る。
いつもどおりだった。
物心ついてから、彼女はずっとそうしてきた。
そうやって、何もかもを丸く収めてきた。
胸の奥が、静かに軋んだ。
――でも。
「お義母さま」
レティシアは、顔を上げた。
「……お断りします」
自分の声が思ったよりも静かだったことに、彼女自身が驚いた。
謁見の間が、しんと鳴った。
書記が、顔を上げる。
衛兵が、こちらを見る。
誰も、この人にそう答えたことがないのだ、と分かった。
*
アデライドが、初めてまっすぐに彼女を見た。
「……理由を、お聞きしても」
レティシアは、答えなかった。
言えなかったのではない。
言葉が、まだ形になっていなかった。
ただ、引いてはいけないと分かった。
それだけが、確かだった。
アデライドは、しばらく彼女を見ていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「……面白いこと」
温度は、もう戻っていた。
「では、証明してごらんなさい」
衣擦れの音が、遠ざかっていく。
「王妃の仕事とは、何か」
扉の前で、アデライドは振り返らずに言った。
「あなたがそれを一つでも果たせたなら――その時は、私が引きましょう」
扉が、閉じた。
*
レティシアは、しばらく動かなかった。
手の中の書類には、今日の予定が並んでいる。
午前、外交文書の確認。
午後、社交の名簿の整理。
どちらも、誰かに頼まれた仕事ではない。
誰も見ていない仕事だ。
――王妃の仕事とは、何か。
彼女は、その問いの答えを持っていなかった。
持っていないまま、断ってしまった。
書類の束の、いちばん下。
まだ出していない招待状が、十二通あった。
王妃として初めて開く茶会の案内だ。宛名はすべて、レティシアが自分で書いた。誰に出すべきかを決めるのに、三日かかった。
――ちょうどいい。
王妃の仕事が何かは、まだ分からない。
けれど、始められるものが手の中にある。
レティシアは、封をした。
その十二通が一通も返ってこないことを、彼女はまだ知らない。
胸の奥が、じん、と熱い。
怖さではなかった。
生まれて初めて、彼女は「引かない」と言ったのだった。
第1話をお読みくださって、ありがとうございます。
剣も魔法も出てこない物語です。武器は帳簿と、人の動きを読む目だけ。「役に立つかどうかで人を測る物差し」――それを一度は自分に当てられた人が、今度は手放す側へ回るまでを書いていきます。
次は、レティシアが自分で宛名を書いた十二通の招待状の話を。一通も返ってこない、というところから始まります。




