忘れられた声
夜の王都セレスティアは、昼間とはまるで違う顔を見せていた。
王都を包んでいた賑わいはすでに遠く消え、白亜の街並みには星晶灯の淡い光だけが静かに降り注いでいる。
石畳を撫でる夜風。
遠くで鳴り響く時計塔の鐘。
世界樹アストレアの巨大な枝葉が揺れ、その葉擦れの音だけが静寂を優しく彩っていた。
誰もが眠りにつく時間。
世界は今日も平和だった。
少なくとも、人々はそう信じている。
だが、その平和の中で、一人だけ眠れない少女がいた。
ルナリア・セレス。
王立歴史研究院に所属する若き研究者。
世界再生以前の歴史を調査する日々を送りながら、胸の奥では理由の分からない喪失感に苦しみ続けていた。
ベッドへ横になっても眠気は訪れない。
何度寝返りを打っても、胸の奥へ刺さった小さな棘だけが存在を強く主張してくる。
「……また。」
小さく息を吐き、ルナリアは上体を起こした。
窓辺まで歩き、ゆっくりと夜空を見上げる。
満月だった。
透き通るような銀色の月が王都全体を優しく照らしている。
その光を見た瞬間、胸が締め付けられた。
「どうして……。」
誰へ向けた言葉でもない。
月を見るたび苦しくなる。
涙が込み上げる。
それなのに理由だけが分からない。
まるで、この月を誰かと一緒に見上げた記憶だけが心に残っているようだった。
「私……。」
窓ガラスへそっと手を添える。
冷たい感触が掌へ伝わる。
「誰を待っているの……?」
返事はない。
夜風だけが静かに吹き抜けていった。
その時だった。
部屋の奥から、かすかな光が漏れた。
ルナリアは振り返る。
机の上に置かれた古びた禁書。
昼間、禁書保管庫で発見した不可解な本だった。
読むたびに内容が変わり、空白が増え、時には消えた文字が戻る。
誰一人、その正体を説明できない。
「また……光ってる。」
本は淡い蒼色の光を放ちながら、小さく脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
まるで生き物の鼓動のようだった。
「そんな……。」
恐る恐る近づき、指先で表紙へ触れる。
その瞬間、本がゆっくりと開いた。
パラリ。
パラリ。
誰も触れていない。
風も吹いていない。
それでもページは意思を持つようにめくられていく。
やがて、一枚の白紙で止まった。
昨日まで何も書かれていなかったページ。
しかし今夜は違う。
白い紙へ黒い文字が滲み始めた。
まるで見えない誰かが、今この瞬間も書き続けているかのように。
一文字。
また一文字。
やがて、一つの言葉が完成する。
『最後の英雄』
ルナリアの呼吸が止まった。
胸が激しく脈打つ。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「……最後の、英雄。」
声にした瞬間、理由もなく涙が込み上げてきた。
胸が痛い。
息が苦しい。
どうしてこんなにも懐かしいのだろう。
英雄。
誰なのか分からない。
どんな人だったのかも思い出せない。
それでも。
その存在が、自分にとって何より大切だったことだけは分かる。
ルナリアは震える指先を文字へ伸ばした。
「あなたは……誰なの?」
静かな問い。
返事はない。
だが文字は微かに揺れた。
まるで応えようとしているように。
「お願い……。」
もう一度呟く。
「教えて……。」
その瞬間だった。
文字が崩れ始めた。
黒い粒子となって空中へ溶けていく。
「あっ……!」
ルナリアは思わず手を伸ばした。
だが届かない。
粒子は月明かりへ溶けるように消え去り、ページは再び真っ白になっていた。
「どうして……。」
肩が震える。
涙が一滴、本の上へ落ちた。
その時だった。
カタン。
窓が小さく鳴る。
ルナリアはゆっくり振り返った。
風は吹いていない。
それなのに窓だけが小さく揺れている。
カタ……
カタカタ……
誰かが外から優しく叩いているような音だった。
「……誰?」
恐る恐る近づき、カーテンを開く。
夜空には満月だけが浮かんでいる。
街も静まり返っていた。
「気のせい……?」
そう呟いた瞬間だった。
窓ガラスへ一人の少年が映った。
黒髪。
蒼い瞳。
どこまでも優しい笑顔。
本当に一瞬だけだった。
「っ!」
勢いよく振り返る。
誰もいない。
部屋には自分しかいなかった。
幻覚だったのだろうか。
そう思った、その時。
耳元で優しい声が囁く。
『……思い出せ。』
低く穏やかな声だった。
どこか安心する声。
胸が温かくなる、不思議な声。
ルナリアの身体が震える。
「……知ってる。」
自然と言葉が漏れた。
「私、この声を知ってる……。」
涙が止まらない。
「お願い……。」
唇が震える。
「もう一度だけ……会わせて。」
返事はなかった。
けれど、その声だけは確かに胸の奥へ刻まれていた。
忘れてはいけない。
絶対に忘れてはいけない。
心がそう叫び続けている。
そして、その同じ頃。
誰にも届かない世界の外側。
崩壊した観測者領域で、一人の少年が静かに目を開いた。
「……今のは。」
三年間、一度も感じたことのない温もり。
遠く離れた世界の内側から、誰かが自分を呼んだ気がした。
少年――シオン・アルヴィスは、ゆっくりと蒼い瞳を夜空のない空へ向ける。
「ルナリア……。」
その名を口にした瞬間、止まっていた運命の歯車が、再び静かに動き始めた。




