「忘れられた名前」
雨が静かに降っていた。
王都セレスティアの夜を包む細かな雨は、石畳を濡らし、街灯の光を淡く滲ませている。
昼間の賑わいは消え、人通りもまばらだった。
ルナリアは一人、傘も差さずに歩いていた。
研究院を出てから、どうしても部屋へ戻る気になれなかった。
胸の奥が落ち着かない。
鼓動だけが、少しずつ速くなっていく。
「どうして……。」
思わず呟く。
「何を探してるの、私は……。」
答えは返ってこない。
それでも足は止まらなかった。
気づけば王都の外れにある小高い丘へ辿り着いていた。
そこは誰も訪れない静かな場所だった。
雨に濡れた白い花々が、夜風に揺れている。
ルナリアは息を呑んだ。
「ここ……。」
初めて来たはずだった。
それなのに。
知っている。
この景色を。
この花を。
吹き抜ける風を。
雨の匂いを。
何度も。
何度も。
誰かと一緒に見てきた気がした。
ゆっくりと花へ触れる。
冷たい花弁。
その感触と同時に、胸の奥が大きく脈打った。
ドクン――。
視界が揺れる。
雨音が遠ざかる。
世界が滲んだ。
そして。
記憶が溢れ出した。
白い花畑。
満月。
優しく吹く風。
楽しそうな笑い声。
そして、一人の少年。
黒髪。
蒼い瞳。
優しい笑顔。
今まで何度思い出そうとしても見えなかった顔。
その姿が、今だけははっきりと見えていた。
少年は笑いながら手を振っている。
まるで昨日まで隣にいたかのように。
ルナリアの頬を涙が伝った。
「どうして……。」
震える声が漏れる。
「こんなに会いたいの……。」
少年の唇が動く。
何かを伝えようとしている。
しかし音だけが聞こえない。
世界が意図的に遮断しているようだった。
「お願い……。」
ルナリアは必死に手を伸ばした。
「教えて。」
「あなたは誰?」
「私にとって、どんな人だったの?」
少年は変わらず優しく笑っていた。
そして静かに口を動かす。
その瞬間だった。
言葉は聞こえない。
それでも分かった。
魂が覚えていた。
心だけは忘れていなかった。
ルナリアの唇が震える。
「……シオン。」
その名前を口にした瞬間。
世界が止まった。
雨が止む。
風が止む。
時間さえ止まったような静寂が訪れる。
同時に、王都全域が大きく揺れた。
ゴォォォォォォォォ――。
研究院。
王城。
地下封印区画。
王都中の古代魔導機関が一斉に起動する。
地下深くに眠る古代石碑が眩く輝き始めた。
刻まれていた文字。
『黒星王』
その下へ、新たな文字がゆっくりと浮かび上がる。
『シオン・アルヴィス』
忘れられた英雄の名。
世界から消されたはずの名前。
封印されていた記録が、初めて揺らいだ。
その頃。
世界の外側――観測者領域。
シオンは突然立ち止まった。
観測者の書が激しく光を放っている。
ページが高速でめくられ、無数の文字が空中へ流れ出していた。
「何だ……?」
次の瞬間、一つの名前が浮かび上がる。
『ルナリア・セレス』
シオンは目を見開いた。
「……まさか。」
信じられなかった。
三年間。
誰一人として自分を思い出せなかった。
世界そのものが、自分の存在を拒絶していた。
それなのに。
彼女だけが。
ルナリアだけが、自分の名前へ辿り着いた。
思わず笑みがこぼれる。
「本当に……。」
声が震えた。
「お前らしいな。」
懐かしい笑顔が脳裏に浮かぶ。
白い花畑で笑っていた少女。
泣き虫だった少女。
それでも最後まで自分を信じ続けてくれた少女。
「ありがとう。」
誰にも届かない言葉だった。
だが確かに、シオンの心は救われていた。
しかし、その喜びは長く続かなかった。
ゴォォォォォォォォ――。
観測者領域が激しく揺れる。
黒い星が大きく脈動する。
無数の白い瞳が一斉に開いた。
冷たい機械音声が響く。
『異常発生。』
『記録修復確認。』
『世界記憶復元確認。』
『危険度上昇。』
どこまでも無機質な声。
だが、その中にはわずかな焦りが混じっていた。
『対象変更。』
『優先抹消対象認定。』
『ルナリア・セレス。』
シオンの表情が凍り付く。
「……やめろ。」
低く呟く。
『修正開始。』
黒い星の表面に無数の白い扉が現れ始めた。
一枚。
十枚。
百枚。
千枚。
世界へ繋がる転移門。
管理者たちが降り立つための門。
シオンは拳を強く握り締めた。
「ルナリアに手を出すな。」
その声に応える者はいない。
扉は静かに開き始めていた。
一方、王都では。
ルナリアが雨の止んだ花畑で立ち尽くしていた。
頬を涙で濡らしながら、胸へ手を当てる。
「シオン……。」
一度。
「シオン。」
二度。
何度呼んでも、その名前は胸へ深く刻まれていく。
忘れられた英雄。
世界で最初に、その名を思い出した者。
その瞬間から。
止まっていた運命の歯車は、大きく回り始めた。
世界が隠し続けた真実。
消された記憶。
封印された英雄。
すべてが再び繋がり始める。
そして、その変化はもう誰にも止めることはできなかった。




