「空を覆う神殿」
空が変わった。
ルナリアの月光がアストレアを照らした直後だった。
誰もが見上げていた。
黒星王。
月の継承者。
裂けた空の向こうにいる星喰い。
世界の命運を左右する存在達を。
だが――
その全てを押し潰すように。
さらに巨大な影が現れた。
ゴォォォォォォォォォ……
大気そのものが唸る。
雲海が割れる。
空が軋む。
世界が悲鳴を上げているようだった。
最初に気付いたのはエリナだった。
震える指で空を指差す。
「なに……あれ……」
その声は掠れていた。
誰も答えられない。
答えられる者がいない。
なぜなら。
それは人類が見るべきではない存在だったからだ。
雲海の奥。
太陽すら隠すほどの巨大な影。
白い外壁。
黄金の尖塔。
無数の神殿群。
そして中央にそびえる巨大な聖塔。
まるで空そのものが都市へ変わったかのような光景。
神話にのみ存在すると言われた場所。
人類史最大の謎。
エクリプス教団総本山。
天空神殿エデン。
その全貌が。
ついに世界へ姿を現した。
沈黙が落ちる。
アストレア全域。
誰一人として声を出せなかった。
市民達は立ち尽くす。
研究者達は震える。
兵士達は武器を握ったまま動けない。
あまりにも巨大だった。
あまりにも現実離れしていた。
まるで神が地上へ降りてきたようだった。
「……冗談だろ」
最初に声を出したのはガルドだった。
歴戦の傭兵。
死線を何度も越えてきた男。
そんな彼ですら顔を引きつらせている。
「都市じゃねぇ……」
「国だろ、あれ……」
誰も否定できなかった。
エデンの規模は常識を超えていた。
その周囲には数百隻の飛空戦艦。
さらに外側には数え切れない教団軍。
まるで空そのものが軍隊になったような光景。
アストレアの防衛軍が数万人。
対してエデン側は数十万。
戦力差は絶望的だった。
エリナが呆然と呟く。
「勝てるわけないじゃん……」
本音だった。
今までどんな敵と戦っても希望はあった。
ヴォルグ。
セラフィナ。
アリア。
シャドウ。
強敵だった。
だが勝機は存在した。
しかし今。
空に浮かぶ存在は違う。
規模そのものが別次元だった。
世界を相手にしているような感覚。
それが全員を押し潰していた。
その時だった。
ドクン――
シオンの胸が脈打つ。
黒星晶。
強く。
今までにないほど強く。
反応している。
シオンは無意識に胸を押さえた。
「くっ……」
頭痛が走る。
視界が揺れる。
そして。
見えた。
巨大な神殿。
崩壊する空。
燃える世界。
泣いている人々。
血。
絶望。
その中心で。
自分がエデンを見上げている。
知らない記憶。
だが。
確かに自分の記憶だった。
「またか……」
シオンが歯を食いしばる。
最近増えている。
前の世界の記憶。
最後の観測者としての記憶。
その全てが。
エデンを見た瞬間から溢れ始めていた。
ルナリアが心配そうに近付く。
「シオン?」
「大丈夫だ」
即答する。
だが大丈夫ではなかった。
エデンを見ていると。
どうしようもなく嫌な予感がする。
胸の奥が警鐘を鳴らしていた。
行ってはいけない。
近付いてはいけない。
だが同時に。
行かなければならない。
そんな矛盾した感覚だった。
アリアもまた空を見上げていた。
紫の瞳が細められる。
その巨大な神殿を見ているだけで嫌悪感が込み上げてくる。
あそこには思い出したくない過去がある。
消された記憶。
奪われた名前。
壊された人生。
そして。
自分を暗殺者へ変えた場所。
「……エデン」
小さく呟く。
その声には殺意が混じっていた。
隣ではセラフィナが黙って空を見ている。
彼女の表情も固い。
氷晶将。
七星将。
教団最高戦力。
その肩書きはもう意味を持たない。
今の彼女は一人の少女だった。
エデンを見る瞳には恐怖がある。
感情を奪われた日々。
兵器として扱われた過去。
全ての始まりがあそこにある。
「帰りたくない……」
誰にも聞こえない声。
だが確かに零れた本音だった。
レオニクスだけは違った。
彼はエデンを見上げながら静かに目を閉じる。
長い沈黙。
そして。
低く呟いた。
「ついに来たか」
その声には恐怖があった。
誰よりも世界を知る男。
誰よりも歴史を知る男。
そんな彼が恐れる存在。
それがエデンだった。
シオンが振り返る。
「知ってるのか」
レオニクスはしばらく答えなかった。
ただ巨大な神殿を見上げる。
そして静かに言う。
「知っている」
蒼い瞳が細められる。
「何度も見てきた」
その言葉に全員が反応する。
何度も。
その意味を理解したのはシオンだけだった。
前の世界。
さらに前の世界。
繰り返される歴史。
レオニクスはその全てを見てきた。
だから知っている。
エデンが現れる時。
世界は必ず終焉へ近付くことを。
大気が震える。
空が軋む。
巨大な神殿はゆっくりとアストレア上空へ降下してくる。
まるで神が地上を見下ろすように。
その圧倒的な威容を前に。
誰もが理解した。
ここから先は。
今までの戦いとは違う。
逃亡でもない。
局地戦でもない。
教団との小競り合いでもない。
世界そのものを巻き込む戦争が始まるのだと。
そしてその戦争の中心には。
黒星王シオン・アルヴィスと。
月の継承者ルナリア・セレスがいる。
運命は。
もう後戻りできない場所まで来ていた。




