処分される世界
王都セレスティア。
人々は言葉を失い、ただ空を見上げていた。
昼ではない。
夜でもない。
空そのものが色を失い、ゆっくりと純白へ塗り替えられていく。
遥か上空には、世界を囲うほど巨大な白い輪が浮かんでいた。
終末の法陣。
世界終了命令――《エンド・リライト》。
その正体を知る者は、王都のどこにもいない。
それでも誰もが、本能だけで理解していた。
これは災害ではない。
戦争でもない。
そんな言葉で説明できるものではなかった。
もっと根源的な何か。
自分たちが暮らしてきた世界そのものが、今まさに終わろうとしている。
その事実だけが、冷たい恐怖となって人々の心へ広がっていた。
王都から音が消えていく。
誰も叫ばない。
誰も逃げ出さない。
逃げる場所など、どこにもないと分かっていたからだ。
⸻
中央広場では、一人の子供が泣いていた。
「お母さん……空が怖いよ……」
母親は答えられず、その小さな身体を強く抱き締める。
「大丈夫よ」
震える声で、何度も繰り返す。
「きっと大丈夫だから……」
その言葉を、自分自身に言い聞かせるように。
広場を守る兵士たちは武器を握ったまま動けずにいた。
何と戦えばいいのか分からない。
剣で空を斬ることはできない。
盾で世界の消滅を防ぐこともできない。
商人も。
冒険者も。
貴族も。
貧民も。
立場に関係なく、誰もが同じ空を見上げていた。
その時だった。
パラリ――。
静寂の中に、紙がめくれる小さな音が響いた。
王立図書館。
書架から一冊の古びた本が滑り落ち、床の上で開く。
誰も触れていない。
風も吹いていない。
それでもページは自ら動き、白紙だったはずの場所へ黒い文字が浮かび上がった。
『シオン・アルヴィス』
それを見た司書長が息を呑む。
「また……」
震える声が漏れた。
「また、記録が戻っている……」
昨日までは存在しなかった文章。
数時間前まで白紙だったページ。
忘れられた記録。
消された歴史。
この世界には存在しないはずの名前。
それらが今、世界中で次々と復元され始めていた。
司書長は震える指先で、その文字をなぞる。
「お前は……誰なんだ」
記憶にはない。
顔も。
声も。
何をした人物なのかさえ思い出せない。
それなのに。
胸の奥だけが、確かに知っていた。
この名を忘れてはいけない。
この少年は、かつて世界を救った。
そして今も、どこかで自分たちのために戦っているのだと。
⸻
同じ現象は、王都だけで起きていたわけではなかった。
世界樹都市アストレア。
巨大な世界樹を中心に築かれた都市では、古い石碑へ一人の少年の姿が浮かび上がっていた。
海上国家マリネス。
波に侵食されて消えたはずの壁画が、海面の下から再び姿を現す。
北方氷原。
永久氷壁の内部へ、黒髪の少年が剣を掲げる光景が刻まれていく。
砂漠都市ザルディア。
砂に埋もれていた神殿の床へ、忘れ去られた英雄の名が浮かび上がった。
世界中で、人々は同じ夢を見ていた。
黒髪の少年。
澄んだ蒼い瞳。
全身を傷だらけにしながら、それでも誰かを安心させるように笑う姿。
絶望の前へ立ち。
誰かを守ろうとする背中。
誰も、その少年を知らない。
それでも夢から目覚めた者たちの頬には、決まって涙が流れていた。
忘れていた。
自分たちは、あまりにも大切な誰かを忘れさせられていた。
その喪失感だけが、胸を締め付けていた。
⸻
記憶の海。
果てしなく広がる水面の上で、クロノは白く変わり始めた空を見上げていた。
その顔から血の気が失われている。
これほど明確に焦りを見せるクロノを、ルナリアは初めて見た。
「そんなに……まずいの?」
クロノは視線を空へ向けたまま、重く頷いた。
「まずいなんてもんじゃない」
いつもの軽さはない。
声には隠しきれない緊張が滲んでいた。
「《エンド・リライト》は、これまでの世界再構築とは違う」
「どう違うの?」
ルナリアの問いに、クロノはゆっくりと振り返る。
「修正じゃない」
短い言葉。
それだけで、空気が冷たく変わった。
「消去だ」
ルナリアの胸が強く締め付けられる。
クロノは彼女にも理解できるよう、静かに言葉を続けた。
「世界を一冊の本だとする」
「管理者は今まで、その中に書かれた文章を書き換えてきた」
「都合の悪い人物を消して、歴史を修正して、結末を作り直した」
そこまで言うと、クロノは強く拳を握った。
「だが、今回は違う」
記憶の海に沈黙が落ちる。
静かな波音だけが、二人の間を通り過ぎた。
クロノは低い声で告げる。
「奴らは、本そのものを燃やす気だ」
ルナリアの顔から血の気が引いた。
それが何を意味するのか。
説明されなくても分かった。
積み重ねてきた歴史も。
今を生きる人々も。
まだ訪れていない未来も。
すべてが消える。
最初から存在しなかったことになる。
シオンを取り戻すどころではない。
ルナリアも。
クロノも。
世界中の誰もが消滅する。
記憶すら残らない。
⸻
「そんなの……」
ルナリアは震える手を強く握り締める。
恐怖はあった。
それでも、その瞳から希望は消えていなかった。
「そんなの、絶対に認めない」
迷いのない声だった。
クロノはその言葉を聞き、ほんの少しだけ口元を緩める。
「そう言うと思った」
「クロノ……?」
「ああ。俺もだ」
クロノも空を見上げる。
世界を覆い始めた巨大な白い輪。
発令された世界終了命令。
そして、その白へ抗うように輝く蒼黒い流星。
「管理者は、すべてを計算で決める」
クロノは静かに言った。
「失敗する可能性があるならやり直す。制御できないものがあるなら消去する。それが正しいと信じている」
「でも、人は違う」
ルナリアが続ける。
クロノは頷いた。
「諦めない。たとえ可能性が零に近くてもな」
その性質こそが、管理者には理解できない。
そして管理者に、最も欠けているものだった。
クロノは蒼黒い流星を見つめる。
「だからシオンは帰ってくる」
ルナリアも顔を上げた。
蒼黒い光は、先ほどよりさらに近づいている。
もう見間違えることはない。
あれはシオンだ。
三年間、待ち続けた人。
忘れさせられても、心だけは求め続けた人。
何度世界が書き換えられても、必ず自分たちを守ろうとした人。
今度こそ。
絶対に取り戻す。
ルナリアの月の紋章が、その決意へ呼応するように淡く輝いた。
⸻
その頃。
世界と世界の狭間。
蒼黒い流星となって進むシオンもまた、世界に起きている異変を感じ取っていた。
白い法陣が広がるたび。
世界の悲鳴が聞こえる。
積み重ねられた記録が消えていく。
紡がれてきた歴史が削除されていく。
生まれるはずだった未来が、次々と奪われていく。
胸の奥へ流れ込む痛みに、シオンは歯を食いしばった。
だが同時に。
消滅へ抗う、別の声も聞こえていた。
『忘れない』
『帰ってきて』
『助けて』
世界中の人々から生まれた想い。
名前すら思い出せない英雄へ向けられた、かすかな願い。
消されようとしている記憶が。
失われようとしている希望が。
細い光となり、シオンのもとへ集まっていく。
ドクン――。
黒星晶が脈打った。
蒼黒い輝きが、さらに強くなる。
「まだ終わらせない」
シオンは剣を握り直した。
声は静かだった。
それでも、そこには決して揺らがない決意が宿っている。
「絶対に」
前方では、残存するAE軍団が再び隊列を組んでいた。
純白の執行官たちが進路を塞ぐ。
王都上空では終末機構が回転し、その無数の瞳が世界を観測し続けている。
《エンド・リライト》は止まらない。
世界の消去は、一瞬ごとに進行していた。
それでも。
シオンは止まらなかった。
蒼黒い流星は、白い軍勢を貫くようにさらに加速する。
⸻
世界の最果て。
管理者中枢――《アーカイヴ・コア》。
アーカイヴは純白の玉座の前から、静かに第四世界を見下ろしていた。
《エンド・リライト》は正常に進行している。
歴史削除。
記憶消去。
生命情報の初期化。
あとわずかで、第四世界は完全に消滅する。
それが最善。
それが正解。
不確定要素を排除し、新たな世界を構築する。
世界を存続させるためには、それしかない。
そのはずだった。
だが。
アーカイヴの銀色の瞳が、わずかに揺れる。
世界各地から流れ込む観測結果。
人々が抗っている。
忘却に。
消去に。
決められた運命に。
完全に消される直前でさえ、希望を手放そうとしていない。
『理解不能』
演算領域へ表示が浮かぶ。
なぜ、そこまで過去へ執着するのか。
なぜ、失敗すると分かっていながら抗うのか。
なぜ、救われる保証もない英雄を信じ続けられるのか。
理解できない。
合理性がない。
演算上、すべて無意味な行動だった。
その時。
アーカイヴの演算領域へ、一つの映像が映し出される。
記憶の海。
泣きながら空を見上げる少女。
ルナリア・セレス。
その頬には涙が流れている。
世界の消滅を目前にしている。
恐怖もある。
絶望して当然の状況だった。
それでも彼女の瞳に宿るものは、絶望ではなかった。
希望。
帰還を信じる、揺るぎない光。
アーカイヴは、その映像を見つめ続けた。
演算が一瞬だけ遅れる。
そして初めて。
ほんのわずかに。
理論では処理できない感情の存在へ触れた。
それが何なのか。
まだアーカイヴには理解できない。
ただ、完全な無価値として切り捨てることもできなかった。
⸻
世界は終わろうとしている。
空は白く染まり。
歴史は消え。
未来は失われようとしていた。
それでも。
誰一人として、完全には諦めていなかった。
忘れられた英雄が帰ってくる。
世界から消された少年が、もう一度自分たちを救いに来る。
根拠などない。
記憶さえ曖昧だった。
それでも、その確信だけが人々の心を支えていた。
そして――。
白く染まった王都の空へ、一筋の蒼黒い光が迫る。
世界と世界の境界を突破し。
幾重もの妨害を打ち砕き。
蒼黒い流星は、ついに王都セレスティア上空へ到達しようとしていた。




