フェーズ・ゼロ
王都セレスティア上空。
巨大な白い法陣が、ゆっくりと夜空を覆っていた。
その規模は王都だけに留まらない。
大陸全域。
いや、この世界そのものを包み込もうとしている。
白い光が空を侵食していく。
星が消えた。
月が消えた。
夜空は色を失い、純白だけが静かに広がっていく。
まるで世界から光以外のすべてが奪われていくようだった。
王都の人々は足を止め、ただ空を見上げる。
誰も理解できない。
何が起きているのか。
なぜ空が変わるのか。
なぜ胸の奥が締め付けられるのか。
答えは誰にも分からない。
それでも、本能だけは叫んでいた。
これは危険だ、と。
このままでは、取り返しのつかない何かを失うのだと。
静かな恐怖が王都全体を包み込んでいく。
⸻
管理者神殿。
アーカイヴは静かに巨大な法陣を見上げていた。
銀色の瞳に感情はない。
しかし、その演算速度はすでに限界を超えている。
『フェーズ・ゼロ起動』
『世界初期化準備開始』
『記憶領域再編成』
『黒星王記録完全削除』
無機質な声が神殿へ響く。
純白の光が空間全体を満たした。
無数の書架がゆっくりと動き出す。
記録が並び替えられる。
歴史が書き換えられる。
世界そのものが再編集されようとしていた。
少女はその光景を静かに見つめる。
胸には『最初の世界』の書を抱いたまま。
「本当にやるんだね。」
小さな呟きが白い神殿へ溶ける。
アーカイヴは即座に答えた。
『必要処置』
『世界維持を優先』
少女は悲しそうに微笑む。
「違うよ。」
その声は穏やかだった。
「それは維持じゃない。」
ゆっくりと空を見上げる。
蒼黒い流星はなおも王都へ近づいていた。
少女はその光から目を離さず、静かに続ける。
「停滞だよ。」
神殿が静まり返る。
「だから世界は何度も壊れた。」
「だから人は絶望した。」
「だから黒星王が生まれた。」
アーカイヴは沈黙する。
反論はない。
演算だけが続いている。
だが、その膨大な情報処理の中に、わずかな乱れが生じ始めていた。
⸻
記憶の海。
クロノの表情が険しく変わる。
「まずい……!」
その声にルナリアが振り返る。
「何が起きてるの?」
クロノは空を指差した。
巨大な白い法陣。
その中心では、世界そのものの法則が静かに書き換えられている。
「あれはフェーズ・ゼロだ。」
低く重い声。
「管理者が最後に使う最終手段。」
ルナリアの表情が曇る。
「最終手段……?」
クロノは拳を強く握り締めた。
「世界を守るためなら。」
短く息を吸う。
「管理者は世界そのものを初期化する。」
波だけが静かに揺れる。
ルナリアの顔から血の気が引いていく。
「それって……。」
クロノはゆっくり頷いた。
「ああ。」
その一言が、すべてを物語っていた。
「また全部忘れる。」
その言葉はあまりにも重かった。
仲間たちも。
積み重ねてきた歴史も。
シオンの存在も。
ようやく戻り始めた記憶も。
再び世界から消されてしまう。
今まで取り戻したすべてが失われる。
ルナリアは唇を強く噛み締めた。
そんな未来だけは認められない。
絶対に。
「止める。」
静かな決意だった。
クロノが彼女を見る。
蒼銀色の瞳は、もう迷っていない。
「今度こそ。」
ルナリアは流星を見上げる。
蒼黒い光。
もう、その姿がはっきりと見えていた。
「シオンが帰ってくる前に。」
胸元の月の紋章が静かに輝き始める。
記憶の海が呼応した。
無数の記憶が光となって舞い上がる。
管理者が消そうとした歴史。
忘れ去られた想い。
失われた未来。
そのすべてがルナリアのもとへ集まり始める。
《メモリア・ルナ》
完全覚醒。
月の継承者としての力が、さらに高みへ到達していく。
⸻
世界と世界の狭間。
シオンは王都の空を見据えていた。
巨大な白い法陣。
管理者が築いた最後の防衛機構。
その向こうには、帰るべき世界がある。
AE軍団が再び立ち上がる。
倒しても。
砕いても。
何度でも現れる白い執行官たち。
『帰還阻止』
『帰還阻止』
『帰還阻止』
無数の声が世界へ響く。
それでもシオンは歩みを止めなかった。
蒼い瞳が静かに輝く。
「ルナリア。」
小さく名前を呼ぶ。
「もう少し待ってろ。」
ドクン――。
胸が脈打つ。
その鼓動に応えるように、世界中から人々の想いが流れ込んできた。
忘れられた英雄。
黒星王。
最後の観測者。
幾千、幾万もの願いが一つへ重なり、黒星晶が深く共鳴する。
シオンは剣を握り直した。
そして初めて、真正面から王都セレスティアを見据える。
懐かしい景色。
帰りたかった場所。
守りたかった世界。
静かに息を吐く。
「帰る。」
たった一言。
その決意だけで空間が大きく震えた。
蒼黒い光が限界まで膨れ上がる。
AE軍団が思わず後退する。
管理者たちの演算が一瞬停止した。
⸻
その頃。
深淵領域。
巨大な蒼い瞳が静かに開かれる。
『観測更新』
その声は、世界の果てまで響いた。
世界が震える。
観測者が見ている。
管理者が見ている。
世界そのものが見ている。
あらゆる視線が、一人の少年へと注がれていた。
その時だった。
王都セレスティアの中心。
誰もいないはずの鐘楼の頂。
白銀の仮面を纏った男が、ゆっくりと立ち上がる。
視線の先には、蒼黒い流星。
男は静かに口元を緩めた。
「来るか。」
夜風が外套を揺らす。
仮面の奥の瞳が鋭く光る。
「なら、俺も動こう。」
その姿を見た者は誰もいない。
誰にも知られることなく。
新たな運命の歯車が、静かに回り始めていた。




