第7話:信用崩壊
第7話:信用崩壊
エヴァンズ伯爵家の屋敷は、もう貴族の館には見えなかった。
かつて金色の灯りで満たされていた廊下は薄暗く、冷え切った石床には乾いた埃が積もり始めている。魔導暖房が止まった屋敷は外より寒く、吐く息は白かった。
使用人の数も半分以下に減っていた。
厨房から漂うのは、焦げた豆の匂いだけ。
朝食の食卓へ並んでいるのも、硬い黒パンと薄い野菜スープだった。
以前のような、焼き立ての白パンも、香草入りオムレツも、上等な果実茶もない。
ジュリアンは椅子へ乱暴に腰掛けると、スープを一口飲み、顔を歪めた。
「……まずい」
料理人だった老婆が怯えながら頭を下げる。
「申し訳ありません……食材の仕入れが止まっておりまして……」
「肉はどうした!」
「もう……ありません」
沈黙。
ジュリアンは苛立ちを隠せず舌打ちした。
その時、執事長マルセルが青ざめた顔で入ってくる。
「ジュリアン様……」
「今度は何だ」
「使用人がさらに六名辞職いたしました」
「は?」
「給金未払いが続いておりますので……」
「待てと言っているだろう!」
「皆、生活があります」
マルセルの目には疲労が滲んでいた。
数日で十歳は老けたように見える。
ジュリアンは拳を握る。
「……金なら何とかなる」
「どうやってです?」
「融資を――」
「すべて拒否されています」
ぴしゃり、と返された。
「魔導銀行ブラックリストへ登録されました」
ジュリアンが顔を上げる。
「……何だ、それ」
「契約不履行貴族として記録登録されたのです」
マルセルは重い声で続ける。
「王国全銀行共有記録です。一度登録されると、融資、信用取引、魔導決済、すべて制限されます」
「そんな馬鹿な!」
「現に、本日の決済も停止しております」
ジュリアンの喉が詰まる。
呼吸が浅くなる。
「……解除方法は」
「莫大な違約金完済後、十年以上の信用回復実績が必要です」
「十年……?」
頭がくらりとした。
その時、外から馬車の音が聞こえた。
ジュリアンは立ち上がる。
「……クロエか」
ようやく表情が少し明るくなる。
「そうだ、クロエなら――」
彼女は自分を愛している。
少なくとも、そう思いたかった。
ジュリアンは急いで玄関ホールへ向かった。
だがそこで見た光景に、足が止まる。
クロエはいた。
しかし一人ではない。
隣には、豪奢な白銀の軍服を纏った男が立っていた。
王国有数の大貴族、ローゼン公爵家嫡男――セルヴィス。
クロエは彼の腕へしなだれかかり、以前より高価そうな毛皮付きドレスを纏っていた。耳元では大粒の魔力真珠が揺れている。
ジュリアンは顔を引きつらせた。
「……クロエ?」
クロエは一瞬だけ困った顔をした。
だが次の瞬間には、柔らかな笑みを浮かべる。
「お久しぶりです、ジュリアン様」
「何だ、その格好は」
「セルヴィス様に贈っていただいたんです」
嬉しそうに袖を撫でる。
ジュリアンの胸がざわついた。
「お前……何をしている」
クロエは小さく首を傾げる。
「何って?」
「俺たちは婚約するはずだっただろう!」
するとクロエは、くすりと笑った。
あまりにも軽い笑いだった。
「まだそんなこと言ってるんですか?」
「……は?」
セルヴィスが鼻で笑う。
「聞いていた以上に滑稽だな」
ジュリアンは彼を睨みつける。
「黙れ!」
だがクロエは、もう以前みたいに怯えなかった。
むしろ少し呆れたように言う。
「ジュリアン様、現実を見てくださいませ」
「現実……?」
「金のない伯爵なんて、価値がありませんもの」
その言葉が、胸を深く抉った。
ジュリアンは目を見開く。
「……お前」
「わたくし、貧乏って嫌なんです」
クロエはあっさりと言った。
「寒い屋敷も嫌ですし、粗末なお食事も嫌ですし、借金取りに囲まれるのも嫌です」
まるで当然みたいに。
「だから、もっと素敵な方を選びましたの」
セルヴィスが満足げにクロエの腰を抱く。
「賢い娘だ」
ジュリアンの頭が真っ白になる。
好きだった。
愛していた。
だからアルテミシアを捨てた。
なのに。
クロエは、自分を見捨てた。
しかもこんなに簡単に。
「……ふざけるな」
掠れた声が漏れる。
「ふざけるなぁぁぁ!!」
ジュリアンが叫びながらクロエへ掴みかかろうとする。
しかし瞬時に護衛騎士が立ちはだかった。
剣の鞘が胸へ押し当てられる。
「それ以上近づくな」
「離せ!」
「今の貴様には爵位の信用もない」
セルヴィスが冷たく言った。
「没落貴族ごときが、私の婚約者へ触れるな」
婚約者。
その言葉で、何かが完全に壊れた。
クロエはもうジュリアンを見ていなかった。
視線の先にいるのは、新しい男だけ。
「さようなら、ジュリアン様」
優雅に一礼し、彼女は去っていく。
甘い香水の香りだけが残った。
玄関ホールが静まり返る。
ジュリアンはその場に立ち尽くした。
その時。
再び扉が開いた。
今度は黒い礼装を纏った騎士たちが入ってくる。
胸元には王家の紋章。
中央に立つ男が、無機質な声で告げた。
「王宮命令書を伝達する」
マルセルが青ざめる。
「ま、まさか……」
使者は羊皮紙を開いた。
「エヴァンズ伯爵家は、度重なる契約不履行および王国信用制度への重大損害により――」
ジュリアンの呼吸が止まる。
「爵位剥奪」
静かな宣告。
「全資産差し押さえ」
誰かが息を呑んだ。
「および領地管理権停止処分を命じる」
羊皮紙が閉じられる音が、やけに大きく響いた。
ジュリアンは立っていられなかった。
膝が崩れる。
冷たい石床へ倒れ込み、呆然と床を見る。
終わった。
本当に。
全部。
暖かな屋敷も。
豪華な食事も。
誇りも。
未来も。
何もかも。
そして脳裏に浮かぶのは、最後まで静かだったあの女の顔だった。
アルテミシアは、最初から泣いてなどいなかった。
ただ、自分の価値を回収しただけだったのだ。




