第26講 兄のすゝめ(その2)
「はははは、そいつは傑作だな!」
「どこが傑作なんだよ」
俺の愚痴を聞いた兄貴は、陽気に笑った。病人とは思えないくらいのみずみずしい笑顔。口からは白い歯が覗く。だが、俺は心底面白くなかった。
「なんでみんな、あんなこと言うのかな? 全部偏見なのに。読んでみれば面白いやつ、いっぱいあるのに。人生損してる」
「そう言うんだったら、ガツンとぶつかってみろ。ダメだったとしても、やらないよりはマシだろ?」
何の屈託もなく、兄は言う。俺は兄貴の言葉を聞いて、決心した。
そうだ。何が何でも、あいつに読ませてやろう!
俺は翌日、早速実行した。ノートの隅に自分の小説をセルフ公開しているブログのURLを書き、その部分を鋏で切り取って川嶋の席まで持っていき、正面から突き出した。彼女は少し驚いたように顔を上げる。
「昨日、言ってた俺の小説、一度読んでみろ。ほんとに幼稚なのかどうか、お前の目で確かめてみやがれ!」
まるで宣戦布告するみたいに、俺は言い張った。一方、川嶋は口端を引きつらせながらそれに応えた。
「わかったわ。まあ、気が向いたらね」
俺はその夕方、兄の病室に行き、そのことを報告した。
「あいつのあの顔といったら、傑作! せいせいしたぞ!」
「おお、それはよかったなあ」
兄は今日も笑顔で、俺の頭をくしゃくしゃっと撫でた。しかし、いつもより元気がないと俺は感じた。無理に笑っているような気がしたのだ。
「どうした、兄ちゃん」
思わずきくと、兄は病室の窓の向こうに視線を投げながら、こう語った。
「才人。俺はさっきまで、考えてたんだ。人は何故死ぬんだろう、って。十代で病気になったことに、何か意味があるのだろうかって。日本中……いや、世界中にたくさんの同級生がいる中で、どうして俺なんだろうって。考えても考えても、答えは出なかった……」
兄は、寂しそうな顔をした。それを見て、俺は胸が苦しくなった。何か声をかけようと思っても、何も思いつかなかった。兄は、
「でも、それも運命なんだって受け入れる決心をしたよ」
と言って、こちらを振り向いて微笑んだ。そして、その口からこんな言葉が飛び出した。
「この世界のあらゆる不幸はすべて不可抗力であり、誰のせいでもなく、また誰のせいにしてもならない。徹頭徹尾、天の神の気まぐれなのだ……」
きょとんとする俺に、兄貴は言った。
「覚えてるか? 俺が最初にお前に勧めた小説の、冒頭だよ」
「覚えてる」
「俺もその通りだと思う。初めは信じたくない気持ちも強かったけど、今では共感している。いいか、才人。お前も、自分にどんな運命が用意されていたとしても、それを憎んだりしたらダメだぞ? 憎しみからは何も生まれてこない。前に進まなくちゃならないんだ」
兄の口調は優しく、ひどく穏やかだった。ただ、俺はまだ子供だったので、そのことが信じられなかった。そして腹も立った。
「なんで、そんなこと言うんだよ……」
俺が励まそうと口を開きかけると、兄はまるでそれを遮るようにまた話し始めた。
「俺は医者になりたかった。話したことなかったっけ。小さい頃、テレビ見てて、医療機関で働く人がすごく輝いて見えたんだ。だから俺も、あの人たちみたいになりたいって思ったんだよ。そして、みんなに幸せを分け与える人になりたい、って。でも、もうその夢は叶いそうにない。だから、お前に夢を引き継いでほしいんだ」
「俺、馬鹿だから医者になんかなれないよ」
「医者にならなくていい」
兄はじっと俺の顔を見つめていた。何かを諭すみたいに。俺は、それを見つめ返すことしかできなかった。やがて、兄は力のない手で俺の肩をつかんで、言葉を続けた。
「お前には、小説っていう立派な武器があるじゃないか。お前の書く小説には、人を幸せにできる力がある。少なくとも、俺はそう思う。だから、いつか小説で、俺みたいに病気で苦しんでいる人を、病気のことを忘れさせるくらい、少しでも幸せにしてあげてほしい」
俺には、これが兄の遺言であるような気がして、釈然としなかった。ついにはどうしていいかわからなくなって、大切で、苦しいはずの兄を責めるような口調で、
「どうしてそんなこと言うんだよ、兄ちゃん! 絶対、治るから! それに、俺の小説は人を幸せになんてできない。言われたんだ、幼稚だって。俺もそれは薄々気づいていた。それでも好きだから、続けてきた。だけど……実際、俺には才能なんてなかったんだ!」
「それはお前の思い込みだよ、才人」
兄の目は、まっすぐに俺を見据えていた。何も間違ったことなんて言っていない、目がそう訴えているような気がした。
「お前には才能がある。自分を信じて、前に進め」
俺はその夜、兄の言葉を布団の中で反芻するのだった。
数日後の昼休み、俺はまた自席に着いて読書をしていた。
「東光くん」
不意に正面から声をかけられ、顔を上げるとそこに川嶋が立っていた。
「何だよ?」
「この前、言ってたあなたの小説、読んでみたんだけど」
俺は自分の耳を疑った。「幼稚」と言って散々バカにした川嶋が、俺の小説を読んでいるわけがないと勝手に思い込んでいたからだ。
「ど、どうだった?」
少し怖かったが、きかずにはいられない。数瞬ののち、俺はちょっとでも期待していた自分を恥じることになった。川嶋は微笑も嘲笑もせずに、こう言ったのだ。
「てんで幼稚」
唖然とする俺を前に、彼女は無遠慮に話し続けた。
「あれ、異世界モノとかいうやつでしょ? 最近、確かに流行ってるよね。でも、私にはどこが面白いのかさっぱりわからなかった。ただの現実逃避じゃないの。小説じゃなくて、『オタク向けの読み物』って言った方がしっくり来るわね」
そんなことを言う川嶋に、さすがの俺もキレそうになり、何か言い返そうとしたその瞬間、担任の先生が教室に入ってきて俺を見つけるなり、呼んだ。
電話を渡され、俺が出ると、受話口から母の泣きそうな声が漏れてきた。すぐに病院に来てくれ、ということだった。それだけで、俺はすべてを察した。ついにこの日が来てしまったんだ、という無力感が全身を貫通した。
俺は教師に受話器を返すと、静かに帰り支度を始めた。
「……どうしたの?」
川嶋の声が聞こえたが、もうどうでもよかった。さっきまで腹が立っていたはずなのに、俺は反論する気力さえも喪失していたのだ。
相手も困惑したように俺の一挙一動を見ているので、状況説明くらいはしてやろうと、俺は彼女を見上げて言った。
「兄貴が、危ないんだってさ。今の電話、親からでさ、すぐに病院来てくれって」
「えっ……」
川嶋は、絶句したように俺を見つめる。構わず、俺は彼女の横を通り過ぎて教室を出た。
学校を出ると帰宅せず、そのまま病院に向かった。だが、俺が着いたのは兄の身体から魂が抜けた後であった。不思議と、涙は出なかった。これが、現実じゃないような気がしたのだ。
俺は母が医者から話を聞いている間に、病院を出た。そこに立っていた人物を見て、俺は足を止めた。
川嶋が、冷え切った視線を向けながら、俺の前に立っていたのだ。
「何してんだよ、お前」
俺は彼女を責める気にもならず、かといって無視して帰るのも変なので、とりあえずここに来た理由について問いただそうと思った。その前に、川嶋が急に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
なんで謝られるのか、俺にはさっぱりだった。
川嶋は顔を上げて、
「あなたのこと、誤解してた。まさか本気だったなんて知らなくて、あんなにひどいこと……ほんと、馬鹿ね、私」
彼女の声は、少しだけ震えていたと思う。
「いいよ、今更」
「お兄さんは?」
俺は小さく首を振った。
「東光くんは……小説を書いて、どうしようと思ってるの?」
俺はやや迷ったが、何故か不自然なくらいに自然にスラスラと言葉が出てきた。
「兄貴に言われたんだ。小説を書いて、人を幸せにしてやってほしいって。病気の人に病気を忘れさせるくらいに。そんな小説が書けたら、どんなにいいだろうかって自分でも考えたよ」
「私、応援する」
そう言った川嶋の目に、冗談らしいものは窺えなかった。あんなに馬鹿にしていた彼女が、「応援する」と言ったのだ。俺はたいへん驚かされた。
「確かに、私には君の小説の良さはわからないけど……きっとわかってくれる人がいる。そういう人を見つけて、まずはその人に読んでもらうために、文章力や構成力を磨いていけばいいと思う。私も、お詫びとして、お手伝いさせて」
川嶋は少し目尻を下げて、微笑んだ。その時、急に鼻の奥がツンとなり、視界がぼやけた。兄が死んでも、泣かなかったはずなのに。泣き顔を見られてたまるかと俺は川嶋に背を向けると、彼女に言った。
「ありがとう。俺も、今のでちょっとやる気出たよ」
川嶋は何も答えなかった。この時、俺の中である決意が芽を出した。
それから紆余曲折あって、俺はその一年後、小説家の一覧に名を連ねていた。もちろんペンネームだが、それでも俺は自慢せずにはいられなかった。川嶋にも、ちょっぴり感謝した。
俺は机に向かいながら、兄に言われたことを繰り返し思い出していた。
……『何があっても、運命を憎んじゃいけない』
その時、ドアが開かれて母が顔を出した。
「才人。何してるの、颯夏くん来たよ?」
「あぁ、悪い!」
俺はそう言ってすぐに椅子から立ち上がると、颯夏がにこにこしながら部屋に入ってきた。
「師匠、やっと最終章までいったよ」
俺は卓袱台を出しながら、
「じゃあ、今日の目標は最後まで書くことだな」
と返す。
それから俺と颯夏は、いつものように卓袱台を挟んで向かい合わせで座った。こんな日々が、俺は嫌いではなかった。
なあ、兄ちゃん、俺はずっと考えてたんだ。人を幸せにする方法。いくら考えても、答えは見つけられなかった。兄貴が言ったあの言葉の意味も、まだよくわからない。だけど、そんな俺でも、ちゃんと小説家になったよ。まだそんなに有名ではないけど、いつか日本で一番有名なライトノベル作家になってやろうと思う。そう思わせてくれたのが、兄貴だったから。
そうだ。俺、あれからずっと目標を見失ってたけど、最近ようやくそれが見つかったよ。俺の初めての弟子を、今度は小説家にしてみせる。兄貴が俺に助言してくれたように、今度は俺がそいつを指導してる。だから、心配ないよ。
だから、兄貴。天国があるのかどうかは知らないけど、しっかり見ていてくれよな!




