第25講 ファイアーウォール(その2)
颯夏はこの家に泊まることになった。母が彼の家に電話を入れ、許可をもらったのだ。俺も仕方なしに受け入れることにした。
夕食後はまた向かい合って執筆活動に励み、順番に風呂に入って寝ることにした。明日も朝から学校なので、俺はいつも十一時半には寝ることにしている。少なくとも八時間は寝ておかないと、朝がキツイからな。
そういうわけで、俺は自分のベッドの横に予備の布団を敷いた。
颯夏が戻ってくるのを待っていると、廊下から話し声が聞こえた。颯夏の声だ。そっとドアを開け、様子をうかがうと、颯夏が携帯で電話をしていた。内容や口調から察するに、家の人らしい。
「うん……大丈夫。心配かけてごめん。……わかってる。僕、寂しくないよ。それじゃあ、おやすみ」
そう言って颯夏は電話を切った。相手は母親だろうか? 俺はほっこりした気分になった。そこで、ふと気づいた。
確か、颯夏は「僕」と言った。しかし、いつも彼は一人称に「俺」を使う。どういうことだ? と、考えてみる。そうしているうちに、颯夏が部屋に戻ってきた。
敷いたばかりの布団のシーツの上に胡座をかく。風呂上がりの甘い匂いが、こちらに漂ってきた。
しかし、それよりも俺は先ほどのことが気になっていた。
「師匠。ここが俺の寝床?」
颯夏は顔を上げて、澄んだ瞳でこちらを見つめる。もしも颯夏が家では「僕」と言っているなら、今ここにいるこいつは誰なんだ……?
ただ、考え込んでいても時間が過ぎるだけだ。
「そうだ。寝よう」
俺は電気を消しに立った。すると、いきなり颯夏にパジャマの袖を掴まれた。振り返ると、俯いた颯夏が物言いたげに唇を震わせている。
「なんだ?」
颯夏はやや恥ずかしそうに、「んー、んー」と鼻で息をするみたいなくぐもった声で言った。
「んー、んー」だけでは普通はわからないと思うのだが、俺はなんとなく彼の言いたいことがわかった。
「ベッドで、寝たいのか?」
こく、と颯夏は頷く。だが、当然ながら俺のベッドの使用権は俺にあるのだ。
「悪いな。今日はそこで我慢してくれ」
「高いところで寝ないと落ち着かないの」
まるでセレブが口にするようなことを言う颯夏。どうしてこう、すぐにマウントを取ろうとするのだろうか。
「いや、仕方ないだろ。俺のベッドなんだから」
颯夏はますます悲しそうな顔になる。
結局、俺は颯夏にベッドを譲ることになった。電気を消し、颯夏は俺のベッドに潜り込み、俺はその隣に敷いた布団に横になる。
そして、心の中でこう叫んだ。
なんでこうなる!!
それ、俺のベッドよ? もっと言えば、ここ、俺の家よ? どうして客であるはずの颯夏に譲らなきゃならんのだ。
不満ばかりが募ったが、俺は目を閉じて眠ることにした。
数分後、颯夏が話しかけてきた。
「師匠、眠れない」
「うん、俺は眠い」
「眠くない」
「羊でも数えとけ」
「師匠、お話しよう」
「いやだ」
「しようよ」
「ムリ」
「えーっとね……」
「いやいやいや、しないって言ってるだろ!」
俺はつい体を起こし、颯夏の方に向けた。
颯夏は、天井を向いたままこう言った。
「いつもお母さんとこうして、お話するんだ」
「小学生かよ」
いい年して、親離れもできないのか。それでも、過保護なくせにいつもほっとかれる俺よりは幾分マシなのかな。そう思うと、こういうのもたまにはいいかと思えてくる。
俺は再び横になり、天井を見つめた。
「じゃあ、ちょっとだけ付き合ってやる」
「ありがとう。えっと、むかしむかし……おじいさんとおばあさんが……」
「待て待て待て!」
また俺は上体を起こすと、颯夏を見る。
「えっ、話ってそういう感じの?」
「どうしたの?」
颯夏は、不思議そうな目で見つめ返してくる。
「いや、ほら、もっとこう……雑談的な! そういうのを想像してたんだけど……」
「こういう話をいつもしてるんだ、お母さんと」
「小学校低学年以下じゃねえか!!」
呆れるあまりそれ以外に語が継げず、俺は再び床につく。そして、颯夏は話を再開させた。
「おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へ芝刈りに出かけました」
「逆だろ!」
「おじいさんが川で洗濯をしていると、大きな桃がゆっくりと流れてきました。おじいさんはそれを引き上げて、持っていた斧で桃を真っ二つに叩き割りました」
「ここで割るんかい! 持ち帰れよ! しかも、なんで洗濯に斧とか持ってきてんだよ、危ないだろ、普通に!」
「割れた桃の中には、頭から血を流した男の子がいました」
「グロいわ!」
「その時、お腹をすかせたクマが現れました」
なんで、川辺にクマがいるんだ……?
「クマがおじいさんに襲いかかろうとすると、桃の中から男の子が飛び出し、木棒を振りかざしてクマに飛びかかりました」
おぉ、勇敢だな。それでやっつけるのか。頭から流血してるけど……桃太郎は平気なのか?
「しかし、男の子はクマに投げ飛ばされました」
…………?
「そこへ、おばあさんが芝刈りから帰ってきました。おじいさんがクマに襲われているのを見たおばあさんは、『何やっとんじゃ、ワレー!』 と声を上げて、クマの片方の前足を抱えて背負投をしました」
「なんでやねん! なんで、おばあさんがめちゃめちゃ強い設定なんだよ! つーか、それだったらさっきの桃太郎のくだりいらねーだろ!」
「めでたし、めでたし……」
「めでたくねーよ!」
桃太郎は頭から血流してるわ、クマはおばあさんに投げられるわ、お伽噺の改変版にしてはカオスすぎるだろ。
その話で、逆に眠れなくなってしまった。
「師匠も、何かお話して」
「いや、寝る」
「家族のこととか」
思いがけずそのワードが颯夏から飛び出したので、俺は一瞬、胸の奥がギュッと詰まるような感覚に陥った。
すると、何故だか話したくなった。理由はわからない。論理的に説明できないけど、こいつになら話してもいいか、と思えたのだ。実に不思議な感情の流路だ。
俺は天井を見つめたまま、話し始めた。
俺には、兄がいた。俺よりも賢くて、尊敬できる兄だった。趣味が何もなかった俺に小説を勧めてくれたのも、兄貴だった。俺が初めて書いた小説のことも褒めてくれたし、兄がいなかったら、今の俺もいないと思う。それくらい、俺が兄貴から受けた影響は凄まじかった。
兄は医大を目指していて、高校に入った頃から寝る間も惜しんで勉強に励んでいた。そんな兄を、俺はすごいと思った。
「それで、そのお兄さんは今どうしてる?」
話を聞いた颯夏が、とりとめのない話をする時みたいな何気ない調子できいてきた。
「いないよ。俺が小説家としてデビューした時にはもう、いなかった」
取り乱さないように、落ち着いた声調を意識しつつ俺は答えた。颯夏は何も言わなかった。今の返答で、察しがついたのだろう。
「応援してくれたのに、もう兄貴はここにいない。兄貴は死ぬ前、俺に言ったんだ。『運命を憎むな』って。でも俺はその運命を憎んだ。もしも神がいるなら、そいつに殺意すら覚えた。この世の何もかもが、憎くてしょうがなかった。俺は……一人になったんだ」
我慢していた涙が、今にも溢れ出しそうだった。なんでこいつにこんな話をする気になったのか、まだよくわからない。ちょっとセンチメンタルになっていたのかもしれない。同級生と泊まることなんて、修学旅行の時くらいしかなかったから。
と、その時。颯夏がベッドの上から、顔をこちらに覗かせてきた。その目はまるで何の感情も宿していないように、透き通って見えた。
「大丈夫、師匠には俺がいるよ。一人じゃないよ」
まさか颯夏が、そんな言葉をかけてくるとは思っていなかった。俺は驚きを禁じ得ず、彼の顔をただ黙って見ていた。
ただ、それで少し気持ちが落ち着いた気がした。呼吸を整え、颯夏に問い返す。
「お前は? なんで今日、泊まりたいって言ったのか教えてくれないか?」
夕方からきこうと思っていたことだ。だが、颯夏はすぐには教えてくれないだろうと今まできけずにいた。
「ちょっとね……」
颯夏は意外にも、すぐ教えてくれた。
聞くところによると、颯夏の母と姉が喧嘩中らしい。夜中にもかかわらず大声で言い合いをするものだから、逃げてきたのだという。
「けど、お前は大事にされてるんだろ? お母さんに。夜に一緒にお話するくらいだもんな」
「でもね、ちょっと息苦しいんだよ」
「どうして?」
「お母さんが見ているのは、俺じゃないから」
「どうゆうこと?」
「俺、家にいるときはいつも『僕』なんだ」
俺は読解力には自信がある方だが、これは大抵のやつは理解に苦しむのではないだろうか。俺も、彼の言うことがイマイチよくわからなかった。
「家族の前では、俺はいつも『僕』として振る舞ってる。怖いんだよ、本当の自分を見せるのが。もしも本当の俺を知ってしまったら、お母さんはきっと悲しむ。『俺』はクソみたいな人間で、クソみたいなことしか言わないし、人を見下すことで自分を保ってる、底辺の人間なんだよ。
師匠は知ってると思うけど、そうなんだ。でもお母さんの中では、俺はずっと『僕』のままで、素直で良い子のままなんだ。何年も前から、お母さんと『僕』の時間は止まっているのに。まだ信じ切ってる。俺は、お母さんの『僕』を壊してしまうのが、すごく怖いんだ。
だから、できるだけお母さんの中の、『理想の息子』を演じてる。でもそれが、最近になって息苦しくなってきて、家にいるのが辛い時があるんだよ。
だけど、不思議なことに、師匠や他のみんなと話す時は、俺は『俺』でいられる気がするんだ。伸び伸びと、言いたいことが言える。『僕』じゃなくて、『俺』として生きていられる」
俺は、颯夏の事情はよく知らない。しかし、生みの親の前で本当の自分を隠すことがどれほど辛いことなのか、経験がなくてもわかる。
「教えてくれないか」
「え?」
「お前が、『僕』じゃなくて、『俺』になった理由。そういうのがあるんじゃないのか?」
布団を引き上げる音が上の方から聞こえた。次いで、颯夏の少しくぐもった声が聞こえる。
「理由は、ある。でも、今は言えない。まだ、そこまで師匠のこと、信用してない」
「お前なあ……」
俺は起き上がりざま、颯夏の寝ている方に視線をやった。やつは布団を頭までかぶり、じっとしている。それでもいいと俺は、思ったことを言葉にして並べ立てた。
「俺がお前のためにどれだけの時間を割いてきたか、考えたことあるか。用もないのにいつもいつも人の家に押しかけて、どうでもいいことばっかり言って。小説を書くなら好きにしたらいいよ。でも、ろくに書きもせずに怠けて、そんなんじゃ作家になんかなれるわけないだろ。俺は、お前を作家にしたい。だから、頑張ってくれよ」
颯夏からは、返事がない。それどころか、布団の中から「すーすー」という寝息のような音まで聞こえる。俺はやつから掛け布団を剥ぎ取ると、颯夏は気持ちよさそうに眠っていた。
また深くため息をつく。もちろん、俺が。
カーテンの隙間から、夜空に満月が輝いているのが見える。俺は立ち上がり、勉強机の方に歩いていくと、スタンドの灯りをつけた。それに照らされたのは、机上に置かれた束になった数十枚の原稿だった。それは、颯夏が書き上げた新作小説の一部だ。
俺は原稿の表面をそっと撫でると、再び電気を消し、布団に戻った。
翌朝、朝陽の光がカーテンを透かして部屋の中に舞い込み、俺は目を覚ました。まだ眠い目をこすりながら、枕元においた時計を見ると、すでに八時近くを指している。
「ヤッベ、寝過ごした!」
俺は慌ててベッドの方を向いたが、そこに颯夏の姿はなく、きれいに畳まれた布団が置いてあるだけだった。
何がなんだかわからず、俺はぐるっと部屋を見回すと、卓袱台に一枚のメモが置いてあるのに気がついた。そこにはこう書かれていた。
『師匠があまりにも気持ちよさそうに寝てて、起こしたら悪いので、先に行くことにします。遅刻しないでね!』
「起こせや!!」
知らず、そんな怒声を俺は発していた。変なところで空気を読むやつだ。
それにしても、昨晩のことがまだ脳に焼きついていた。颯夏は何故、あんなことを言ったのだろうか?
まあ、いいか。
と、俺はあまり深く考えないことにした。単純に、今は考えている時間がない。遅刻しそうなのだ。
急いで支度を済ませ、学校へ向かった。
そのうち、わかる日が来るだろう。そういうことにしておこう。
【用語解説】
・割れた桃の中には、頭から血を流した男の子がいました:第4講参照。
・何やっとんじゃ、ワレー:河内弁(大阪の真ん中らへんで使われる言葉)。




