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第25講 ファイアーウォール(その1)

 朝日がカーテンの隙間から部屋に差し込み、布団や床の上に一筋の光の線を作る。アラーム(アヒルの鳴き声に設定されている)を止め、俺は布団から這い出る。

 最近、やけに朝の気温が下がったような気がする。十月も後半に差しかかり、そろそろ中間考査という時期だ。


 着替えて階段を降り、リビングルームに入る。母親は珍しく朝早くに出勤して、もう家にはいないようだった。俺は和室に行き、兄の仏壇に手を合わせて挨拶を済ませると、リビングに戻って朝食をとることにした。


 用意をしていると、ふとテーブルにあるものが目につく。それは兄貴が生前、使っていた赤本だった。なんでこんなところに置いてあるのか、誰が置いたのか、わからなかった。まあ、俺じゃないとすると母親しかいないけど、何のために出したのか全く理解できない。

 俺はまだ一年だし、受験という年でもない。それでも少し気になり、俺はその赤本に近づいた。大学名の下に(医学部)と書かれている。俺には一生縁がないだろうと思いつつ、パラパラとメージをめくる。やはり、見るからに頭痛が起こりそうな難問が続いている。読んでいるだけで頭がどうかしそうだったので、俺は本を閉じた。


 兄貴は医学部を目指していた。その夢は忌むべき運命によって閉ざされたが、兄貴が教えてくれた本の中に、こんなことが書かれてあった。


『この世界のあらゆる不幸はすべて不可抗力であり、誰のせいでもなく、また誰のせいにしてもならない。徹頭徹尾、天の神の気まぐれなのだ』


 兄貴もその一文が好きで、よく口にしていた。そして入院中、兄貴が言っていたことも思い出す。


「自分にどんな将来が用意されていたとしても、それを受け入れなくちゃいけない。決して、運命を憎んではいけない」


 俺には全然理解できなかった。今もできない。いつか理解できる日が来るだろうかと思ったこともあったが、兄貴はその運命とやらによって、もうここにはいないのだから。


 俺は赤本を、二階の自室に持って上がった。



 学校に着くと、前の席の古代がニコニコ笑顔でこちらを振り向いた。颯夏の影響か、気味が悪いくらいの微笑みである。


「これ、東光くんに見てもらいたくて」


 古代はそう言いながら、茶封筒を渡してきた。中にそこそこの量の紙が入っているようで、少し膨れている。


「何だ、これは?」


「前に、『創作委員会』っていうの、やってたじゃない? それの原稿、持ってきたんだけど、読んでもらえないかな?」


「だいぶ前の話じゃねーか。今更いらねーっつーの。っていうか、もうそれは各々のお都合でおじゃんになったんじゃなかったのか?」


「夏休みはまあ……こっちも部活とかで忙しかったからアレだけど、毎日こつこつ書いてたんだよ? 東光くんほどじゃないけどね」


 古代は、心外そうな目でこちらを見てくる。


 仕方なく、俺は彼女の書いた小説が入っている茶封筒を受け取った。


 まあ色々と言ったものの、よく考えれば実に感動的な場面である。俺は、こいつらは単なるネタとして「創作委員会」の話を持ち出したとばかり思っていたし、まさか本当に執筆してるなんて夢にも思わなかった。心の奥で、涙を禁じ得ない。


「そっか。書いてくれてたんだな。てっきり、三日ギャルになってるのかと思ってた」


「失礼ね。ギャルじゃなくってよ。せめて、三日セクシー美少女くらい言ってよ」


「絶対イヤだわ! しかも、だからなんで三日は否定しねーんだよ!」


 こうして、俺の朝は特にいつもと変わった様子もなく始まるのだった。



 そういった話をしてやると、颯夏は爆笑した。あまりにおかしかったのか、目に涙を浮かべさえした。いくらなんでも、笑いすぎである。


「まあ確かに、『創作委員会』として活動らしきことは何一つしてないけどね」


「完全にあの話し合い、無駄になっただろ。笑い事じゃねーっつーの」


 俺は憮然として、颯夏に不満を述べる。


「それで、古代さんの小説は面白かった?」


「……まあまあだったかな。素人が書いたにしては、構成とかもしっかりしてたし」


 颯夏は「へえ」と言いつつ、目の前のパソコンに目を落としてキーボードをカタカタ鳴らし始めた。特に興味はないらしい。


 ちなみにこいつは今、新作の第一章を書いているところだ。今度の十二月後半に締め切りの公募に出すつもりらしい。それが、彼にとっては約半年ぶりの応募となる。


 俺も自分の執筆に専念しようと、自分のパソコンに向き直る。俺が取り組むのは、もちろんこちらも新作である。俺たちは向かい合い、それぞれの執筆をしているというわけだ。


 しかし、気になることもある。

 日常化しすぎて何も疑わなくなってしまったけど、なんで颯夏はここにいるのだろうか?


 本来は俺に小説の書き方や極意を教わるためにこの家に通っていたのに、今では自習みたいになっている。執筆だけなら自分の家でもできると思うのだが、やつにとってはここが最適な環境だったりするんだろうか?


 考えていても仕方がないので、まあいいや、と俺も自分の小説に集中することにした。今度もバトルモノのファンタジーで、俺の最も得意とする分野だ。それゆえに採用したわけだが。

 それでも、バトル描写が思うように書けず、頭を悩ます時もある。どのくらい時間が経ったのかもわからない。そのくらい、俺は集中していた。


 今一度プロットを見直そうと、俺は自分のノートを広げた。左手にペンを持ち、新しく思い浮かんだネタをそれに書き足していく。


 そうしていると、そばに颯夏が寄ってきた。彼は俺の左手を犬のようにクンクンと嗅ぐような仕草をした後、俺の手の甲を一舐めした。俺は軽く悲鳴を上げた。


「うわあああ! 何やってんだあああ!」


「だって、さっきから呼んでんのに、師匠、気づいてくれないもん」


「おお、そうか……いや、だからってなんで舐めんだよ。犬か、お前は」


「どっちかっつーと、猫派かな」


「犬飼ってんのに? ……って、そんなんどうでもいいわ! そういう問題じゃねえ!」


 声を荒げる俺の手元を見て、颯夏が言った。


「師匠、大学行くの?」


 ふと気がついて颯夏の視線を追うと、俺の右手は脇に置いていた兄貴の赤本に触れていた。


「あぁ、これ? 昔、兄貴が使ってたんだ。でも、俺にはカンケーないモンだ」


「師匠は卒業したらさ、大学行くの?」


 予期せぬ質問に、俺はしばらく考え込む。これまでに考えたこともなかったからだ。まだ先のことだと思っていたし、最悪、高校を卒業できれば作家業だけで食っていけないかとわりと本気で悩んでいるくらいだ。


「まあ、大学は入れたらでいいと思ってる。もしもこの先、俺の小説がバカ売れしたら、本業作家として生計立てられないかな……って考えたりとかしてる」


「ふーん。でも、大学は行っといた方がいいよ?」


「何故?」


「高卒の資格しか持ってないんじゃ、ただのド底辺だからね。会社とかの一般求人も、大学名だけを見るところもあるくらいだし」


「それは偏見だ」


「そんなことないよ。言ってたもん」


「誰が?」


「あと、師匠の小説は売れないと思うよ」


「質問を無視するな! しかも、今のは地味に傷ついた!」


 こんなに口の悪い男の娘がこの世にいていいものだろうか。いや、よくない。


「だからね、師匠。たとえ底辺大学だったとしても卒業さえしたら、他とあんまり変わらないんだよ。そうしなきゃ、一生社会階層の最底辺をさまよい続けることになるよ?」


「はいはい、それ以上変なこと言ったら講習料とるよ?」


 颯夏は黙った。もしかして、一銭も払いたくないのか? 俺はこんなに精神削いで面倒みてやってるのに。それに見合う講習料ぐらいもらって然るべきなんじゃないの?


「金はあるけど、師匠には払いたくないな。親が二人とも研究者で、他の一般家庭と比べてお金は持ってるけど、払わないよ」


「なんでだ! 俺、師匠だぞ? お前に断る権利がどこにある!」


 言いながら、ちょっと驚いた。こいつの両親、研究者なのかよ。初耳だわ。


 颯夏は淡々たる口調でこう答えた。


「強いて言うなら、俺だからだよ」


 は? 意味がわからず、俺は固まった。そして、やつはこのように続ける。


「俺くらい、器量が大きい人間は、生まれながらに物事を進行する権利を有しているからね。無論、大学なんて行かずとも、ずっと地に這いつくばって生きてる人間を見下ろす高みにいられるんだよ」


 マジで、どういう育てられ方したらこんなことが言えんの? しかも、器量小さすぎだろ。鏡見ろ。


「いやさ……考え方は人それぞれだと思うけどさ、それを他人の前で言うってどうなの?」


 どうせいつもの戯れだろうが、教育者として控えめにツッコんでやると、颯夏は不思議そうな顔をした。


「師匠、こんなにも長い時間を一緒に過ごして、まだわからないかなあ。俺は弱い立場の人を見て、ユーエツ感に浸るのが趣味なんだ」


 もはや何も言う気になれない。親が聞いたら悲しむぞ。


「それに俺は、人間ができてるからね。つまり言いたいことは、自分のものは大切にするくせに、他人のものはぞんざいに扱うようなクズみたいな人間とは違うってことなんだよ」


 こいつ、過去に何があった? さらに、颯夏はこう言葉を継ぐ。


「俺は天空海闊だからね。広い心で他人と向き合えるよ」


「嘘つくな、心が微生物サイズのくせに」


「それは誤解だよ。俺は決して、他人の物を粗末に扱ったりしない。自分の持ち物は摘むように大事に扱うのに他人の物はすぐ壊すような、生きるに値しないような人間ではないよ」


 だからこいつ、何があったんだよ。何をそんなに根に持ってんの? まあ、確かに他人から借りたものでも、平等に扱わないといけないという気持ちはわかるけどさ。


 俺は、長い溜息をついた。幸せがどんどん逃げていく気がした。久々に颯夏の独り話に付き合わされ、内心げんなりしている。もう、今日は終わりにしよう。


 ふと顔を上げて時計を見やると、ちょうどいい時間だった。


「もう五時半だな。そろそろ帰らないか?」


「あっ、そうだ!」


 颯夏は思い立ったように立ち上がり、鞄のところへ行った。そしてその中から様々なものを取り出しながら、


「俺、今日は色々と持ってきたんだ」


 と言い、それらを並べ出した。きれいに折り畳まれた寝間着に、歯磨きセット。


「何、これ……?」


 これから颯夏が言わんとすることを予期しながら、俺はおずおずと尋ねた。


「今日、東光師匠の家に泊まろうと思って」


「なんでだよ!」


「いやあ、ファイアーウォールはどこかに用意しておく必要があると思ってね」


「何だ、そりゃ」


 ファイアーウォール……?

 もしかして、隠れ家的な意味で言ってる?


「あ。キョンチューも連れてきたんだ」


 颯夏はそう言って、鞄から高さ十センチくらいの犬の置物を出して床に置いた。茶色と白の胴体に、ネズミのように大きな耳が頭に垂れ下がっている。


 なるほど、これがキョンチューか。確かにネズミっぽい。長年の疑問がやっと解けたような気がした。それにしても、置物に名前をつけるとか、さすが男の娘ですなあ。


 ……って、そんなことは正直、今はどうでもいい。


「なんで、お前を泊めなきゃいかん。ファイアーウォールかなんだか知らんけど、俺の家をお前の秘密基地にされるいわれはない」


「お願いします!」


 颯夏は土下座した。俺は目を閉じ、考え込む。

 それなら……。


「帰れ!!」


 俺は颯夏の襟をつかみ、強引に部屋の外に連れ出そうとした。荷物もろとも、だ。


「師匠、お願い! 今夜、今夜だけ!」


「断る! お前が出ていかないなら、実力行使あるのみ!」


「いや……! 帰りたくない〜!!」


 颯夏の声は次第に涙声に変わった。異変を感じた俺は、手を離して颯夏の顔を覗き込んだ。彼の目には、涙が潤んでいる。


 え……? 泣くの? いくら男の娘だからって、そこは男なんだから我慢しようよ。


「ちょっと、何の騒ぎ〜?」


 一階から、いつの間にか帰ってきていたらしい母の声が響いてきた。今の騒ぎを聞きつけたようだ。


「何してるの〜?」


 足音とともに、声も段々と大きくなってくる。

 まずい、そう思いながらも、俺はどうすることもできず、今にも泣き出しそうな颯夏の顔を見つめていた。


 やがてドアが開かれ、母親が中に入ってくる。


「か……帰ってたのか」


「今日の企画会議ははやく切り上げてきました。たまにはあんたとご飯一緒に食べようと思って。いつも寂しいんでしょ?」


「いや、寂しくないけど……。あんまり子供扱いするなよ」


 俺がそう言っていると、母は颯夏の方に目線を移した。


「ちょっとっ、才人。あんた、この子に何かしたんじゃないの?」


 母の口調が、俺を叱責する時のそれに変わった。


「いや……別に何もしてないよ? こいつが今夜うちに泊まりたいってごねるから、実力行使に及んだってだけで……」


 母親の目が、キリッと吊り上がった。


「ダメじゃない、お友達を泣かせたら!」


 小学生を叱る母親か! ……なんて、ツッコんでる場合じゃないよな、うん。


 俺はこれまでの経緯を、順を追って、簡潔に説明した。それを聞いて母も納得したらしく、考え込む素振りを見せた。


「そう……。颯夏くん、家に帰りたくないわけを教えてくれる?」


 母は優しい声音で、颯夏に理由を尋ねる。しかし、颯夏は黙っている。母は困った顔で、


「じゃあ、どうしよう……? とりあえず、颯夏くん。お家の電話番号、教えてくれない?」


 颯夏は俺の母に連れられて、一階に降りていった。結局、颯夏はここに泊まるのだろうか。部屋に取り残された俺は、ただぽつんと座って考えていた。

【用語解説】

・三日ギャル:第13講参照。

・~だろうか。いや、よくない。:反語と呼ばれる表現法。しかし、使いすぎはいいものだろうか。いや、よくない。

・ファイアーウォール:内部データを外部攻撃から守ってくれるもの。情報技術用語。

・キョンチュー:第4講、23講参照。

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