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濃紺よりも尚深い空にはいつもと同じ七つの月が輝く。その月に照らされて花々は昼間とは異なる輝きを魅せ、日の中よりも鮮やかに精霊たちは宙を飛び交う。
「それで、教えていただけるんですよね? ここのことについて。」
「私が知る限りのことを話しましょう。」
所々苔むした、大理石に似た白い石で出来たベンチに座り、ナイルはそう頷いた。
ギルドでの報告は、手続きこそそれなりに時間が掛かったもののそれ自体はあっけないものだった。精霊との対話で分かったことのみを伝えると、それで依頼は一応の完了となった。今回新たな情報が入ったことで、今後ギルドと国による再調査が行われるらしく、その結果次第で報酬が決まるそうだ。あの時起きたことについては、誰もが口にせず、故に私が何かを聞かれることもなかった。ただ、精霊を見ることが出来るようになったことへの祝いの言葉をもらった。
この後のことについては、廃園の再調査の他に、新たな情報源と目されるアトルディアへの調査依頼を出すかどうかをギルドの上層部で検討するとの事だ。だが、最高位の精霊の一人であるアトルディアの下へ調査に行くというのはある意味無謀なことであり、その依頼をギルドとして出すことになるかどうかは微妙なようだ。場合によっては、国が調査を行うか、国による依頼という形になるだろう、とのことだった。どちらにせよ、彼の精霊がいる森への立ち入りは学生のギルド員には禁止されている為、私たちには関係のないことと言えた。まあ、私自身はこの件は関係なく、いずれ私の名の由来となったその精霊の元へと行かねばならないのだが、それも先の話だ。
ギルドでの報告が終わり、もう自力で動くのも億劫になっていた私は、抵抗することなくフィズさんの腕に抱かれたまま皆と少しばかり遅すぎる昼食を食べに行った。既にちらほらと出店が始まっていた夜の屋台街は、昼の屋台街とは異なる趣で、結構楽しかった。雰囲気的には居酒屋を屋台に買えて、夜鳴き蕎麦やらおでんなどといった飲み屋街に近いものがあった。それでも、まだ時間も早いこともあって、酔っ払っている大人の姿もなく、子供の集団がいても(一部大人が混ざっているが)さほど浮いた感じはなかった。こうやって、日本にいた頃に近い食べ物が、そのものの名前であったりするのは、過去のマレビトたちのお陰なのだと思うけれど、そう考えると、日本人てこの世界の食文化にかなり貢献している気がする。まあ、そのお陰で非常に助かっているので何も言うことはないのだけれど。流石は、「世界中の一流の食事を食べたければ東京へ行けばいい」と言われた国の出身なだけはある。もっとも、日本人に限らず他の国の人も過去に来ていたことはあるとは思うが、少なくとも、私が学んだこの国の歴史の中では日本人と思われる人が多く載っていたのは確かだ。
そんな感じにそれなりに楽しい食事の時間を過ごしたわけだが、廃園での疲労感は私が思っていたより大きかったようで、お腹いっぱいになった後の記憶はなく、気付けば自分の部屋で寝ていたのだった。……やっぱり、帰りも抱っこされていたのだろうな、と思うとかなり悲しいものがあるが、まあ考えなければ良いだけの事だ。目が覚めたのは夕飯の時間も過ぎた頃で、お陰でというべきかエメラさんの怒りを買うことはなかった……明日の朝が怖いけど。それから風呂に入って寝直したまでは良かったのだが、夕方に寝てしまったためだろう、深夜に目が覚めた。羊を数えたり、ベッドの中でごろごろと転げまわったりと、どうにも寝付けずにいたところにやって来たのはナイルだった。
ナイルに連れ出されて、今私は昼間来ていたあの廃園にいる。夜は不気味かもしれない、と思っていたのだけれど、予想に反して月明かりと精霊のお陰でそんなことは全くなかった。神殿で目覚めたときいなくなっていた蛇もどきは、深夜目覚めるとまるでそこが定位置であるかのように枕元にいて、今もすぐ隣を浮遊している。そういえば、誰も蛇もどきについて言及しなかったけれど、一体何者なのだろうかと言う思いが今更ながらに沸いてきた。そんなことを考えていると、ナイルは廃園のある場所で立ち止まり、私をベンチの上へと下ろすと自分もその隣に座った。
そこは石造りの泉水池の跡で、中央の噴水は枯れていたが、昼間の名残だろうか、長年放置されていた場所とは思えない澄んだ水が僅かばかり溜まっていた。蛇もどきがスルスルと近付いてきて、日中のように私の首に纏わり付いたが、とりあえず気にしないことにした。身長差で見下ろしてくるナイルを見上げ、その視線に真っ向から向き合った。
「それで、教えていただけるんですよね? ここのことについて。」
「私が知る限りのことを話しましょう。」
所々苔むした、大理石に似た白い石で出来たベンチに座り、ナイルはそう頷いた。
「さて、何から話しましょうか。」
今はもう枯れた池を見つめながら、その瞳はずっと遠くを見据えるように、彼は話し始めた。
「全てを話すには、今夜だけでは時間が足りません。まずは、あなたが一番知りたいだろうことからにしましょうか。
ここが、あなたのために作られた仮初の聖域だと言いました。あなたのため“だけ”ではないのですが、それが最も重要な要因の一つです。あなたは今日、ここで“何か”を見ましたね?」
その言葉に一瞬どきりとしたが、それは私に返答を求めるものではなかった。寧ろ、彼はそれを確信していたようだった。
「私は、“それ”が何であったのかを問うつもりはありません。ただ、私は“それ”を知っています。私は継承者ではありませんから実際に見たわけではありませんが、どのようなものを受け取るか、ということに付いては知っていたとだけ言っておきましょう。」
その告白は、驚きだった。この世界の人々の、“竜”に対する忌避感、拒否反応を目の当たりにしているだけに、尚のこと。ただ神殿で歴史を学んでいたときには、文字情報としてそんなものか、と思っただけだったけれど、学校に通って、その中で受けた歴史の授業の中で、学生達の生の反応を見たとき、否が応でも理解した、させられた。子供でさえも、狂気にも似た竜への忌避感を抱くのだ、この世界では。
「ここは、あなたがその記憶を受け継ぐことを目的の一つとして作り出された聖域の一つです。」
なのに、私がその“竜”の一族の一匹であったことを知っていたというのだ、この人は。何の恐れも抱かずに!
「生み出したのは、アトルディア。あなたを、この世界に再生させた精霊です――。」
「――知って、いたんですか?」
私が、“何”であるかを……。知らず、声がこぼれた。
彼は、私の問いには答えずに、暫しの沈黙の後こんなことを言った。
「――少し、昔話をしましょうか。」
そういって彼が話し始めたのは、幼い日の彼の話だった。それは、まだ彼が少年であった頃のこと。
孤児として神殿が出資する孤児院で育てられ、将来は神官となることが決まっていたも同然だったが、それに逆らいたくて十二歳になると同時にギルドに所属したこと。ギルドで名を上げることを夢見て、神学校に通いながら空いた時間にはギルドで働いていた。タクスさんとはその頃からの長い付き合いで、実は頭が上がらないらしいとか。
あまり時間はないからと、それほど詳しく話してくれたわけではなかったけれど、初めて知るナイルの過去を、彼が語るその言葉を、私は真剣に聞いた。
彼の話を聞きながら、彼のことを何も知らないのだ、と認識を新たにしたあの日から、私は彼を知るために何もしていなかったことを思い出していた。一番身近であるはずのこの人を、私はずっと、知らないままだ。
孤児院と学校とギルドとを往復する生活を続けていた彼は、ある時、異国のマレビトに出会う。この時、マレビトと共にやってきたうちの一人がクレオさんだったのだという。無茶をして、危うく大怪我どころか死に掛けた彼を助けてくれたのが、そのマレビトの一行だった。彼は、彼女に懐き、暫くこの街に逗留した彼女にいつもくっついて歩いていたそうだ。彼女は、そんな彼に困ったようなそぶりも見せず、好きにさせていたらしい。
この時、何があってそんなことになったのかナイルは説明してはくれなかったけれど、彼女達と共に彼はアトルディアの元を訪ねたのだという。
「ファーは、以前からあなたを知っていたそうです。」
「私のことを?」
彼女は私と同郷だったと聞く。まさか、地球にいた頃の知り合いだったとでも言うのだろうか? しかし、当然のことながらファーと言う名前に聞き覚えはない。もっとも、これは字だろうが。本名でなければ、私には確認のすべが無い。しかし、その疑問はすぐに氷解した。
「彼女がこの世界に来たばかりの頃に、一度あなたを見たことがあったそうです。」
……。
ちょっと待て。
確か、そのマレビトがこの街へ来た、と言うのは二十年以上前のことではなかったか。つまりそれは、彼女がこの地に前回来たのが二十数年前として、その時点で既に私はこの国にいて、更にそれ以前からここにいたということなのか?
「待ってください、じゃあ、私はもう何年……いえ、何十年も前から、この世界にいたと言うことですか?」
「そうです。」
アカシェの話では、私の体は長い時間をかけて再構成されたのだと聞いた。長い時間、といってもあくまで数年単位の話だと思っていたのに。一体、いつから……。
「ファーが、初めてあなたを見たのは百年ほど前のことだったと聞いています。その頃のあなたは赤子同然だったとか。二十数年前に、私が始めてあなたに出会ったときは、今より少しばかり幼い感じでしたね。」
百年。
恐らく更に前から私はこの世界にいたのだろう。百年か! 思わず笑いがこぼれる。激情に視界が滲む。可笑しいわけじゃない、ただ、こぼれた声はそんな形になった。
「ふ…はは、は……百年、ですか。私の認識では、地球での記憶は、たった。たった、七ヶ月前のことです。
いや、この世界の一月は地球より短いですから、半年経つか経たないか、ってくらいです。
それが――百年。」
しかも、この世界の1年は二十四ヶ月なのだ。一ヶ月が短いとは言っても、一年は倍近くある。
その世界で、百年。
あまりに、長い。
あまりに、遠い――。
期せずして知らされた年月は、あまりに重い。知らずにいたか、いないかだけの違いで、知ったからと言って何かが変わるわけではない。何も、変わりはしない。それは分かっている。それでも、その事実は、私にとっては重いものだった。
それは、最早地球に帰ることは出来ない、と知ったとき以上の衝撃を私に齎し、ナイルが「私が“竜”でもあると知っていたこと」を知った驚愕も軽く打ち払うほどのものだった。
私が混乱を鎮めている間、ナイルは、何も言わなかった。
すり、と頬に撫でる感触に、ハッとした。蛇もどきが、心配そうな顔をして黒のような深い藍のような、まるで夜みたいな不思議な色合いの目で私を見つめていた。
「落ち着かれましたか。」
静かに落ちてくるナイルの声。
「……すみません、取り乱しました。」
思いもかけないところで、思いもかけないことを知り、混乱した。帰れない、と言うことを納得……は出来ないにしろ、受け入れた。それでも、それは向こうの世界ではまだ家族が生きている、と思えばこそだった。けっして、仲の良い家族だったと言うわけではない。いつまでも馴染めない私に、実の親でさえも手を投げざるを得なかった。それでも、いつかきっと何か変わる筈だと思っていた。それは結局叶うことなく、叶わなくても仕方のなかったことなのだと、この世界に来て教えられた。そう言われても尚、彼らが私の親であり、兄弟であったことに違いなく、私は、彼らと共にあれるようになりたいと心のどこかではいつも思っていたのだ。
でも、それはもう絶対に叶わない。私はあの世界へ戻ることは出来ず、戻れたところで、もう彼らはいない。家族だけでなく、数少ない友人達も。
一日が二十四時間であるかどうかは私には確かめるすべもないが、一ヶ月二十四日、一年二十四ヶ月、一年が六百日弱のこの世界で、単純計算しても私があの世界方こちらに来て、地球で言うところの百五十年近くが経過している。いくら日本人の寿命が延びたとはいえ、もう、誰も生きてはいない。それは、私にとっては、自分でも自覚していなかったくらい大きな衝撃だった。
ここは異世界で、そもそも数百年前どころか二千年以上前に私と同年代の日本人がこの世界に来ているということからして、全く時間の流れは異なっている、というかまるで関係がないのだということは分かっている。きっと、神々からすれば、今この世界に地球の戦国時代の人間を連れてくることも、はるか未来の人間を連れてくることも、さして変わりないことなのだろう。こちらで何年が経とうとも、それは地球には何の関係もないのだ。
そうと頭では分かっていても、主観的な時間感覚はそれとは異なる。私にとっては、やはり今の私はあの時の、初出勤しようとした朝からの延長線上にいるのだ。私が過ごした時が、私の家族に何の影響も与えていないとしても、私の認識は一瞬で変わってしまった。強い、強い喪失の感情だ。私にとって家族は、ついさっきまでは会うことは出来ないけれど、遠くで元気に生きている、例えるなら外国にいるかのように感じられていたものが、まるで今では浦島太郎の気分だ。私の家族は、もういない。
そう、感じてしまった。きっと、これは数百年を当たり前に生きるこの世界のヒトには分からない感覚かもしれない。そう思ったけれど、気付けば、ぽつりぽつりと思ったままに声に出していた。
「……すみません、取り乱す、つもりはなかったんです。」
ただ、分かっていたつもりだった、もう帰れないのだということを、今まで以上に強く実感してしまったのだ。言葉と共に涙が一滴、また一滴と頬を伝って落ちた。ナイルは、まるで小さい子にするように私を膝に抱き上げ、背中を優しくとん、とん、と叩き続けてくれた。私が落ち着くまで、ずっと。
私が落ち着くと、ナイルはアトルディアと初めて会ったときの話を再開した。彼女は、まだ幼い私を抱きながら、彼らに私が“何”であって、“何”になるかを話したのだという。既に彼女からその話を聞かされていたファーは、自分と同郷である私のことをまだ少年だったナイルに託したのだと。
「“私に借りがあると思うなら、この子に返してやって欲しい。力になってあげたいけれど、その時私はここにいないだろうから”と。」
「なんで、ファーさんは私を気にかけてくださったんでしょうか……?」
私たちには、何の繋がりもない。ただ、同郷であるというだけの人間だというのに。
「それが答えです。彼女はこうも言っていました。袖振り合うも他生の縁、情けは人の為ならず。同じ世界の同じ時代から、同じように同時期にこの世界に来たってだけで、十分すぎるほど縁深い、助けるのは当然だと。自分も、かつての同郷のマレビトのお陰で随分と助けられたから、今度は自分が返す番なのだ、と言っていましたよ。」
「ファーさんは、誰かに助けてもらったんですか?」
それは、その時他の日本人もいたのか、という意味で聞いたのだが、
「あなたも、助けられているでしょう? あなたが好意的に受け入れられているその大部分は、アウトラーシェンの初代国王にあるんですよ。」
その答えを聞いて、理解した。そうだ、彼を初めとして、歴代の日本人達がこの世界で多くの人に貢献してきたからこそ私は受け入れられているのだと、初めてギルドに行ったときも実感したというのに、今の今まですっかり忘れていたのかもしれない。
もしも、初めての日本人が、始源の魔法使いと讃えられるような人ではなく、犯罪者だったとしたらどうだっただろう? 私たちは、最初から好意的に受け入れられるなんてことはなかった筈だ。気付かないところで、知らないうちに先人達に私は助けられていたのだ。
だから、ファーさんも数十年前に一度会った(見た?)だけの私を助けようとしてくれた。いつか来る次の日本人の為にも人助けをしたり、色々していたんだろう。お陰で、私はこんなにも親身になってくれる、守護者が出来たわけで、彼女がいなければ彼の言うとおり、彼は幼くして死んでいたか、大怪我をしていたか、それでなくても神官にはなっていなかったかもしれない。
もしかしたら、私が何であるかを知らない人が、守護者となっていたかもしれないのだ。アカシェが、ナイルだけは信じろと、そう言っていたのはこういう意味も含めてだったのかもしれない。まあ、ナイルの場合は守護者というよりかは文字通り保護者のような感じだけれど。月並みではあるけれど、見ず知らずの沢山の人たちに支えられて今があるのだと、漸く本当の意味で受け入れられるような気がした。
「私はファーに助けられ、彼女から今度は私があなたを助けるようにと、託されました。精霊アトルディアからも。そうして、いつかあなたが目覚めるとき、その助けとなれるよう神官の道を志しました。」
その時に、ここがいずれ私が“竜”としての記憶と、想いを受け取ることになる場所の一つだと聞かされたのだと。体を作り直すだけでも、私の負担になるから、いつか私がそのことを受け入れられるようになった時、ここを教えるように、と。そういえば、ギルドでここの依頼を受けたということを、ナイルには告げていなかった。通称「変人の巣窟」の面々のことは話したけれど、それだけで話すことがいっぱいだったというのもあるけれど、精霊が見えないで四苦八苦している、ということを何となくナイルには言いたくなかったのだ。
もし、ここに来ることを知っていれば、彼は止めていたのだろうか。気になって尋ねれば、その答えは否定だった。
「知っていても、きっと止めはしなかったでしょうね。今のあなたは十分、それを受け入れられると思いましたから。そのこと自体は、別に何の問題もなかったのでしょう?」
言われて、確かにその通りだったな、と思った。私が混乱したのは、ナイルの話から新たに分かった事実にであって、けっして、竜の記憶を受け取ったからではない。
その精霊が、とナイルが蛇もどきを指す。
「あの記憶を預かっていた精霊です。どうやら、他の者達からは姿を隠していたようですが。」
誰も気にしなかったのはそういうことか、と納得した一方でこんなに確かな実体があるのに、と不思議な感覚も覚える。
「実体があっても、その本質は他の精霊と変わりません。常にどちらのようにも在れるのが、精霊という存在の特徴の一つです。」
そんなものか、と温かな毛の間に顔をうずめた。物理的な温かさだけでなく、どこか満たされていくようなその感覚は、あの時見せられた記憶と同じもの。そして、あの時私をこの廃園に呼び寄せたものの気配と同じ。
「ずっと、ここで私を待っていたんだ……」
訊くわけでもなく呟く。同意するように柔らかな毛が頬に擦り寄った。温かな感触に、三度涙がこぼれた。




