10 推しのアイドル
年明けから、医学部受験コースの塾を辞めて、本格的に文系の科目の補強を始めた。
親父に代わりの塾の費用を出してくれと言うのは逆立ちしても嫌だったので、否応なく、放課後の勉強会に本腰を入れることにした。太田と国本が抜かりなくスカウトしていたメンバーの中には、古文や日本史が得意な人間もいて、かなり助かった。
サボりたくて文転したとか、勉強に限界を感じて目標を下げたかっただなんて、親父に思われるのは癪だ。絶対に成績を下げるわけにはいかない。むしろ、理系科目を下げないままで文系科目をしっかり上げなければ、見返すことなんてできない。
集中して取り組むうちに、次第に太田の言っていたことが実感としてわかってきた。自分のペースで自分の一番足りないポイントに絞って補強を繰り返せば、塾で漫然と万人向けの講義を聞いているより、確実にステップアップできる。一番の問題は、自分に今具体的に何が足りていないかを見極めることだった。
そんな勉強の合間に、ふらっと美術室に立ち寄るのが、日課になっていた。購買の自販機で、敢えて紙コップのコーヒーを買う。熱いコーヒーが猫舌でも飲める温度になって、飲み終わるまでの十分か十五分。
新二年生は部長になった伊藤、副部長の浅野を中心に、一年生の勧誘に使う部のイラスト冊子を作ったり、油絵の構想を練ったりと忙しそうだった。上級生になるからといって諸富は何か変わるわけでもなく、息を吸って吐くように本を読み、ふと気がつくと不思議なタッチのイラストを描き上げていて、伊藤や浅野に頼まれたこまごました作業を淡々とこなしていた。
そんな様子を眺めて、時々茶々をいれては、一年近く経ってようやく、からかわれるのに反撃することに慣れてきたらしい諸富の、本人は頑張っているつもりらしいけれど子猫のパンチのような応戦ににやにやするのが、オレのささやかな息抜きの時間だった。
あの秋の朝に気づいた気持ちがなくなったわけではない。むしろ、彼女はどんどんオレの中で大きな位置を占めるようになっていた。ただ、勉強の合間に時間を作って、何冊もの本を読んでは、その本について語る記憶の中の彼女の言葉をなぞっているうちに、オレの中の諸富のイメージはどんどん複雑になっていって、あの生々しい夢の中の彼女は、オレが見ている彼女のほんの一部分でしかなかったのだと思えるようになっていた。
今まで通りが、多分、一番居心地がいい。本気で嫌われない程度にちょっかいを出して、困っていそうなところはさりげなく声をかけて、少々意地悪な公式お兄ちゃんを演じていれば、お互いに気まずくなりすぎることもないだろう。
自分がこれまで目を背けてきた進路問題に真っ正面から取り組まなければいけない状態になって、そちらにエネルギーをとられたことも、あの気持ちにとらわれなくなった要因としては大きい。
オレの中にあったのは、とにかく今のままではダメだ、という切迫感で、美術室で息継ぎをしたあとはまた水に潜ってがむしゃらに泳ぐみたいに、自分のたどり着くべき岸辺を目指す以外になかったのだ。
◇
二年の学年末、三年一学期の中間、期末。
無我夢中で駆け抜けた。
夏休み前の進路指導面談で、「二年生の半分を過ぎてから文系に行くなんて言い出して」と心配顔だった母に、一年から持ち上がりで担任の黒川先生は、「現時点で十分、最初から文系だった生徒達に追いついています」と太鼓判を押してくれた。
「小木曽は本当にこの半年、頑張りましたよ。人が変わったようだった。このままのペースで勉強を続けられれば、どこの大学を受けるにしても十分勝負できると思います」
めったに誉めない黒川先生の言葉に、オレもほんの少しだけ、肩の荷が軽くなった気がした。
方向性もやり方も間違っていない。自分で少しずつ感じ始めていた手ごたえは幻覚ではなかったと確信できたからだ。
◇
夏休みを目前にしてようやく梅雨が明けて、一斉にセミが鳴き始めた。
また、夏が来ていた。
強い日差しが、アスファルトにケヤキの影をまだらに描く。
三年生は美術部を引退して、一、二年生が、テレピン油の匂いにうずもれるように、油絵を描き始める時期である。
補講のため登校した夏休み初日。校内のあちこちに濃く薄く漂う、テレピン油に特有のつんとした香りに顔をしかめた。ふと、このまま美術室に行かなくなれば、オレと諸富の細い縁は切れてしまうな、と思った。
諸富はきっと、ああやって地上一センチに浮かんでいるようにふわふわと高校生活を送り、変わらず息を吸って吐くように活字を摂取しながら、大学生になって、就職して、オレとはかかわりのない人生を進んでいくだろう。
そう思うと、急に、どうしようもなく、焼けつくような痛みがのどにこみあげた。
それでいいのだ。
オレは受験に集中すべき時期だし、諸富にとっては、オレの妙な執着なんか、きっと何の価値もない。
彼女には彼女の世界があって、人生がある。オレにとって諸富がどんなに大切で、人生を変えてくれたような存在か、ということは、諸富自身には、何のかかわりもないことなのだ。
そう思って、補講に集中しようとした。補講の後も、放課後組と一緒に残って勉強を続けた。
それでも、焼けつくような痛みを飲み下した後に残った、喉の奥にささった小骨のような痛みはどうしてもとれなかった。
補講三日目の夕方、重たい通学バッグを肩に食い込ませつつ、駅に向かっていると、後ろから声を掛けられた。
「先輩、今帰りですか?」
女の子の声に、慌てて振り返った。振り返りつつ、彼女の声ではなかったことに落胆している自分に苛立った。
「浅野」
「三年生ともなると、大変なんですね」
浅野はごく当たり前のように、オレの隣に並んで、駅に向かって歩き始めた。
「まあ、今、楽してたら後が怖いからね」
「引退、寂しいです。時々は、美術室に顔を出してくださいね」
世間話のように言う。
「いつまでも三年が来たら邪魔だろ」
「とんでもない。先輩、本気で言ってます? 薫ちゃんは絶対寂しがります。顔には出ない子ですけど」
「諸富が?」
「去年の文化祭のとき、先輩、特進の展示委員になったじゃないですか」
「ああ」
「あのころ、先輩、忙しかったせいか、ちょっと様子がいつもと違って、急に来なくなった感じになりましたよね。薫ちゃん、ずっと気にしてたんですよ。何か自分が先輩の気に障るようなことをしたのかも、って思ったみたいで。差し入れのチョコレートドーナツも、買うのにすごく迷って、勇気が必要だったんです。あの子、猫みたいですよね。なついている感じは見せないんですけど、いなくなると気にするんです」
浅野はくすくす笑った。
「公式お兄ちゃんも引退だろ」
「あたし、この一年ちょっとで考えを変えました。伊藤もですけど。先輩、薫ちゃんのこと、妹じゃなく好きでしょう?」
「は?」
「小木曽先輩だったらいいねって、伊藤と言ってたんです。薫ちゃんのこと。他の人じゃだめだけど、先輩ならいいねって。おせっかいでしょう、あたしたち。本当に余計なお世話ですけど」
「……本当に、おせっかいだ」
オレは憮然として呟いたが、浅野は全くひるまず、肩をすくめてまた少し笑った。
「そういう性分なんです。受験で忙しいってことは知ってます。それでも先輩さえ良ければ、時々、息抜きついでに顔を見せてやってください。あの子はからかわれてむっとするでしょうけど、それだけでいつも少し元気になるんです」
それから浅野は、小さくため息をついて真顔になった。自分のつま先を眺めるようにして、ぽつんと言った。
「あたしが本当におせっかいなのは、薫ちゃんに対してです」
「どういうこと?」
「あの子はあたしと伊藤の、高校生活のアイドルです。推しなんです。あの子は本当に顔に出ないから、すっごくわかりにくい小さな変化ですけど、あの子が嬉しそうだと、あたしと伊藤はなんとなく嬉しくて、テストも部活も大変だけど、また明日も一日、頑張ろうかなって思うんですよ。変ですよね」
「……それは、変じゃないと思う。わかる気がする」
「やっぱり。小木曽先輩はあたしたちの同志なんですよ。それどころか、あたしたちより先に、一番最初に薫ちゃんに関わってたんですから。だから、薫ちゃんを少し元気にして、少し嬉しそうにしてくれるのが先輩なら、もうそれは、しょうがないなって思ってるんです」
いつもきりっと結んでいるポニーテールを揺らして、浅野はぺこりと頭を下げた。
「変なこと言って、ごめんなさい。あたし、バス停向こうなんで、これで失礼します」
顔をあげるや否や、くるっと踵を返して、バスロータリーのほうへ小走りに駆けていく。
オレは半ば呆然としてその背中を見送っていた。















