1.プロローグ
毎朝、満員の通勤電車に揺られて、大学に向かう。朝一番の『ミクロ経済学』の講義は、とくに眠たい。学部長の肩書を持つ白髪の教授が、マイク片手に抑揚のない声で延々と喋っているものだから、つい夢見心地に陥ってしまいそうになるのだが、そんなときに限って、「はい、そこの白のトレーナーの君。この条件では、価格はどう決まる?」なんて不意を打つように訊いてくるものだから、迂闊にも眠ることはできない。
かと言って、この必修科目の講義、わずか十五分の遅刻で欠席扱い。その欠席が五回に達すると期末試験が受けられなくなると言うから、遅れて行く訳にもいかず、連日の夜更かしで気だるい身体に鞭を打って、僕は大学に通っている。
この春に経済学部に入ったのは、高校時代に文系クラスに在籍していたことと、幅広く就職活動ができると思ったから。だから、高校時代はこの難関私立大学に入るためにそれなりに勉強していたし、どんな会社で働きたいかのビジョンも朧気ながら持っていた。
ところが、受験の緊張感から解放された途端に、僕の気持ちは緩んでしまった。学生なんだから、ある程度のことは許されると、自分に都合のいいように解釈して、それまで自制していた夜更かしを始めた。サークルなどの活動には属さず、休みの日になると一人でぶらぶらと街に出て遊び始めた。
だけど、遊ぶにしてもお金がいる。これまでのように、親に小遣いをねだる年齢でもないし、僕は生まれて初めてアルバイトをやってみようと思った。
いざ、思い立ってみたものの、どう探せばよいのかがわからない。テレビのCMでやっている求人サイトを、スマホで検索して見てみたけれど、書かれている勤務条件や時給がどれも似通っていて、どれがいいのかが決めきれない。備考欄に書いてある『要履歴書』ってなんのこと?……そんなレベルだった。
そんな僕が、たまたま入ったのが、大学の学生会館の中にある求人情報コーナー。そこにそんな場所があったのを、入学してから数か月間知らないでいたのだが、入った途端に壁一面に求人情報を書いた紙が貼られているのが目に入ってきて、その数の多さに驚いてしまった。
中でも、一番多かったのが塾の講師や家庭教師のアルバイト。誰かに何かを教えることに多少の憧れはあったが、中学・高校と帰宅部を選択していた僕には、後輩たちに教えた経験はなく、敷居が高そうに思えた。
工場で黙々と軽作業って感じでもないし、パソコンの入力にも自信はない。これも僕には向いていなさそう、あれも難しそう、そんなことを呟きながら見ていたら、求人情報を見終わってしまっていた。
何かをやりたいのに、あれこれ考えて踏み出せずにいる自分がもどかしい。いつしか、僕は意地になっていた。なんとしてでも、今日中にアルバイト先を決めたい。ここに入ったときは、ここが何をする場所かもわかっていなかったのに、何も決められずに出てしまうことが、なんとなく憚られて、僕はもう一度、貼り出された求人情報を、最初から順に見てまわることにした。
『遊園地スタッフ募集。簡単な作業です。一から丁寧に教えます。子供が好きな人、大歓迎』
そう書かれた一枚の紙に目が留まった。「遊園地かぁ……」そう呟きながらも、遊園地と名のつく場所に行ったことなんて、子供の頃以来だっただろうかと振り返る。『夢と魔法の冒険ランド』と名づけられた遊園地。よく祖母に連れて行ってもらった場所だった。子供心ながらに古い遊園地だと思った記憶があるが、今でも営業しているのがなんだか不思議な感じがした。
遊園地の仕事なら、恐らく屋外での作業だろう。狭い部屋の中に閉じ籠っているのがなんとなく嫌だった僕にとっては、案外合っているのかも知れない。『子供が好きな人、大歓迎』という言葉には少し引っかかったが、子供の扱いなんて接しているうちに慣れるだろう。
『善は急げ』とか『思い立ったが吉日』なんて言うじゃないか。僕の足は自然に、求人受付カウンターに向かっていた。
「あら、遊園地? 今どき、こんな場所が残っているのね」
「あっ、はい。ちょっと気になったものですから……」
カウンターの奥で暇そうにしていた中年の女性が、僕の相手をしてくれた。さっそく、求人先に電話を入れて、とんとん拍子に面接の日時が決まった。
「はい、それじゃ、この求人票と履歴書を持って、時間に遅れないように行くこと。あっ、そうそう、ちゃんとした服装で行くのよ。近頃の学生は、その辺のことも言わないといけないんだから……。履歴書の書き方のマニュアルも入れておくから、しっかり自分のことをアピールしないとだめよ」
まるで母のような口調でそう言うと、女性は必要な書類を封筒にまとめてくれた。
「ありがとうございました」
そう返事して、女性から封筒を受け取る。
「遊園地かぁ。どんな仕事だろう……」
ことが一気に進み出したような気がして、僕の心は浮き立った。




