第50話 回復の兆し
そこにいたのは、紛れもなくあの日、安達荘で見た美香の母であった。だが、かけられた布団から見える部分は酷い事になっている。鼻や耳、唇に穴が開けられている。しかも化膿してしまっているらしく、患部がただれてしまっている。
見える部分だけでそれである。布団がかけられている部分がどうなっているか、想像もしたくない。
なんでここまで酷い事がやれるのだろう。
いったい何をしたら、美香の母がこんな目に遭わないといけなかったのだろう。
いったい何の咎がこの人にあったというのだろう。
「あ……う……」
少しだけ美香の母が声を発した。それを聞き美香が母の元へ駆け寄る。
「母さん! 私、美香! わかる? ねえ、母さん!」
必至に呼びかけるのだが、美香の母は何の反応も示さなかった。
「母さん……どうして……どうして私がわからないの?」
わんわん泣き崩れる美香の声に反応し、荒木が抱っこしている裕史まで泣き出してしまった。
その鳴き声に美香の母が少しだけ反応する。
「あ……あ……」
目は開かない。口に付けられた呼吸器によって辛うじて呼吸をしているという状況で、少しだけ声が漏れたという感じであった。
荒木の腕の中では、裕史がわんわん声をあげて泣いている。必至にあやすのだが、どうあっても泣き止んでくれない。恐らくおむつが汚れてしまったのだろう。
その場で台を借りて、裕史のおむつを交換していると、また美香の母は少しだけ声を発した。
するとそこに看護師が部屋に入って来た。荒木たちを見て、「こちらの女性の関係者ですか?」と、病院の職員にたずねた。
「もうこちらに運び込まれて二週間以上が経過するのですけど、声も発しない状態なんです。心臓は動いているし、脳波も弱いながらあるのですけど……あら?」
看護師は計器を見て首を傾げた。手元の資料をパラパラとめくる。少し驚いた顔をし、「ちょっと主治医を呼んできます」と言って、慌てて病室を出て行った。
しばらくし、先ほどの看護師と、主治医と思しき白衣の男性が病室に現れた。なにやら計器の状態を確認し首を傾げる。
「ご家族が来られた事がわかったのかもしれませんね。少し前から急に脳波が強くなっています」
主治医の言葉に、もしかしてと思い、裕史を美香の母に近づけ、手で顔を触ってもらった。
「うう……」
美香の母が声を発したのを見て主治医がかなり驚いた顔をする。看護師も思わず「えっ」と声を発した。
美香も布団に手を入れ、母の手を握って「母さん」と声をかける。すると美香の母の閉じられた瞳から、つうっと雫が垂れた。
だが反応したのはそこまで。そこからはまた彫刻のようになってしまった。
その様子を見た主治医が話があると言って、荒木と美香に病室を出るように促した。
廊下を歩き、少し行った所の面談室のような部屋に入る。そこで主治医は美香の母の状態を説明した。その内容は、およそ聞くに堪えないものであった。
運び込まれた時、瀕死の状態だったらしい。特に酷いのが内臓の損傷。大腸の一部が破れてしまって、壊死してしまっており、緊急手術で何とか一命を取り留めたという状態。
そもそも体力が極度に衰えていて、手術中から何度も心停止を繰り返した。その後も辛うじて生きているだけというような状態が続き、数日前からやっと容体は安定したのだが、全く脳波は上がらなかった。
重度の麻薬障害で脳死に近い状態にされてしまったのだろう。正直、主治医も少し諦め始めていたのだそうだ。
「皆さんが来られた事で脳波の上昇がみられました。もしかしたら、このまま定期的に声をかけ続けたら、徐々に良くなっていくのかもしれません」
主治医は希望はあると言うのだが、美香の顔は絶望感に満ち満ちていた。
病院を後にした荒木と美香は、そのまま苫小牧へ向かい、土井さんの家に向かった。
玄関を開けて三人を見た土井は、まず荒木に抱っこされている裕史に興味を示し、この子が二人の子かと頬をつんつんと突く。裕史が声をあげると土井は「可愛い!」と言って悶絶。
荒木から裕史を渡され抱っこする土井。すると裕史も土井の顔に手を伸ばして大喜び。「可愛い、可愛い」と言って土井が裕史に顔を近づける。
さらにそこに土井の夫が畑から帰って来て、土井から裕史を渡されて抱っこした。
その後、居間に通され、買ってきた手土産を食べながら唐黍のお茶を飲んだ。
土井の夫は手土産のうなぎ菓子がお気に入りらしく、手が止まらないと大喜び。その横で土井は育児鞄に入った裕史に微笑みかけている。
そんな少し落ち着いた雰囲気の中、まずは見付での近況を話し、次いで先ほどの警察病院での出来事の話になった。
美香の母が見つかった。それを聞いた土井夫妻は、顔をパッと明るくし、「良かった、良かった」と美香に声をかけた。だが美香の表情がすぐれない。どうやら他に何かあると感じ、どうかしたのかとたずねた。
「なっ! そんな事……」
荒木から状況を聞いた土井は、両手で口を押え、あまりの驚きに表情が固まってしまった。土井の夫も両拳を固く握り、わなわなと震えている。十年以上の付き合いのある人が、そんな惨い状況で見つかったなど、到底受け入れられる事ではなった。
「今朝、新聞に出てたべや! あの国議会議員の星、裏から手まわしてたんだとよ!政治献金欲しくてな! そったらクソみてぇな奴だって知ってたら、一票なんか絶対入れなかったべさ!」
土井の夫が憤りを机にぶつけた。その音にびっくりし、育児鞄から顔を向けていた裕史が泣き出してしまった。
美香が裕史を抱っこし、「大丈夫だよ」と言ってあやす。徐々に裕史は泣き止み、右手の指を咥え、左手で美香の服をぎゅっと握って目を瞑った。
それを見て荒木は話を切り出した。
「それでですね。厚かましいお願いではあるのですけど、こちらでしばらく美香と裕史の面倒を見てはいただけないでしょうか? 毎日義母のところに通わせたいと思うんです」
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