第32話 結婚しよう
「突然ね、美香ちゃんから電話があったのよ。室蘭にいるんだけど、しばらく泊めてくれないかって」
美香は土井さんに、「荒木君とは別れた」と言ったのだそうだ。これからまた北国に戻って一からやり直そうと思うから、しばらくの間お邪魔させて欲しいと。
土井家に来て数日、美香は食べては吐きを繰り返した。最初はそれを不安から来る精神的なものだと土井は感じていた。だが、もしやと思い簡易検査器で検査をして、美香の妊娠が発覚。
子供の父親が誰かなど、聞かなくてもわかっている。その頃、放送員の久野という女性との交際の話が週刊誌などで報じられており、土井も土井の夫も、可哀そうに美香は捨てられたんだと感じていた。
「美香ちゃんは身寄りがなく、頼れるのはうちしか無かったんだろうから、これからはうちの娘だと思って接してやろう」
土井の夫は土井にそう言った。土井もそれに納得して、朝市に連れて行き出店を手伝わせていた――
ここまでの状況を説明し、土井が険しい目を美香に向る。謀られたと感じ憤っているのだろう。
「あの、俺が悪かったんです。だから美香ちゃんを責めないであげてください」
そこから三人、無言の時が流れた。
その重苦しい空気に耐えられなくなった土井が、ため息をついた。
「で、美香ちゃん。あなたはどうしたいの?」
このまま別れて一人でお腹の子を育てるのか、それとも荒木に付いて行くのか。そう聞いたものの、土井からしたら後者一択だと思っていた。
ところが美香が答えない。
「美香ちゃん、あなたねえ! 荒木君があなたを探してここまで来てくれたのよ! 何か迷うような事があるの?」
土井にそう強く指摘されたのだが、それでも美香は黙っている。苛立つ土井を荒木が右手を開いて落ち着かせた。ふんと鼻から息を吐き、土井が椅子に深く座る。
荒木がじっと美香を観察し、穏やかな口調で声をかけた。
「美香ちゃん、史菜に会ったんだってね。先日、取材させてくれって言って来たからさ、それを断って、問いただしたんだよ。そうしたら、あいつ白状したよ」
美香は恐る恐るという感じで荒木の顔を見て、またすぐに顔を背けた。
「あいつと小学校から同じ学校っていうのは本当だよ。高校の時に少し良い関係になったのも本当だよ。美香ちゃん覚えてるかな。高三の時、恋人はいないけど友達はいるって言ったの。それがあの史菜なんだよ」
荒木の独白に土井が静かに耳を傾けている。美香はじっとうつむいて黙ったまま。
「で、高校卒業してからは全く接点が無くなったんだよ。久々に会ったのは一軍に上がって世界大会の代表に選ばれた時。そこまで一切会ってはいない」
土井がちらりと美香を見る。美香は下腹部に手を置き、うつむいたまま。
「あいつ、美香ちゃんの事を泥棒猫呼ばわりしたんだってね。だから俺あいつにはっきり言ってやったんだよ。美香ちゃんは俺の彼女だって。だから、あんな奴の事なんて気にしないでくれ」
『彼女』と言われた瞬間、美香はぴくりと体を震わせた。
「だって私……私とあの人じゃ……」
やっと絞り出したという感じの美香の言葉に、荒木は小さく吐息を漏らした。
「なんで美香ちゃんが自分とあいつを比べてるんだよ。それをするのは俺だろ? その俺が美香ちゃんが良いって言ってるんだよ! なんでそれじゃあ駄目なんだよ!」
その熱い一言に何故か土井さんが恥ずかしがり、荒木から目を反らして手で顔をぱたぱた仰ぎだした。その隣で美香がポロポロと涙を零し出す。
そこに畑仕事を終えて、土井の夫が帰って来た。
居間にやってきてすぐに、そこに見慣れない人物がいる事に気が付く。それが荒木だという事に気付くと、すぐに美香を連れに来たのだと察して頬を緩める。土井の横に立ち、「どんな話でまとまったんだ?」と小声で妻にたずねた。
「それが」と言って土井は困った顔をする。まだ何もまとまっていない事を聞いた土井の夫は、怒るでもなく、呆れるでもなく、優しく微笑んで美香の肩に手を乗せた。
「俺が言った事、覚えとるかい? 俺たち夫婦が美香ちゃんの親代わりになるって言った事。いつでもこの家さ帰って来たら良いんだ。だから、今は自分の気持ちに素直になりなさい」
その一言に美香は小刻みに体を震わせ、声をあげて泣き出してしまった。それまで下腹部に置いていた手を顔に移し、髪で表情を隠したまま、わんわんと泣き出した。
そんな美香を見て、ここは二人だけにしてあげるところだと思ったのだろう。お昼の支度をしてくると言ってまず土井が部屋を出て行った。 次いで土井の夫も、仕事着を着替えて来ると言って部屋を出て行った。
部屋には大泣きする美香と二人きり。荒木はさきほど土井が座っていた椅子に座り直した。そっと美香の肩に手を置く。
拒絶はされない。
その手を背中越しに腕に移動させ、そっと抱き寄せてみる。これも抵抗はされない。
もう片方の手を美香の前から伸ばし、そっと抱きしめる。すると美香は荒木の背に手を回して、その胸で泣き始めた。
「ごめんね、美香ちゃん。不安だったよね」
美香が無言で頷く。
「一緒に住もうって言った事、まだ覚えてる?」
また美香は無言でうなずく。
「……結婚しよう」
美香は背に回している手に力を込めて、無言でうなづいた。
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