第5話 広岡はお怒り
若松さんのお喋り……
内心で荒木は毒づいていた。
だが目の前にこうして広岡先生を置いてしまうと、何か力士にでも押さえつけられているのかと錯覚せんばかりの威圧感を覚える。普段から尻に敷かれている若松では、とてもではないが隠し通せはしないだろう。
つまり若松に相談した時点でこうなる事は決まっていたのだ。
「あの、その件は、その、仕事上やむを得ずと言いますか、何と言いますか。無下に断るわけにもいかなくてですね――」
「へえ。荒木君ってそんな女癖の悪い人だったんだ。私知らなかった。もっと真面目な人だと思ってたぁ」
荒木の発言を途中で遮るように、広岡は言葉で責めてきた。しかも言葉に鋭い刃物が一杯付いている。
「だから! 俺だって周囲に相談したんじゃないですか。鼻の下伸ばしてほいほい付いて行ったわけじゃないんですよ」
威圧には威圧で返す。これは姉との舌戦で学んできた事である。だが、どうにも荒木の威圧は弱いようで、広岡はたじろぎもしない。
「あの人も言ってたよ。これは仕事なんだって。だったらさ、そんな気持ちで会うのも、それはそれで先様に失礼だとは考えないの?」
今度はド正論。だがこれも姉がよくやってくる手だ。
「だったら、俺はどうすれば良かったって言うんですか? 相手は所属球団の大出資者の娘なんですよ? 誰とも知らんような女に会えるかなんて態度、とれるわけないでしょうが」
正論には正論。そして感情。まさかあの口うるさい姉の弟という立場がこんなところで役に立つなんて。
「ふうん。それは何? じゃあ君は、仕事だったら美香ちゃんの隣で、今日会ったばかりの女性といちゃいちゃできるっていうんだ。へえ」
まさかの『お母さん激昂構文』。できれば広岡の口からは聞きたくなかった……
とりあえず広岡を落ち着けさせようと、麦酒を注ごうとした。
だがコップを手で塞がれ、拒まれてしまった。
「若松さんに相談したんですよ。そうしたら、若松さんも困ってしまって。で、二人で杉浦さんに相談したんです。極秘に会って、良い思い出で終わらせるか、先生に相談するかって話になったんですよ」
視線を荒木に固定し、焼けた肉を口に入れ、無言で顎を動かす広岡。
両手を膝の上に置き、まるで怒られている生徒のような荒木。
「若松さんは先生に相談って言ったんですけどね、杉浦さんは極秘に全て終わらせて、無かった事にしてしまうのが良いんじゃないかって。俺も、若松さんたちも、美香ちゃんと栞ちゃんの事を考えてですね……」
そこで広岡は静かに箸を机に置いた。残った麦酒を飲み干し、ふうと息を吐く。
「私だって教師という社会人やってきたんだから、会社のそういう断れないものがある事くらいわかります。私が怒っているのはね、なんでそれをこそこそと、まるで性風俗にでも行くようにやったのかって事なの」
机を指でツンツンと突きながら言う広岡の目の周りは、酔いで朱に染まっている。
「あの、やってませんよ、俺。相手未成年だし」
愛想笑いを浮かべる荒木の顎を広岡がむんずと掴む。
「茶化すんじゃないの! そういう問題じゃない事くらい、わかってるでしょうが!」
すみませんと謝った荒木だったが、この時点で気が付いた。
たぶん目の前の女性は、学生時代、かなりやんちゃな人だっただろうという事に。
「あの、ちょっと聞きたいんですけど、仮にですよ。あの時俺が相談したら、先生は何て助言してくれたんです?」
広岡はじっと荒木の目を見て、小さく息を吐いた。顔にかかった息から焼肉のたれのニンニクの匂いが鼻腔を襲う。
「そうねえ。まず、仕事で栞ちゃんって娘に会う事になったんだって美香ちゃんに言えって言うかな。その上でちゃんと埋め合わせをしろって言うかな。ようは、本命は美香ちゃんってところをブレさせるなって助言したと思う」
黙って何やら言いたげな顔をする荒木に、広岡は反論があるならはっきり言えと要望。
「それは先生の性格だからじゃないですか? うちらは美香ちゃんは大人しく控えめな性格だから、泣いて俺の前から逃げ出すんじゃないかって言ってたんですよ」
相変わらず顔を強張らせ荒木が反論すると、広岡はその中の一部分が引っかかり、片目だけを大きく見開いた。
「それは何? 私は主張が激しくて荒々しい性格だと言いたいわけ?」
あ、この人もうかなり酔ってる。
急にからんで来た事で荒木はそう感じた。
「ち、違いますよ。とにかく、俺たちは美香ちゃんの事を考えて、よくよく考えた上での判断だったんです。それだけはわかってくださいよ」
真顔で言う荒木に、広岡はぴっと人差し指を付き出した。
「まあ、いいわ。事情はわかった。私も少し勘違いがあったみたいだし。だけどね、この事は絶対に美香ちゃんにはバレますからね。私は絶対に言わないけど。だからバレた時に備えて、ちゃんと美香ちゃんとの仲を深めておきなさいよ」
いったい何の誤解をしていたのやら。
憤りながら荒木はコップに残った麦酒を飲み干した。
そこでふと荒木は変な事に気付いてしまった。
今この家には自分と広岡の二人だけなんだという事に。
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