第3話 二人だけの時間
目の前で一人の女性が荒木を見つめ、無言で頬を朱に染めている。
恐らくはお気に入りのワンピースなのだろう。白群色を基調とした服は、膝丈で袖無し。胸元は少し開いていて、そこに控えめな宝石が首から下げられている。一際目を退くのは、つばの広い桃色のリボンの付いた帽子。背は女性としては平均的。少し痩せ型だが、それなりに胸は膨らんでいる。少し長めの髪を一本に編み込んでいて、外気の暑さに比べ少し涼し気。
女性はその年相応に見える笑顔を荒木に向け続けている。
荒木としても何と声をかけたものか戸惑っている。ただ、恐らくは荒木から声をかけなければ、永遠にこのままであろう。
「えっと、栞さんですよね。あの、荒木です。今日はお会いできて光栄です」
その声に栞は少しだけ瞼を閉じ、ぽうっとした表情をした。
「本物だ……」
思ったよりも声が可愛い。
確か事前に聞いていた話では、昨年高校を卒業したという事であった。まだ十九歳だから変な事はしないように。そう釘を刺されている。
「ここでは何だから、車に行きましょう」
荒木が車を指差すと、栞はとことこと駆けて行き、前から横からと車を眺め始めた。
「暑いから乗ってください」
助手席側に立つ栞に、運転席側の荒木はそう言って促した。
「これが、荒木さんの車……ちょっと良い匂いがするかも」
すると……
くぅ。
助手席から可愛い音が聞こえてきた。
まず耳が真っ赤に染まり、その後顔全体がみるみる赤く染まっていく。
内燃の音で聞こえなかったというふりをして荒木は車を走らせた。
「暑いから喉が渇いたでしょ。まずは何か飲み物でも買いに行きますか」
顔を真っ赤に染めた栞が無言で頭を縦に振る。
車は駅から少し離れ、全国展開している珈琲屋に入った。
受付で荒木は冷えた珈琲を注文、栞は何やら甘そうな果実の牛乳の飲み物を注文。
お互い氷をたっぷりと入れて貰って車に戻った。
ハンカチに結露を吸わせ、両手で抱えて飲み物を飲む姿に、ほっこりした感情が芽生えてくる。沸き立つ感情を一言で言い表せば、年下の従妹を相手にしているよう。
「このまま浜松まで走って花公園に行こうと思うんだけど、栞さんは何か他に希望ってあったりする?」
荒木の声に栞は少しビクリとし、小さく首を横に振った。
そこから花公園までそれなりに距離があったのだが、栞はあまり喋る事はせず、荒木が一方的に話して、それに短く返答するという感じであった。
もしかして、栞さんは家族の要請で無理やり今日ここに来ているのだろうか?
そんな気持ちが徐々に荒木の中に沸いてきてしまう。
花公園に到着し、車を降り、入場券を購入。
入場した瞬間に目の前に巨大な花時計が設置されている。その光景に栞は急にはしゃぎ出し、見てくださいと言って振り返った。
その向日葵のような満面の笑顔に、仮に無理やり来たのだとしても、喜んでもらえればそれで良いと荒木は思うようになった。
「去年代表戦でスンダに行ったんだけど、道端にこんなの一杯咲いてたよ。あの時は何とも思わなかったけど、こうして見ると綺麗だね」
温室の中に咲き乱れる花を指差し、荒木は言った。
栞が荒木をじっと見つめる。温室の温度が高いせいか、頬がほんのり桃色に染まっている。
「代表戦の荒木さんって本当に勇ましくて、出てきたら点を取ってくれそうっていう期待感がありますよね」
顎の下で手を合わせて言う栞に、荒木はそうじゃないと言って高い天井を見上げた。
「俺の事を理解して活かしてくれる仲間がいるから、俺は点が取れるんだよ。俺はただ単にそれに応えようと必死になっているだけ。報道は点を取る派手な選手という事で俺が凄いみたいな書き方するけど、そうじゃないんだよ」
栞の表情を確認すると、唇を軽く噛んで少し俯いてしまっていた。
良かれと思って言った言葉を否定されて、窘められたような気持ちになってしまったのかもしれない。ただ、荒木としても今言った事は事実であり、それを曲げてまでご機嫌を取ろうという気にはなれなかった。
その後、どこかギクシャクしたような感じで、花公園を出て再度車に乗り込んだ。
この時点で荒木はある事に気が付いた。恐らく栞は男性とこうして話す機会がこれまでほとんど無かったのだろうという事に。こういう、面識の薄い男性と二人という経験に乏しく、どう反応して良いかわからないのだろう。ここまでの事は全て初々しい反応だったのだろう。
夕飯の時もよく見れば明らかに緊張した感じでお箸を持つ手が少し震えている。粗相をしたら嫌われてしまう、そんな風に思ってしまって変に緊張してしまっているのだろう。そう考えたら何ともいじらしく思えてきてしまったのだった。
今日の二人の時間として予定していた事は全て終わった。最後は彼女を無事に送り届けるだけ。栞もその事を何となく察しているのだろう。どこか寂し気な顔をしている。
荒木は予定を変更して車を駅とは反対の方向、山の方に向けて走らせた。
急に街灯が無くなり、不安そうな顔をする栞。
車はどんどん山道を上っていく。そして何も無いところで停車した。
荒木が内燃を切って車を降りる。
栞も車を降りた。
道の端に立ち遠くを見下ろす荒木。栞もそれにならう。
「うわ!」と栞が思わず感嘆の声をあげた。
眼下に見付の街の明かりが光の絨毯のように広がっていたのだった。
「これが俺たち見付球団の本拠地、見付の街さ」
栞は二歩前に足を運び、じっとその光景を眺めた。
「綺麗……」
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