第62話 恋路ヶ浜の一夜
「お前、まさかあの貝塚って娘と二股かけてるんじゃねえだろうな? もしそんな事が知れたら、うちのが何て言うか……そうで無いのなら、ちゃんと埋め合わせをしろよ。どこまで行っても俺にはお前だけ、そう思わせるような態度を取っておけよ。でないと……」
若松家が荒れる。
若松は皆までは言わなかったが、荒木には十分察する事ができたし、広岡先生の童顔な般若顔も容易に想像できる。
「……俺って、もしかして女癖が悪いんですかね」
そうボソッと呟く荒木に、隣の席に座る若松は「知るか」と短く答えた。
そこから二人はしばらく無言。見付駅に向かう輸送車の内燃の音だけが響き渡った。
その数日後、見付での多賀城球団戦を数日後に控えた日の事。
荒木は前日の夜に美香の呼び出しを受け、早朝から車で浜松駅に向かった。
浜松駅で美香を乗せ、車を南に走らせる。
車は卸本町乗り場から遠州灘海岸道という連絡道路に乗り、西へと走った。
右手に浜名湖、左手に遠州灘、眼下には今切口という絶景地点を越え、車は遠江地区から三河地区へと入ろうとしている。
三遠郡は元々は二つの別の郡であった。荒木の住む見付市や、美香が住んでいる浜松市は遠江郡という郡で、今荒木たちが向かっている郡は三河郡という郡であった。それが合併して三遠郡という一つの郡になっている。
その境近く、白須賀という休憩所で一旦車を停車させた。
ここから少し行ったところで、遠州灘海岸道は三河湾岸道路という連絡道路と分岐する。
今回美香が行きたいと言っているのは伊良湖という渥美半島の西の端。そこに最近温泉が湧いたのだそうで、そこに入りに行きたいのだそうだ。
その為、この先も車は遠州灘海岸道を走る予定。
白須賀の休憩所といえば磯辺焼き。
炭火で焼いたお餅に辛めの醤油を塗り、そこに舞阪漁港特産のシラスをまぶし、浜名湖名産のぶち海苔を炙って巻く。
何ともお手軽でそれでいて旨い。
休憩を終え、車はさらに西に向かう。
七月の日差しは非常に強く、車内はすぐに暑くなる。荒木は車内冷房を入れようとしたのだが、美香がそれを嫌った。
「私ね、普段ずっと大宿にいるでしょ。だからそうじゃ無い時はこうして自然を感じていたいのよ。ほら、こんなに外は潮の香りが強い」
そう言って美香は窓から入る熱風に髪をなびかせた。
白を基調としたワンピースが非常に清楚な感じを受け、何とも言えない愛おしさを覚える。同時にどこか気恥ずかしさのようなものも感じている。
車は七根の分岐点を過ぎ、渥美市から田原市へ。
一旦大草の休憩所で休憩する事になった。
この辺りはとにかく甘藍と真桑瓜の栽培が盛ん。休憩所も真桑瓜一色となっている。
網目の入った真桑瓜はとにかく甘い。この極甘の果肉を氷菓に混ぜたものが大人気で、美香もそれが目当てだったようで、甘い、美味しいと大興奮。
その無邪気な笑顔に荒木は自然と鼓動を早くさせた。
こうして寄り道を経ながら、いよいよ車は渥美半島の西端、伊良湖へと到着。
伊良湖岬の少し手前に目的地である宿泊所はあった。だが、車はそのまま伊良湖岬まで走った。そこの一件の食事処で少し遅い昼食として海鮮丼を注文。
ただ、ここまで二度も間食している。海鮮丼で見事にお腹が膨れてしまった。
そこから二人は伊良湖の海鮮市場を散策。
少し戻って恋路ヶ浜という海岸に向かった。
もう陽が落ちてきている。
キラキラと波間が輝く何とも言えない良い雰囲気の浜が、目の前に広がっている。
最初に切り出したのは美香の方であった。
「実はね、今日のこの事を提案してくれたのって若女将なの。『あなたが放っておかれたのは私にも責任がある気がする、だから休暇を与えます!』だって」
そう言って美香は髪をかき上げて笑顔で振り返った。
その神々しい姿に、荒木の頬が思わず朱に染まる。
「俺の方は若松さんにもの凄く怒られた。こんな事が妻に知れたら若松家は大荒れだって」
美香もすぐに広岡の怒った顔を思い浮かべたのだろう。口元に手を当てクスクスと笑い出した。
その姿に、荒木は何故か胸の鼓動が急激に高まるのを感じている。
二人は車に戻り、浜からほど近い宿泊所へと向かった。
部屋に入って浴衣着替え、今回の目的である温泉にゆったりと浸る。
その後、宿で夕飯を食べ、少しお酒を入れ、また温泉に入った。
温泉から帰って来ると部屋には布団が敷かれていた。そしてその布団の上には浴衣姿の美香。
大理石彫刻の女神像のような美しい浴衣美女が、こちらに振り向いて微笑んでいる。
荒木はいつまでも眺めていたいという気持ちを断ち切り、部屋の明かりを消し、ゆっくりと近づいて抱きしめた。大理石彫刻には無い、軟らかさと温もりを感じる。
美香も荒木の背に手を回す。
そんな美香に愛の言葉を囁き、唇を寄せてから布団に押し付けた。
その後、二人は体を合わせあい、いつの間にか眠ってしまった。
荒木が目を覚ますと、そこには浴衣のはだけた美香が静かな寝息を立てていた。
美香が腕を枕にして寝ているせいで手が痺れている。
そっと腕を引き抜くと、その衝撃で美香は目を覚ました。
荒木の胸に手を置き、体を密着させ、離れたくないという意志を示す美香。
少し酸味を帯びた甘い香りが荒木の心を蕩けさせる。
そんな美香の背に痺れた手を回し、荒木は静かに言った。
「ねえ、美香ちゃん。俺さ、家を出ようと思うんだよ。一緒に住まない?」
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