第54話 危険な誘惑
史菜が宿泊している大宿の地下駐車場に車を停めた。
史菜に言われるがままに先に一人で昇降機で十五階に向かう。
昇降機を降りると、そこが貴賓用の階だという事に気付き、思わず逃げ出したくなってしまった。
誰かに見られたらどうしようという気持ちが、そこはかとない焦りに変わる。
事ここに至っても、まだあの史菜が自分の知っている史菜と同一人物なのかという疑問が拭えない。
本当は自分は騙されているんじゃないだろうか?
本当は報道が自分を貶める為に、史菜のそっくりさんを差し向けて来ているんじゃないだろうか?
どうしても警戒心が沸いて来てしまい、心がざわついてしまう。
チンという音と共に昇降機の扉が開き、中からキャスケット帽を目深に被った史菜が降りてきた。
「お待たせ。さ、行きましょう」
腕に抱きついて部屋に引っ張っていこうとする史菜に、荒木は困惑している。
あの頃の史菜はこんなに強引じゃなかった。そんな思いが足取りを重くさせる。
「どうしたの? もしかしてこういう部屋が初めてで緊張してるとか?」
そんな事を言いながら、悪戯っ子のような顔でこちらを覗き込む史菜。
そんな史菜から必死に視線を逸らす荒木。
「あはっ。図星なんだ。ずっとすまし顔してたけど、そういうところは何も変わってないんだね」
かちゃりと扉を開けて部屋に入っていく史菜。
少し部屋に入って、荒木が付いて来て無い事に気付き、荒木の腕を取り扉を閉めた。
史菜に促されるままに長椅子に腰かける。
史菜は洗面台に行き、お湯を沸かし、紅茶を淹れる準備をしている。
茶葉の蒸れた香りが部屋に広がる。どこか林檎のような香りも混ざっている。
「それ飲んでちょっと待っててね。私、着替えてくるから」
史菜は壁に掛けられていた白い長衣を持って浴室へ向かった。
扉を開けているせいで、スルスルという衣擦れの音が聞こえてくる。
器を持つ手が思わず震える。
お待たせと言って現れた史菜は、素肌に膝上の丈の長衣だけという、何とも艶めかしい姿であった。
決してふくよかなわけでは無い胸部の前で服は合わせられていて、胸の谷にほんのり影が付いている。
横に腰かけた史菜が紅茶のカップに手を伸ばす。
その際に胸の頭頂部がちらりと見えてしまった。
「荒木君の事、高校卒業してからも私、ずっと追いかけてたんだよ。北国にいた時だって、取材に行って何度か練習を見たんだから。優勝決定の時だって私、中継で苫小牧の球場にいたんだよ」
そう言って史菜は荒木の腿に手を置いた。
「私は高校の時から荒木君の応援団やってるんだよ。ぽっと出てきた応援団とは年季が違うんだから。私が荒木君の応援団一号なんだからね」
その発言に荒木はドキリとし、史菜に顔を向ける。
「どうしたの?」という顔で史菜がくすくす笑う。
もしかして美香の事を知っている?
知っていてこういう態度を取っている?
そう訝しんだら荒木の鼓動が急に早まった。
「あの頃は応援団は私だけだったのに。気が付いたら荒木君目当てに球場に来る応援団があんなにいるんだもん。なんだかやきもきしちゃうよね」
そう言って史菜が荒木の方に身を寄せる。
蜜柑のような爽やかな香り、それに桃のような甘い香りが混ざって漂ってくる。
頭の中がぼうっとしてくる。
「今ね、報道は荒木君の二つ名を考えているんだって。何か格好良い名前が無いかって悩んでるみたいよ。荒木君って普段仲間からはどんな風に言われているの?」
そうたずねた史菜だったが、荒木の返答があまりにも小声で聞き取れなかった。「え?」と聞き返す。
荒木は実にバツの悪そうな顔で史菜から顔を背けた。
「『猫』だよ、猫。球を放り投げるとそれを夢中で追っかけていくから、そう言って馬鹿にされているんだよ」
不貞腐れた顔をする荒木を見て、史菜は腹を抱えて笑い出した。
そのせいで長衣がめくれ上がり、股の薄紫の布が露わになった。異常に布面積が少なく、おまけに透けている。
特に恥ずかしがる感じもなく、史菜は極めて冷静に裾を直す。
「そうなんだぁ。でもちょっとわかるかも。荒木君の動きって確かにそんな感じだもんね。でもそれが世界基準だから凄いんだよね」
「猫なんだ」「猫か」と、史菜が何度も『猫』と言うので、荒木は徐々に不機嫌になってしまった。
それに気付いた史菜は、荒木を強引に引き寄せ、自分の腿に荒木の頭を押し付けた。まるで膝に乗った猫を撫でるように荒木の頭を撫でる。
しばらく無言の時間が続く。
その間、史菜は愛おしいという感じで荒木の頭を撫で続けた。
「ねえ、荒木君……今晩、泊ってって……」
史菜の膝枕で気持ち良く寝ていた荒木が、がばっと起き上がった。
椅子からも立ち上がり、史菜に背を向ける。
「良いじゃない。一晩くらい。そんなに私の事が嫌い?」
眉を寄せ、すがるような顔で史菜が見つめる。
振り返った荒木は、その顔を見て酷く動揺した。
「いや、そうじゃないんだよ。久々に会って、急にそんな事になるって……」
史菜も椅子から立ち上がり、出口を塞ぐような位置に立って荒木の背に手を回す。
「私たちもう学生じゃないのよ。久々に会っても、心が繋がっていればこうなるのが普通だよ」
それでも拒む荒木を史菜は寝床に誘う。
寝床に横になった荒木に史菜は抱き着いた。
先ほどよりも甘さの強くなった香りが荒木の理性を破壊しようと試みる。
だが、荒木の理性が必至にそれに抗っている。
そんな抵抗を史菜の一言が打ち砕いた。
「貝塚さんとだって一晩過ごしたんでしょ? だったら良いじゃない」
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