第29話 美香の過去
「ほな、まずは荒木選手からいきましょか。この写真の男に見覚えはありますか?」
そう言って吉田が鞄から一枚の写真を取り出した。
ハンチング帽をかぶっていて頭髪がわからないのだが、年齢は四十代後半くらいだろうか。腕には『競報新聞』の腕章をしている。中肉中背。見た感じではかなり背が高そうに見える。一見するとごく普通の記者のように見える。
ただどういうわけか見覚えがある気がする。だがどこで見たのかわからないし、当然のように誰かはわからない。
荒木が首を傾げたのを見て、吉田は小さく頷いた。
「ほなこれでどうでしょう。名前は堀内明紀。年齢は四二歳。見ての通り報競新聞の記者をしとって、担当は竜杖球」
そこまで吉田が言っても、それでもまだ荒木にはこの人物が誰かがわからなかった。だがどうにも見覚えがある気がする。
「そしたら、これでわかるんやないでしょうかね。前職は高校教師。最後に努めとった高校は花弁学院」
いきなり荒木ががたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
猪熊、美香、あやめの三人が一斉に荒木を見る。
「まさか……そんな……え?」
動揺で瞳孔が開ききっている荒木を見て、吉田は鼻を鳴らした。
「そのまさかですよ。あの堀内先生が教師をクビになった腹いせに、福田水産高校から職人選手になった荒木選手を執拗に追っかけまわして足を払い続けとんのです」
恐らくここまでの話が理解できているのは吉田と荒木だけ。
猪熊ですらぽかんと口を開けて話を聞いている。
「この男がどうかしたのか?」と猪熊がたずねると、吉田は「どあほう!」と叱責。
「お前には記者の嗅覚いうもんが無いんか? どう考えても競報で事実を曲げた記事書いとる奴が一番怪しいいうもんやろうがぃ! この男はな、かつて生徒に相手の学校の選手を怪我さすように指導しとった屑野郎なんや!」
福田水産高校、選手の怪我、顧問の指導、その情報で猪俣は事態を把握した。
「じゃあこいつが、何年か前に選手が大怪我した時の問題の顧問! えっ? じゃあ競報はそんな奴を記者として雇ってたって事ですか? 嘘でしょ……」
それが嘘では無いという事は、荒木の表情が物語っている。
だが、そうなると何故そんな人物を競報新聞は雇ったのかという疑問が湧く。
それについても吉田はちゃんと回答を用意していた。
「数年前、競竜で国際競争を勝った調教師が現れた。それで競竜への関心が急激に高まった。それに合わせて徐々に竜杖球への関心も高まったんや。そやけど、どの競技新聞も竜杖球に詳しい者がおらへん」
だから少しでも竜杖球に詳しい者の雇用が急務となった。多少問題はあるだろうが、前職が国語教師という堀内は最適な人材だったのだろう。
「荒木さん。こいつはうちの系列の週刊誌を使うて例の事件と共に白日の下に晒してやります。こいつが書いた記事も文章の癖みたいなんである程度把握できますから。全部明るみにしたりますわ」
そう言って吉田がうなぎ菓子を齧ると、若女将のあやめが「生き生きしている」と笑った。
「今でこそ、ふかふかの椅子に座ってふんぞり返っとりますけど、僕は根っからの記者ですからね。こういうネタになりそうな事を知ってまうとどうしてもね。競竜場を走り回っとった頃の血ぃが騒ぐんですわ」
袖で口元を隠しくすくす笑うあやめに、吉田は得意気な顔を向けた。
「まあ、そっちはそんなもんで良えでしょ。問題はもう一つの方や。こっちはだいぶ骨が折れましたわ。なんせ競報と違うて組織がちゃんとしとりますからな」
喋りながら、吉田は次々に机に写真を並べて行った。そのうちの一枚は荒木も知っている下国麻理恵である。
新たな写真が出て来るたびに、美香の顔が凍り付いて行った。
「まず、安達さん、この写真の中であなたさんが知らへん人はおりますか?」
吉田にそうたずねられ、美香は動揺で震える指で写真を指差した。
八枚並べられた写真の中で美香が指差したのはわずかに二枚だけ。
なるほどと短く言うと、吉田は手帳をぺらぺらとめくった。
まず、八枚の写真のうちの三枚を吉田は前に出した。
「これは安達さんにしたら荒木選手には聴かれた無い話かもしれませんけど、話の筋のためにしゃあない思て我慢してください」
そう言って吉田は美香の顔を見た。だがもうすでに美香は動揺でそれどころでは無かった。
それを察し、あやめが椅子を立ち、美香の隣に席を変えた。
荒木とあやめの二人で美香を挟んで座る形となった。それで荒木も美香が精神的に参ってしまっている事を察し、膝の上で固く握られている可愛い拳を右手で包んだ。
びくっとして、酷く怯えた顔で美香が荒木を見る。
荒木は無言で微笑んで頷いた。
何の頷きなのかは荒木にもよくわかっていない。だが、その表情で美香が少し落ち着きを取り戻したように見える。
「事の発端いうんでしょうかね。学生時代、安達さんの事を気に入っとった男がおったんです。それがこの男、名前は松岡直己。成績優秀、父は北国産業銀行の幹部の一人。見た通り顔も整うとる。そやけど、こいつには一つ問題があった」
吉田が強く写真を指で突いた事で、松岡の写真が斜めになった。
指で向きを直し、吉田は話を続けた。
「こいつはごっつい女癖が悪いんですわ。ほんでこの娘。松岡が中三の時に悪戯した春日汐里いう娘。表向きこの娘は登校拒否から転校いう事になってます。そやけども、実際には監禁されて性暴力振るわれ、最終的に殺されたらしいんですわ」
荒木が手を置いている美香の拳が小刻みに震える。
「え!? 汐里ちゃんが……殺された!?」
美香がゆっくりと首を左右に振る。
それを見てあやめは美香に椅子を近づけ、そっと背中を撫でた。
「さっきも言いましたが松岡の親は銀行の幹部。どうやら学校の校長に圧力かけて揉み消したらしいですね。そん時の教師の一人が証言してくれました」
伊達町周辺には高校は伊達農業高校しかない。その為、農業に従事する予定でない学生たちは伊達農業の普通科に行くか、室蘭郡の他の高校に行く。
当然のように美香と松岡も伊達農業に進学した。
「高校三年の秋、松岡は安達さんに告白をした。松岡としても春日さんの話があるから、それまで自重しとったんでしょうね。満を持していう感じやったんでしょう。ところが安達さんは松岡の誘いをあっさり断った。そこから松岡は安達さんを逆恨みするようになった」
吉田が三枚目の写真に手を伸ばすと、隣の猪熊が松岡の写真を見て『ゴミクズ』と呟いた。
「ほんでやっと問題のこいつが出て来る。名前は星陽香。現在は北府で若者向けの衣料品店を営んどります。松岡と同じく、安達さんの小学校からの同級生で、小学校時代から安達さんをいびっとった娘です」
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