第1話 フラれました。
「……別れよう」
私――水川飛鳥は今、産まれて初めて『恋人との破局』という危機に直面している。
――好きな人ができた。
さっき彼がそう言った時、反射的にビンタの1つでもできたなら、少しは気持ちが晴れたのかもしれない。
その勢いで思う事全部吐き出せていたら、後腐れなくスッキリ別れられたかもしれない。
ただ、それをするには家から近いファミレスという場所はいささか都合が悪く――しかも夕方で学生達のグループもちらほら視界に入る。
今はSNSで何でも拡散される時代。感情を露わにしたところを動画に撮られてネットに上げられたら、近所の噂どころの話じゃない。
こんな場所で余計な恥を晒したくない、という理性が感情に歯止めをかける。
幸い穏やかなBGMと周りの喧騒のお陰で、普通に話してる分には私達の話の内容が周囲に知れ渡る事はない。
『気の荒い恋人と別れ話をする時は、第三者が複数いる場所で――』なんて話をよく聞くけど、それはきっと私のように周りの目を気にする人間にも効果があるんだろう。
単に私に自覚がないだけで、彼には乱暴な気質だと思われてるのかもしれないけど。
どちらにせよ、彼が『私に別れを告げるなら何処がベストか』をあれこれ考えた末にこの場所に呼び出したのなら――
「……分かった」
今私が取るべき最善の方法は、ただ静かに別れを受け入れる事だけ。
せめて、最後は綺麗に終わりたい――
待って、本当にこのまま何も聞かずに別れていいの――?
どうせ、何を言っても――
ああ、それでも――
追及したら、復縁の可能性を潰してしまうかもしれない――
好きな人ができたなら、私の気持ちなんて受け止めてくれない――
でも、でも、だって――
言いたい事や聞きたい事が頭の中でごちゃごちゃに入り乱れる。とにかく黒く、重い言葉が溢れてしまいそうになる。
少しでも気を抜いたらどんな酷い言葉が飛び出るのか、自分でも分からない。
飛び出てしまう前に、一秒でも早くこの場から去りたい――少しでも自分を良く見せたい見栄と意地が、暴れ喚きたい気持ちに重く蓋をする。
「……これ以上一緒にいても嫌な事しか言えそうにないから、もう、行くね! これ私の分のお金!」
着いた時に彼がコーヒーだけ頼んでいたから、夕食をここで取るつもりはないんだと思って私も同じ物だけ注文したのは良かった。
まだ熱いコーヒーを無理矢理喉に流し込んで、500円玉を置く。
カップを置く音も、財布を扱う指先も、抑え込みたい震えを隠させてはくれない。
今何か言ったら声すら震えてしまいそうで、すぐさま席を立つ。
「……本当に、ごめん」
喧騒の中、かろうじて聞こえた弱弱しい謝罪を背に、心の中に重苦しい靄が一層濃くなる中、ファミレスの重いドアを開いた。
空を覆うどんよりとした雲は、まさに今にも涙が零れそうな私にふさわしい。
雨も涙も落ちてこないうちに家に帰りたくて、賑やかな街に向かう人の波に逆らうかのように早足で抜けていく。
今日は間違いなく私の人生史上惨めな日ベスト3に入るだろう。
金曜日の夕方――これから楽しい時間を迎えるであろう人達の笑顔が眩しい。
別に、すれ違う人達が私を惨めだとは思ってないのは分かってる。
ただ、私が私をどうしようもないほど惨めだと思ってるだけだ。
高校3年の春頃から付き合って、約3年。初めての彼氏。
ラブラブと言える程の華やかさこそなかったけど、ささやかで温かな想い出はいっぱいある。
大きな喧嘩をした事もなく、この関係がずっと続くものだと思ってた。
同い年ではあるけど、社会人と大学生じゃ取り巻く環境が大きく違う。
彼は学業に、こちらは慣れない社会人生活にいっぱいいっぱいで、ここ数カ月は会う頻度もずっと減ってしまっていた。
それで冷められたんだろうか? それとも――
(エッチな事、拒み続けてきたのがいけなかったのかな……?)
この状態で万が一にでも妊娠したらお互いの将来が――と考え頑なにエッチな事を拒否していたけど、それがいけなかったんだろうか?
周囲は当たり前のようにエッチな事してるのに何で俺だけ? なんて悩みもあったのかもしれない。
(私は、そういう行為が無くても貴方といて楽しかった。だけど、貴方は……)
彼と過ごした日々の想い出とともに目の奥から新たな涙が込み上げて、目に溢れていた涙がついに零れ落ちる。
時を同じくしてどんよりとした雲からも雨が零れ落ちてきた。
零れ落とすタイミングまで合わせなくていいのに――付き合いが良すぎる雲にいつもなら苦笑いする所だけど、今はそれをする余裕もない。
(ああ、駄目。早く家に帰ろう。それに、好きな人ができたんでしょ? 私の態度がどうこうって話じゃないはず。考え過ぎよ。いや、でも彼『エッチな事させてくれないから』って言う位なら『好きな人ができた』って言いそう……)
「……の……」
雨は瞬く間に勢いを増していき、髪も顔も服も濡らしていく。通り雨っぽいから、しばらく待てば勢いも止むだろう。
でも雨宿りなんてしてる時間があったら一秒でも早く家に帰って、熱いシャワーにうたれたい。
(でもさぁ、大学生が彼女妊娠させたら、余程実家がお金持ちじゃない限り、大学辞めて働くか、子ども諦めるかのどちらかじゃない? 大学の事は私にはよく分からないけど、大卒と大学中退じゃ扱いが全然違う事は社会人になって痛感してる。求人誌も大卒が条件になってる案件多いし、だから、私は……)
雨のせいか、涙のせいか、前が良く見えない。
どっちのせいでもいい。ただこの不快感だけは早く拭い去りたい。
フル回転する思考に合わせるかのように、足取りは一層早くなる。
「あの……!」
(……ってちょっと待って、何で彼が嘘ついてる前提で考えてるの? 大学で好きな人ができた、何もおかしい事じゃない。私だって職場に素敵な人がいたら『好きな人ができた』ってフッてた側かもしれないし……たまたま大学に私より素敵だと思う人がいただけよ。それだけよ、それだけの事! よし、とにかく今日は家に帰ったらお酒飲んで、泣こう!!)
「あ、あの……!!」
次から次へと思考があらゆる感情を引っ張ってきて一区切りついた中、ようやく時折聞こえてくる声が自分を呼び止めているらしい事に気づく。
振り返ると、傘を差した近所の高校の制服を着た女の子が心配そうにこちらを見つめていた。
知らない子だ。呼び止められるような心当たりは全くない。
ずぶ濡れの私を心配してくれたんだろうか? それとも先程のファミレスで思った以上に声を荒げてしまってた?
あるいは、今までの思考が全て口に出てしまっていた――?
そう思うとただでさえ混雑している感情に恥ずかしさまでこみあげてくる。
ああ、もう、最悪。
「なに――」
言葉を返そうとした瞬間、女の子の全身が強く輝い――たかと思うと視界が白一色に染まった。




