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神話の適合者《アダプターズ》 ――伝説の神を宿す――  作者: 渡部安恵


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閑話 天使が覗いた深淵の月

 星奈せなは、今日という日を一生忘れないだろう。

 高校に入学し、幼馴染たちと念願のパーティー『スターライト』を結成。背伸びをして買ったばかりのショートソードを腰に下げた、輝かしい探索者デビューの日。


「セナ、そんなに緊張しなくて大丈夫だって。枚方ひらかたの浅い層なら、中学校の集団実習で行った尼崎あまがさきより楽勝だよ!」

「もう、カズくんは調子に乗りすぎ。……でも、楽しみだね。お宝、見つかるかな?」


 カズの言葉にも一理あった。尼崎ダンジョンは全30層と規模こそ中程度だが、出現するのは呪詛や憑依を得意とする厄介な魔物ばかりだ。それに比べれば、スタンダードな魔物が多い枚方の浅層など散歩のようなもの。そんな油断が、彼らの中にあったのは否めなかった。


 仲間と談笑しながらエントランスへ足を踏み入れた時だ。星奈は、異様なオーラを放つ男の姿に目を留めた。ベンチで項垂れるその男からは、全身から負の感情が漏れ出しているかのようだ。


(あんなに綺麗な顔をして、どうして世界が終わるみたいな顔をしてるんだろう)


 持ち前の「放っておけない精神」がうずいた。男の足元に広がる絶望は、まるで世界中の不幸を一身に背負っているかのようで、それでいてどこか放っておけない隙がある。気がつけば星奈は男の前に立っていた。


「あの……大丈夫ですか?」


 声をかけると、男は消え入りそうな表情で顔を上げた。九頭竜誠司くずりゅうせいじ――その時はまだ名も知らぬ青年は、星奈の無垢な励ましに戸惑ったような、照れたような、複雑な笑みを浮かべた。


(ふふ。やっぱり、笑うと格好いいのに。……頑張って、お兄さん)


 小さな善行で胸を満たした星奈は、仲間たちと意気揚々と枚方ダンジョンの門を潜った。

 最初はすべてが順調だった。1、2層と教科書通りの魔物を退治し、「今の連携、最高だったね!」と笑い合う。


 事件が起きたのは、5層の行き止まりで古ぼけた宝箱を見つけた時だった。


「見て!お宝じゃない!?」

「待てよセナ、罠の確認を――」

「大丈夫だよ、こんな浅い層だもん!」


 功を焦ったわけではない。ただ、リーダーらしく振る舞いたかった。仲間を驚かせ、頼もしさを見せたかったのだ。16歳なりの「背伸び」が、彼女の指先を宝箱の蓋へと向かわせる。


 ――カチリ。


 冷徹な音が響いた瞬間、星奈の視界から仲間たちの姿が掻き消えた。


「え……?あ……っ!」


 凶悪な転送の重力が胃の腑をせり上げる。闇を抜けた先で、星奈の細い体は硬く冷たい地面に叩きつけられた。鼻を突くのは、充満する濃厚な死の臭いだ。


「……ここ、どこ……?カズくん? みんな……?」


 震える声で呼んでも、返ってくるのは不気味な風鳴りだけ。

 数十万回に一度の不運――『強制転送トラップ・テレパシー』。

 初心者の少女が放り出されたのは、自衛隊の精鋭すら顔を強張らせる、枚方ひらかたダンジョン第38層。


 そこは、青春の眩しさが一瞬で食い尽くされる、絶望の深淵だった。



 どれくらい暗闇の中を彷徨っただろうか。

 星奈の心は、すでに限界を迎えていた。

 心の支えだった愛剣は、いつの間にか鞘ごと失い。

 時折聞こえる影狼シャドウウルフの遠吠えや、甲冑が擦れる不気味な音に怯え、握りしめた手は感覚を失うほどに震えている。


(死んじゃう……私、こんなところで一人で死んじゃうんだ……)


 涙で視界が歪んだ、その時だった。部屋の隅、宝箱に向き合ってネズミのようにコソコソと動く「背中」が目に飛び込んできた。


「……あ、お兄さん!?」


 その瞬間、星奈の脳裏に不思議な安堵感が広がった。地獄の底で出会った、今日一番の知己。エントランスでは情けなく見えたはずの背中が、今の彼女には救世主の後光を背負っているようにすら見えた。

 だが、振り向いたお兄さんは青い顔をして叫んだ。


「なんでお嬢ちゃんがここにいんだよ!」


 その怒声に、星奈は自分がどれほど取り返しのつかない場所に来てしまったのかを改めて悟った。堰を切ったように事情を話し始める星奈を、男は「いいか、落ち着け」と制した。


 お兄さんの声は、驚くほど冷静だった。指先は魔法のように細かく動き、複雑怪奇な宝箱の罠を一つずつ解いていく。この人なら、なんとかしてくれる。見た目よりもずっとすごい探索者なんだ――。

 そんな確信に近い信頼が、極限状態だった星奈の思考を、残酷な方向へと突き動かした。お兄さんが「終わった」と言った気がした。自分の目の前の箱も、もう安全なのだと思い込んでしまったのだ。


 ――カチリ。


「あ、待て――ッ!!」


 お兄さんの絶叫を、鼓膜を突き破るような警報音が塗りつぶす。中央の召喚陣から溢れ出したのは、どす黒い魔力の奔流。星奈は自分のしでかした事の重大さに、指先一つ動かせないほどの衝撃に包まれた。


(ああ、私のせいで。お兄さんまで……死なせちゃう……)


 視界が白く染まっていく。けれど、極限の恐怖は逆に星奈の感覚を異常なまでに研ぎ澄ませた。彼女の脳は、まるでもう一人の自分が俯瞰ふかんしているかのように、眼前の「異常事態」を克明に記録し始める。


「女の子がくれるなら、毒でも呪いでも全部もらっちゃうぜ!」


 そんな、呆れるほどに不謹慎で、格好いい叫び。

 直後、星奈の瞳に焼き付いたのは、物理法則をあざ笑うような光の爆発だった。お兄さんの着ていた作業服が、靴が、安物のナイフが――神聖な光に耐えきれず、まるで燃える紙のように塵となって消えていく。


(……え?お兄さんの服が消えて……。えっ、きれい……?)


 脳は冷静に、その「変身」を観察していた。粗野な男の肢体が、光の中で一瞬にして、しなやかで優美な「女性」のそれへと再構成されていく。月光の糸で織り上げたような銀髪が舞い、背中には幾何学的な光の翼が幾重にも展開された。


 そこにはもう、項垂れていた「クズなお兄さん」はいない。代わりにいたのは、すべてを見透かすような銀の瞳を持つ、絶世の女神だった。


(お兄さんが、女の子に……?いえ、女神様?……でも、中身はお兄さんのままだ!)


 迫りくる首無し騎士の恐怖も、死の予感も、その衝撃に一瞬だけ彼方へ吹き飛んだ。星奈は瓦礫の影から、ただ呆然と、その「美しすぎる救世主」の背中を見つめ続けていた。


 迫りくる魔物の大軍を、女神――いいえ、変身したお兄さんは、まるで塵でも払うかのように一瞬で「消して」しまった。

 特に、三メートルはあろうかという首無し騎士が振り下ろした大剣を、手のひら一つで受け止め、あろうことかそれを温かな光の粒子へと変えてしまった光景。星奈の脳裏には、そのすべてがスローモーションで刻み込まれていた。


(すごい……。怖いのに、ちっとも寒くない。お兄さんの光、すごくあったかい……)


 瓦礫を吹き飛ばし、展開された光の翼が部屋全体を優しく包み込む。

 お兄さんに抱き上げられた瞬間、星奈は自分の頬が熱くなるのを感じた。腕を通じて伝わるしなやかな体温と、ふわりと鼻腔をくすぐる清廉せいれんな香り。その神々しさに気圧されそうになるが、ふとした拍子に漏れ聞こえるお兄さんの「焦っている気配」が、不思議と星奈を安心させた。


「こちら自衛隊枚方救難部隊!緊急要請により現着!全員、無事かッ!!」


 通路の先に鋭いライトの光が見えた時、星奈は強引に現実へと引き戻された。お兄さんは、星奈を優しく隊員たちの元へ降ろすと、言葉を交わす間もなく光の翼を羽ばたかせた。


「あ……待って!」


 伸ばした手は空を切る。お兄さんはそのまま闇の上層へと溶け込むように消えていった。

 残されたのは静寂と隊員たちの怒号。けれど星奈の手のひらには、お兄さんが守り抜いてくれた確かな温もりと、言葉にならない高揚感がいつまでも残っていた。



 ――その後、星奈は自衛隊の厳重な保護下で地上へと運ばれた。

 事情聴取や魔力検査を終え、ようやく検問所のロビーに出された彼女を待っていたのは、ボロボロになって泣きじゃくっていた仲間たちだった。


「セナぁぁぁ!よかった、本当によかったぁ!!」

「ごめん、俺たちがもっとしっかりしてれば……!」


 仲間たちが駆け寄り、星奈の無事を泣いて喜ぶ。本来なら彼女も一緒になって泣き、恐怖を分かち合うはずだった。けれど、今の星奈の胸を満たしていたのは、仲間への安堵よりも、もっと別の、熱を帯びた高揚感だった。


「みんな、大丈夫だよ。……私、すごい人に助けてもらったから」


 星奈はふと、検問所の隅に目を向けた。そこにはボロボロの毛布にくるまり、自衛官からの熱烈なスカウトを「あはは……」としどろもどろで断っている、一人の美しい女性の姿があった。

 銀髪を隠し、翼を消していても、星奈にはわかる。あの非の打ち所がないほど完璧な「女神」の中身が、あの情けなくて、クズで、けれど誰よりも格好よかった、九頭竜誠司だということが。


(……ふふ。お兄さん、あんなに勧誘されて困ってる)


 仲間たちに支えられながらその側を通り過ぎる際、星奈はそっと耳元で囁いた。「秘密にしておきますね」という、二人だけの約束。その瞬間、お兄さんが見せた「うわ、バレてた!」と言いたげな気まずそうな顔。その人間臭さに、星奈は小さく吹き出した。



 30分後。ギルドの医務室で温かいココアを握りしめながら、星奈はいまだに現実感のない浮遊感の中にいた。


(……信じられない。本当に、生きてるんだ)


 数時間前、彼女は間違いなく地獄の底にいた。初心者の分際でトラップを踏み、辿り着いた38層。絶望に震えていた自分を救ったのは、エントランスで死にそうな顔をしていた、あのお兄さんだった。

 最初は「守ってあげなきゃいけない、ちょっと残念な大人」だと思っていた。自分を庇って安物のナイフ一本で化け物に立ち向かおうとした、あの背中を見るまでは。


(あれが……本当の、お兄さんの姿……)


 極限状態で脳裏に焼き付いたのは、すべてを跪かせるような圧倒的な銀色の光。抱き上げられた時、鼻をくすぐったのは夜の澄んだ空気のような清廉せいれんな香り。

 自衛隊の検査官は、彼女を助けた女性を「規格外の魔力保持者」と呼び、医学的に「非の打ち所がない若い女性」だと太鼓判を押していた――と、先ほど手続きの際に自衛官たちが興奮気味に噂しているのが聞こえてきた。


(お兄さんが男の子でも女の子でも。私は、あの時助けてくれた『光』を忘れない)


 ココアを一口啜り、星奈は独り言のように微笑む。

 ワイルドなお兄さんにリードされるのも素敵だけれど、あんなに綺麗な女性(お兄さん)に守られるのも、まるで物語の主人公になったみたいで悪くない。むしろ、その両方を独り占めできる今の立場は――。


「二人だけの、秘密……」


 星奈は窓の外、夜空に浮かぶ月を見上げた。

 いつかまた、あの翼に包まれる日が来るだろうか。その時は、もう少しだけ大人になった自分で、あのお兄さんの隣に立ちたい。


 16歳の少女が抱いた、あまりにも刺激的で神聖な初恋。

 あの後、全裸に近い姿で敦賀の街を逃げ回るハメになった誠司の受難など知る由もない彼女は、こっそりと、けれど熱く、その想いを育て始めるのだった。

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