閑話 それぞれの日常――相模湊の色気におかしくなった人々――
『相模蓮の受難 ―― 義兄が姉で、ときどき僕の理性は死ぬ』
相模家の次男、蓮にとっての「日常」は、ゴールデンウィークを境に完全に崩壊した。
かつては共に切磋琢磨する良き「兄」だったはずの湊が、いまや「褐色の女神・ときどきプリンをねだる」という、バグのような存在を内包してしまったからだ。
ラーナの精神が初めての場所に興奮しても服を突き破らないよう、家を出る前から変身を済ませるのが最近の湊のルーチンだ。湊の私服であるユニセックスなパーカーやワイドパンツを纏ったその姿は、性別を超越した暴力的なまでの美しさを放っている。
「蓮くん、このワンピースとこっちのセットアップ、どっちが良いかな?」
リビングでラーナ姿の湊が、母と一緒にタブレットで通販サイトを広げて相談してくる。
湊の服からすらりと伸びた健康的な褐色の脚、そして髪を耳にかけた仕草ひとつから溢れ出す、天性の、そして「魔神」ゆえの絶対的な色気。
「……どっちでもいいよ。兄貴は男なんだからな?忘れるなよ?」
蓮が必死に自分に言い聞かせるように呟くが、周囲の反応は冷ややかだ。
「あら蓮、湊ちゃんはもう私たちの可愛い『娘』よ。ねえ、お父さん?」
「ああ。湊、今度はこの最新のRPGを買ってこよう。ラーナ様もやりたがっていただろう?」
両親の適応力は、もはや恐怖を感じるレベルだった。特に母は、待望の娘ができたとばかりに、湊を連れ回しては洋服を選び、スキンケアを教え込み、まるで着せ替え人形のように可愛がっている。父も父で、魔神ラーナを「新しいゲーム仲間」として接待し、すっかり懐柔していた。
そんな平和な光景の片隅で、蓮はひとり、脳内で凄まじい混乱と戦っていた。
(兄貴だ。中身は間違いなく兄貴なんだ。……でも、この部屋に満ちているいい匂いは何だ?笑顔が眩しすぎて、網膜が焼けそうだ。っていうか、今の服、絶妙に鎖骨が見えすぎじゃないか?姉さん?いや、義理の姉……いや、もういっそ設定を飛ばして奥さんってことで僕が守るべきなんじゃ……?)
▼れいはこんらんしている。
彼が前世の経験と思春期の全エネルギーを動員して「これは兄貴だ」と自己暗示をかけても、五感が「神々しいまでの美女」を認識してしまう。
買い物に出れば、湊は無邪気に「蓮くん、あっちのお店も行ってみようよ!」と腕を絡めてくる。その瞬間に伝わる柔らかい感触と、脳を焼くような女神の微笑み。
蓮の理性のダムは、もういつ決壊してもおかしくなかった。
兄であってほしかった。けれど、今の湊はあまりにも「女の子」として完成されすぎていた。
(母さん、父さん。頼むから僕を一人にしないでくれ……。兄貴が、兄貴がどんどん『僕だけの理想の女性』に書き換わっていく……!!)
夕飯の惣菜の袋を片手に、楽しげに笑う「褐色の義姉(?)」。
その背中を見つめながら、蓮は今日も、戻れない場所へと一歩踏み出しそうになる自分を必死に押し留めるのであった。
◇
家庭内での混乱もさることながら、主戦場であるダンジョンは、蓮にとってさらに過酷な「理性の試練場」と化していた。
前回のイレギュラー戦を教訓に、二人は「未踏破エリア」や「高難易度階層」へ潜る際は、不測の事態に備えて最初から湊が変身した状態で入ることに決めていたのだ。
最近では、ボス戦の死闘を一緒に戦った例のパーティーや、湊の所属する料理研究会のペア――剛と凛とも、ギルドを通じて顔を繋ぎ、合同で潜る機会が増えていた。
「湊先輩……今日の魔力供給、グレートです」
「凛ちゃん、背後は任せてね!」
巨躯を真っ赤に染めて固まる剛と、「湊くんの匂いでバフがかかる!」とくんくん嗅ぎ回る凛。湊本人は「あはは、みんな頼もしいね」と聖母のような微笑みを浮かべているが、蓮の心境は穏やかではない。
戦闘が始まれば、命のやり取りという緊張感が、一時的に異性への意識を希薄にしてくれる……はずだった。だが、現実は残酷である。
「蓮くん、援護するよ。――『黄金の静寂』!」
湊の指先から放たれる、圧倒的な熱量。
陽炎の向こう側で、長い髪をなびかせ、苛烈な魔神の力を振るう「姉」の姿。死と隣り合わせの極限状態で、太陽のような輝きを放つ女性に背中を守られる――それは、思春期の少年が摂取するにはあまりに劇薬すぎる「吊り橋効果」だった。
(ヤバい、カッコいい……いや、綺麗すぎるだろ……。くそっ、今助けられた瞬間の微笑み、何なんだあの破壊力は!?)
戦闘の熱量と、湊が放つ強烈なフェロモンが混ざり合い、蓮の心拍数は文字通り限界突破を記録する。もはや脳は、目の前の存在が「元・兄」であることを拒絶し、「守るべき、あるいは導いてくれる運命の人」として上書き保存しようと暴走を始めていた。
そして、蓮が一番忙しいのはモンスター相手の時ではなかった。
◇
ダンジョンからギルドのロビーに戻っても、蓮の神経は一刻も休まることがなかった。
むしろ、人目に触れる場所こそが、彼にとっての「防衛戦」の最前線だった。
変身の効果が半日は切れない湊の姿は、当然ラーナのままだ。自身のユニセックスな服をふわりと着こなして歩いている。本人は無自覚だが、激戦を終えた後の上気した頬と、運動後特有の艶やかな色香が、周囲の探索者たちの理性を容赦なく焼き払っていた。
「おい、見ろよ……あの褐色の美少女。新人か?」
「いや、あの魔力量……ただもんじゃねえ。声、かけてみるか?」
ガラの悪い男たちが下卑た笑みを浮かべて近づこうとするのを、蓮は鋭い眼光だけで牽制する。
(寄るな。見るな。その汚い視線で兄貴――いや、姉貴を汚すな……!)
蓮は無言で湊の肩に手をかけ、ぐいと自分の方へ引き寄せた。湊は「蓮くん、どうしたの?」と、その至近距離から女神の微笑みを投げかけてくる。脳に直接響くような甘い匂いと、吸い込まれそうな黄金の瞳。その瞬間、蓮の頭の中で「兄貴」という概念がまた一つ、砂のように崩れ落ちていく。
「蓮くん、顔が怖いよ?ほら、剛くんたちも心配してる」
「……僕は、別に。それより、あいつらが鬱陶しいだけだ」
蓮が突き放すように言うと、背後では料理研究会ペアの剛が、湊の後ろ姿を拝むように見つめ、凛が「湊くん、その服の裾、ちょっと乱れてるよ!」と世話を焼いている。
剛は剛で、湊のあまりの神々しさに「……グレートです。……もはや聖母……」と、別の方向で理性がバグり始めていた。
(このデカい後輩も大概だが、外の連中はもっとタチが悪い……!)
ギルドを出て駅に向かう道中も、ナンパな男たちが後を絶たない。
「ねえ君、この後時間ある?」「いいパーティー探してない?」
そのたびに、蓮は湊の前に立ちふさがり、剣を抜かんばかりの覇気を放って男たちを追い払った。
「俺の、あ、に……あね……!いや、義姉……!とにかく、僕の大事な人に近寄るな!!」
ついに語彙が限界を迎え、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。
湊は「ふふ、蓮くんは本当に過保護だなぁ。でも、ありがとう」と、嬉しそうに蓮の腕をぎゅっと抱きしめた。
腕に伝わる柔らかな感触。そして耳元で囁かれる、心臓に悪いほど澄んだ声。
「……っ!!」
蓮は真っ赤になって顔を背けた。
彼はもう確信していた。たとえ明日、湊が元の男の姿に戻って一日を過ごしたとしても、自分の脳が覚えているこの「感覚」を消すことはできない。
(兄貴であってほしい。でも、この人を他の誰かに触れさせるくらいなら……もう、姉貴でも、義姉でも、何でもいい。僕が守らなきゃダメなんだ)
れいは、致命的なほどにこんらんしている。
だがその混乱の奥底で、彼は「兄貴を守る」という名目のもと、自分自身を納得させる新しい理屈を作り上げつつあった。
夕闇の中、隣を歩く「絶世の義姉(?)」を見つめながら、蓮は今日も戻れない橋を全力で渡り続ける。
その先に待っているのが、さらなるカオスな日常だとは露知らず――。
◇
相模湊が纏う空気の変化は、料理研究会の四人にとって、一つの「試練」と化していた。
本人は至っていつも通り、物腰柔らかく調理台に立っている。しかし、彼から放たれる圧倒的な色香と魔力の残滓は、調理室という閉鎖空間において、逃げ場のない劇薬のように機能していた。
◇
・榎本結愛:商売人としての理路整然とした狂気
榎本結愛は、調理実習台の上でリズミカルに包丁を動かす湊の横顔を、値踏みするように、あるいは縋るように見つめていた。
実家の洋食屋を継ぎ、さらに繁盛させるという野望を持つ彼女にとって、五感は常に鋭敏に研ぎ澄まされている。だからこそ、今の湊が発している「異常事態」を、彼女の脳は即座に検知してしまった。
(……おかしい。いくらなんでも香りが良すぎる)
湊から漂うのは、石鹸や柔軟剤といった安っぽい匂いではない。脳の奥にある本能的な欲求をダイレクトに叩き起こすような、神聖で、それでいてひどく官能的な、言葉にできない「芳香」だ。
彼が食材を手に取るたびに、その指先の滑らかさに目を奪われる。ふとした瞬間に彼と目が合えば、蜂蜜が溶け出したような黄金の瞳に射抜かれ、結愛の心臓は物理的な衝撃を伴って跳ね上がった。
「結愛さん、このソースの煮詰め具合、どうかな?」
湊が、小皿に取ったソースを差し出してくる。その何気ない動作一つに、結愛は自分が呼吸を忘れていることに気づいた。耳の奥が熱い。首筋が火照る。
普通なら、ここで「恋」という名の方程式を解いて赤面し、乙女な反応を見せるところだろう。だが、結愛という女は、あまりにも徹底した「リアリスト」であった。
(落ち着け、榎本結愛。この心拍数の上昇は恋じゃない。これは……『金の卵』を目の前にした投資家としての興奮よ!)
彼女は溢れ出しそうな熱情を、力技でビジネスプランへと変換した。
今の湊には、客を呼び寄せる「磁力」がある。それは単なる美形という枠を超え、見た者の購買意欲と食欲を同時に暴走させる、魔神レベルの集客力だ。
「……相模。あんた、放課後や週末で暇なときない?」
「えっ、急にどうしたの?蓮くんとダンジョンに行く予定がなければ、空いてる日もあるけど……」
湊が小首を傾げる。その仕草だけで、結愛は「うちの店なら、この瞬間にセットメニューが三つ追加で出る」と確信した。
「うちの店でバイトしなさい。給料は相場より色をつけるし、賄いもあんたの好きなもの作るわ。ホールに立たせるのが一番だけど……いや、危なすぎるわね。まずはカウンター越しにコーヒーを淹れるだけでいい。あんたが立ってるだけで、うちの客単価は間違いなく二倍になる」
「あはは、結愛さんは面白いね。僕にそんな力があるかなぁ?」
ふわりと、あまりにも無防備で慈愛に満ちた微笑。
その瞬間、結愛の脳内にある電卓が、計算不能の「ERROR」を表示して火を吹いた。
(今の笑顔!今のを見せられたら、客は追加でデザートと、さらに持ち帰り用のお菓子まで頼むわ……。っていうか、私が今すぐあんたを買い占めたくなってどうするのよ!!)
結愛は顔を真っ赤にしながら、逃げるようにソースの味見に没頭した。
彼女は今、自らの恋心を「商売っ気」という強固なフィルターで濾過することで、かろうじて相模湊という劇薬の正面に立ち続けている。
だが、そのフィルターがいつ限界を迎えて壊れるか、それは彼女自身にもわからなかった。
「……レシピの詳細、必ずラインしてよ。あとはシフトの相談も。いいわね?」
震える声をプロのトーンで押し殺し、結愛は必死に調理台にしがみつく。
彼女にとっての「料理研究会」は、もはや部活動ではなく、自らの理性を守るための「防波堤」へと変貌していた。
◇
・桐谷凛:野生の勘と親愛のくんくん
現役の探索者であり、パーティーでは斥候や前衛もこなす桐谷凛にとって、世界は「情報」の塊だ。音、空気の揺れ、そして何より「匂い」。
そんな彼女の鋭敏すぎる鼻が、ゴールデンウィーク明けの相模湊を放っておくはずがなかった。
「……んん〜。やっぱり今日の湊くんは一段と『最高級』の匂いがする!」
調理室に足を踏み入れた瞬間、凛は磁石に吸い寄せられる鉄屑のように湊の背後に張り付いた。
湊が米粉を計量しているのも構わず、その細い首筋に鼻を近づけ、遠慮なく深く息を吸い込む。
「ちょ、ちょっと凛ちゃん、くすぐったいよ」
「えへへ、ごめんね。でも湊くんの匂いってなんだか『夜明け前の太陽』みたいに温かくて、それでいてお腹が空くくらい甘いんだもん。不思議だなあ、魔力波長がキラキラしてる!」
凛は湊をくんくんと嗅ぎ回るが、そこに結愛のような「異性としての戸惑い」は薄い。
彼女にとっての湊は、一緒にいて心地よい陽だまりのような「親愛」の対象であり、同時にその内側に潜む強大な魔神――ラーナの存在を、野性の勘で「凄く強くて、凄く食いしん坊な魂」として好意的に受け止めていた。
(湊くんの中にいる『あの子』、たぶん私と気が合う気がする!)
凛は、ラーナが湊の意識の端っこで「この娘、鼻が利くな」と感心しているのを、直感的に察知している。だからこそ、湊の放つ猛烈なフェロモンにあてられながらも、彼女の反応は「色恋」よりも先に「食欲」と「親愛」に変換された。
「湊くん湊くん、今日の団子はいつもより多めに丸めてもいい?私、今の湊くんの魔力がこもった料理を食べたら、ダンジョンの最下層までノンストップで走れそうな気がするんだ!」
「あはは、そうだね。凛ちゃんはいつも元気だなぁ」
湊がいつものように優しく微笑み、凛の頭をぽんぽんと撫でる。
その瞬間、凛の全身を、高級な魔力ポーションを浴びたような快い痺れが駆け抜けた。普通なら足が竦むほどの圧倒的な神威。だが、凛にとってはそれが最高に心地よい「おやつ」のようなエネルギーとして吸収されていく。
「あー!幸せ!湊くん、私もう湊くんのこと一生離さないよ。ずっと私のバフ係……じゃなくて、美味しいおやつ係でいてね!」
湊の腕にぎゅっと抱きつき、その温もりを堪能する凛。
その姿は、お気に入りの飼い主に甘える大型犬そのものだ。
恋愛感情というドロドロしたフィルターを通さず、純粋な「好き」と「食べたい」を爆発させる凛は、ある意味でこの調理室において最も湊の毒気に対して耐性が高く、かつ最も湊の傍を陣取ることに成功している猛者であった。
「……ちょっと凛、いい加減にしなさいよ。それ以上嗅いだら、あんたの鼻が糖分で馬鹿になるわよ!」
「えー、結愛ちゃんだって本当は嗅ぎたいんでしょー?ほら、湊くん、結愛ちゃんにも嗅がせてあげてよー!」
「なっ……!?ななな、何言ってるのよこのバカ犬ー!!」
賑やかに騒ぐ凛の明るさは、湊を巡って重苦しくなりがちな空気(主に結愛と琴音の情念)を、カラリとした放課後の部活動へと引き戻してくれる、料理研究会にとってなくてはならない「防波堤」なのだった。
◇
・佐藤琴音:自己顕示欲という名のフィルター
部長の佐藤琴音は、調理室の隅で三脚を立て、スマホのレンズ越しに湊を「検品」していた。
彼女は今、これまでにないほど強烈な「湊酔い」の状態にある。湊が指先を動かし、食材を扱うたびに、レンズが捉える絵面に尋常ではないほどの「華」が宿るからだ。
「……湊くん、少しこっちを向いて。そう、そこで顎を引いて。……っ、完璧だわ……!」
琴音の心臓は、先ほどから壊れた警報機のように早鐘を打っている。湊の放つ無自覚な色気と、魔神ラーナの残滓がもたらす圧倒的な神々しさ。それは本来なら、彼女のような普通の女子高生を瞬時に「魅了」の虜にし、思考を停止させるほどの威力を持っていた。
だが、佐藤琴音という少女には、恋心以上に強固な「業」があった。
それは、「この最高の素材を、世界で一番美しく撮り、バズらせたい」という、猛烈な自己顕示欲と承認欲求である。
(この瞳の輝き……!ライティングなしでこれほどの訴求力を持つの!?普通なら恋に落ちて終わりだけど、私には役割がある。私はこの奇跡をデジタルデータとして固定しなきゃいけないのよ!)
彼女にとって、湊のフェロモンは「自分を惑わす毒」ではなく、「動画の再生数を爆発させる燃料」に他ならなかった。湊の所作にドキリとするたび、彼女の脳内では「今の表情はサムネ確定」「この手つきにスローモーションを入れたら、コメント欄が阿鼻叫喚になる」という編集作業が並行して行われる。
「湊くん、今のみたらし団子を串に刺す瞬間!もう一度、もう少しゆっくりやってちょうだい。……そう、その指の動きよ!まるで芸術品を愛でているような官能的な手つき……これよ、これこそが視聴者が求めているものなの!」
「えへへ、琴音先輩は熱心だね。ちょっと恥ずかしいけど……こうかな?」
湊が少し照れながらレンズを見つめて微笑む。
その瞬間、琴音の指先は歓喜で震えた。普通の女子なら失神しかねないその微笑みを、彼女は「最高の素材を確保した」というハンターのような冷徹な情熱で受け止めた。
「湊くんのこの『発光体』っぷり、絶対に無駄にしないわ……!見ていなさい、世界中があなたの魅力にひれ伏すことになるんだから……!」
数日後、その動画が初の五桁再生を記録し、コメント欄に「この子、人間なの!?」「光の加減がおかしいだろ、神か?」と賛美の嵐が吹き荒れたとき、琴音は自室で「勝ったわ……」と暗く微笑むのであった。
湊の放つ魔力的な毒を、すべて「創作エネルギー」へと変換し、自らの理性を保ち続ける(というか、別のベクトルで狂っている)琴音。ある意味で彼女こそが、湊という存在を最も「消費」し、かつその恩恵を最大限に受けている、最もタフなファンであった。
◇
・佐藤剛:静かなる防波堤と揺るがぬ北極星
一年生の佐藤剛は、その巨躯を折り曲げるようにして、黙々と力仕事を引き受けていた。
部長である姉・琴音の傍若無人な撮影指示や、結愛のピリついた空気、そして凛の燥ぎっぷり。それらすべてを「いつものこと」として受け流してきた彼だが、ゴールデンウィーク明けの相模湊に対してだけは、流石に無視できない戦慄を覚えていた。
(……湊先輩、何というか、もう『重力が違う』気がする……)
湊が通りすがるたびに、剛の肌は総毛立ち、指先がピリピリと痺れるような感覚に襲われる。
それは恐怖ではない。圧倒的な「美」と「熱」を前にした、生物としての敬虔な震えだ。湊が微笑めば調理室の室温が二度ほど上がったような錯覚に陥り、その黄金の瞳に見つめられれば、自分が広大な太陽の前に立つ羽虫のように思えてくる。
「剛くん、重いものは僕も持つよ。半分持たせて?」
「……いえ、湊先輩。……これは俺の仕事ですから」
湊がそっと大きな寸胴鍋の取っ手に手を添える。その白く繊細な指先と自分の無骨な手の対比。ふわりと漂う高貴な香木のような甘い匂い。
剛の脳内でも、一瞬だけ理性の回路がショートしかけた。
(……グレートだ。……もはや拝みたい。……いや、拝むだけでは足りない。もはや神棚に祀るべきでは……?)
もし、彼に「意中の相手」がいなければ、今頃は姉の琴音と同じように湊という名の宗教に入信していたかもしれない。あるいは、弟の蓮のようにアイデンティティの危機に瀕していたことだろう。
だが、剛には、荒れ狂う湊の色香の海において、自分を繋ぎ止めてくれる一本の錨があった。
「あーっ!剛くんずるい!私もそれ運びたかったのに!」
隣で口を膨らませて、パンケーキの粉を抱えた凛がぷんぷんと怒っている。
剛は、そんな彼女の騒々しい様子を視界の端に捉え、静かに、しかし深く息を吐いた。
(……湊先輩は確かに素晴らしい。……だが、俺が本当に『美味そうに食べている姿』を一番近くで見ていたいのは……この人だ)
凛という確固たる好みが、彼の精神を現世に繋ぎ止めている。
湊から放たれる毒気に当てられ、一瞬だけ眩暈がしても、隣で「お腹空いたー!」と喚く凛の存在が、剛を「一人の男子高校生」としての自分に引き戻してくれるのだ。
「剛くん、聞いてる?剛くーん!」
「……大丈夫です。聞いています桐谷先輩。……終わったら、そのパンケーキを焼きますから」
「やったー!さすが剛くん、話がわかる!」
湊の神々しさに圧倒されつつも、それを「尊い仏像」を拝むような穏やかな敬愛の箱に閉じ込め、剛は再び作業に戻る。
彼は、この嵐のような調理室において、最も静かで、かつ最も強固な「防波堤」だった。
どんなに湊が美しく輝こうとも、自分だけの北極星を見失わない――その愚直なまでの誠実さが、彼を相模湊という「美しき災厄」から、辛うじて守り抜いているのであった。




