エピローグ
「本日のおすすめは、食べても死なないシチューです」
「おすすめの基準が最低なんだよ!」
朝一番の食堂に、俺のツッコミがきれいに響く。
再建した廃教会――いや、もう“廃”はそろそろ外してもいいかもしれない。少なくとも見た目だけなら、前よりだいぶまともだ。焼けた柱は新しい木に差し替えられ、屋根ももう雨漏りしない。入口の扉は二度と外れないくらい頑丈になったし、窓辺にはミアが勝手に置いた鉢植えが並んでいる。なぜか半分くらいは食べられる草だ。本人いわく“実用性重視”らしい。花を植える発想はないのか。
朝の光が高窓から差し込み、木の床に長い筋を作っている。煮込み鍋の湯気がその中をゆらゆら流れて、パンの焼ける匂いと玉ねぎの甘い匂いが広間いっぱいに広がっていた。食堂としてはかなり良い朝だ。しいて問題を挙げるなら、看板娘が相変わらず看板娘らしからぬ紹介をしている点だけである。
ミアはカウンターの前で胸を張る。
「でも今日はほんとに安全だよ」
「“今日は”ってつけるな」
「昨日はシエラの薬草がちょっと混ざったから」
「混ぜるなって言っただろ!」
地下室の方から、のんきな声が返ってくる。
「色は綺麗だったよ」
「料理に必要なのはまず安全だ!」
「味もそんなに悪くなかったし」
「そこを争点にしてねえ!」
朝から元気だな、ほんとに。いや、元気なのはいいことなんだけど、方向が毎回おかしい。
食堂の長机には、もう何人か客が座っていた。街道を通る旅人、近くの村から来た農夫、荷運びの御者、それから最近ちょくちょく顔を出す冒険者見習いの兄ちゃん。前みたいに“訳ありのやつしか来ない場所”ではなくなってきている。もちろん、事情を抱えたやつも来る。居場所を探してるやつもいる。けれど今は、それに混ざって普通に腹を空かせた人間も来る。
それが妙に嬉しいのを、まだあんまり認めたくない。
俺は鍋をかき混ぜながら、焼き上がったパンを籠へ移す。表面はぱりっとしていて、割ると中から湯気が上がる。最近は近隣の住民も手伝ってくれるようになったから、小麦の質も少し上がった。料理担当としてはありがたい限りだ。ありがたいんだけど、なぜ俺が異世界で食堂の主みたいになっているのかについては、いまだに納得しきれていない。
「ユウ、追加のスープ!」
レティシアが奥から声をかけてくる。
「はいよ」
返事をしながら振り向くと、彼女は入口近くの長ベンチを整えていた。あの人、もうすっかり“この場所を守る人”の顔になっている。騎士団の正式復帰要請は、そのあともう一度来た。今度はもっと丁寧な文面で、待遇も悪くなかったらしい。
でもレティシアは結局、ここに残った。
断る時に何て書いたのか聞いたら、「必要とされる場所で職務に就いています」と返したそうだ。強い。昔の彼女なら、たぶんそんな風に書けなかった。今は違う。肩書きより先に、自分の立つ場所を自分で決めている。
もっとも、私生活の残念さだけは変わらなかった。
昨日も親切心で朝食を作ろうとして、卵を三つほど爆発させている。どういう才能だ。料理だけ別の呪いでもかかってるのか?
「入口の見張りは問題ありません」
レティシアがそう報告してくる。
「それと、北側の柵を少し補修した方がいいかと」
「了解。昼すぎに見に行く」
「私もご一緒します」
「肩は?」
「もうかなり回復しています」
「その“かなり”が信用ならないんだよな……」
それでも無茶を止めきれないのが、最近の悩みである。いや、前からかもしれない。
ミアは客にパンを配りながら元気よく言う。
「おかわりは三回まで無料です!」
「勝手に制度を増やすな!」
「え、だめ?」
「材料を考えろ」
「じゃあ二回半」
「半ってなんだよ!」
客が笑う。最近はこういう笑いが自然に起こるようになった。俺のツッコミが定着してしまった感もある。複雑だ。いや、別に嫌じゃないけど。
地下室からシエラが上がってきた。両手に本と紙束を抱え、髪はいつもどおりちょっとぼさっとしている。研究に没頭してるときのあいつは、寝起きなのか徹夜明けなのか見分けがつかない。
「ユウ、あとで地下来て」
「嫌な予感しかしない」
「安心して。今日は解剖じゃない」
「安心材料の基準が狂ってる!」
「祭壇の記録室、少し動いた。新しい反応が出てる」
俺は眉をひそめた。
あの地下祭壇は、今では“願いの記録室”として使っている。人が自分の望みや迷いを書き残せる場所。大げさな仕組みじゃない。でも、ここへ来る人間の中には、そこで初めて自分の願いを言葉にするやつもいる。
昔みたいに“こう生きろ”と押しつけるための装置じゃなく、“自分で選ぶため”の部屋に変える。それが案外、この場所の核になっていた。
「何の反応だ」
「まだ確定じゃないけど、外から来る“ズレた加護”に反応してる感じ」
「それ、また面倒の匂いしないか」
「する」
「断言するな」
シエラはにやっと笑う。
「でも、面白そう」
「そればっかりだなお前」
朝の忙しい時間がひと段落すると、ようやく俺も客席の様子を見る余裕が出る。木の皿は空になり、パン籠は半分まで減り、窓辺では子どもたちが宿題みたいな字の練習をしていた。以前なら、こういう光景を見てもどこか借り物みたいに感じていた気がする。
今はちゃんと“うち”の風景に見える。
それが、たまに少し怖いくらいだ。
怖いけど、目をそらしたくはない。
昼前、外の見回りへ出ようとした時だった。
入口の扉が、こんこん、と遠慮がちに鳴る。
珍しい叩き方だなと思う。常連はもっと雑に入ってくるし、ミア目当ての子ども連中はノックなんて概念がない。旅人にしては慎重すぎる。
レティシアが先に扉へ向かい、俺も少し遅れてその横へ立つ。シエラはなぜかもう面白そうな顔をしている。やめろ、その顔。まだ何も起きてない。
扉が開く。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
年は十六、七くらいだろうか。淡い灰色の旅装束に、少し擦り切れたマント。髪は短く切りそろえられているが、ところどころ不器用に自分で切ったみたいな跡がある。背中には大きすぎる荷物。顔立ちは整っているのに、目の下にうっすら隈があった。ずっと寝不足で、ずっと気を張ってきた人間の顔だ。
そして何より、その視線が気になった。
まっすぐこっちを見るくせに、どこか逃げ道を探している。近づきたいのに、近づいたら追い返されるかもしれないとわかってる目だ。
……見覚えがある。
昔の俺だ。いや、俺だけじゃない。ここにいるやつ、だいたい一度はそういう目をしていた。
少女は小さく口を開く。
「あの……ここ、追い出されないって聞いて」
食堂の空気が、一瞬だけ静かになった。
ミアがぱちっと瞬きをする。レティシアの表情がやわらかくなる。シエラは完全に“来た”って顔をしている。やめろ、研究者の顔で喜ぶな。
俺は一度だけ深く息を吸って、それから扉の向こうの少女を見る。
言うことなんて、たぶん最初から決まっていた。
「飯はある」
少女が目を見開く。
「え」
「あと、座る場所もある」
俺は少しだけ肩をすくめた。
「ただし、面倒ごと持ち込みなら先に言え。こっちも準備がある」
一拍遅れて、ミアが元気よく手を挙げる。
「ごはんくれる人に悪い人はいないよ!」
「お前、その理論まだ使うのか」
「便利だから」
「雑なんだよなあ」
レティシアが少女へベンチを勧める。
「どうぞ。まずは休んでください」
シエラは横からのぞき込もうとして、俺に額を押し返された。
「観察はあとだ」
「まだ何も言ってないのに」
「顔に出てる」
少女は戸惑いながらも、そっと中へ足を踏み入れた。たぶん緊張している。たぶん腹も減っている。たぶん、相当な面倒も抱えている。見ればわかる。なんでこう、事情ありげなやつってのは最初から空気で自己紹介してくるんだろうな。
ミアが張り切って椀を用意する。レティシアは荷物を下ろすのを手伝い、シエラは興味津々を隠す努力くらいはしている。努力だけは。
俺は鍋の蓋を開ける。湯気がふわっと立ち上り、野菜と肉の匂いが広がった。
食堂の外では、風が新しい看板を揺らしている。前より少しだけ綺麗になった字で、“帰ってきていい場所”と書いてあるのはミアの趣味だ。さすがにこっぱずかしいからやめろと言ったのに、住民側が気に入ってしまって外せなくなった。
ほんと、なんでそうなるんだろうな。
でもまあ、悪くない。
俺は新しい来訪者の前へ椀を置く。
「ほら。冷める前に食え」
少女は少しだけ震える手でそれを受け取り、信じられないものでも見るみたいな顔をしたあと、ようやく小さく笑った。
その顔を見た瞬間、俺はだいたい悟る。
ああ、また増えるな、と。
面倒も、騒がしさも、たぶんこれからもっと増える。静かな日常だけで終わるわけがない。この場所はそういうやつらが勝手に流れ着いて、勝手に席を作っていく場所になってしまったらしい。
困る。すごく困る。
困るけど――
「ユウ、パン追加!」
「はいはい!」
「この子の分、ちょっと多めでいい?」
「最初からそのつもりだよ」
俺は呆れながら鍋をかき混ぜる。
窓の外には青空。食堂の中には湯気と声と、まだ名前も知らない新しい未来。
追い出された俺が作った場所は、気づけば誰かの“これから”を受け入れる場所になっていた。
それならたぶん、もうしばらくは忙しくなる。
……ほんと、静かに暮らしたいだけなんだけどな。




