運転手 宮野
私はおじさまを見送ると、今度こそ会社のビルを出た。これ以上ここにはいられない。
ちょうど昼の時間だし、どこか店に入ろうと辺りを見回す。食欲はないけど、温かいコーヒーでも飲んで落ち着きたかい。
するとビルの入り口で社長の車から降りてきた人を見て体が止まる。
「宮野さん」
向こうも私の姿を見て、破顔して丁寧にお辞儀をした。
宮野さんは川村家お抱えの運転手だ。今は社長であるおじさま付きの運転手だけど、いなくなる前の優さんの担当をしていた。宮野さんがまだ若い頃は遊びに来ていた私を家まで送ってくれたことも何回もあった。
歳をとって白髪も増えているけれど変わらず優しい笑顔で迎えてくれて、会うとちょっとほっとする。
「お久しぶりです」
声をかけると宮野さんはまた頭を下げた。
「今日はどうされたんですか?」
「優さんのことで」
そう言ったら、訝しげな顔をした。
「何かありましたか?」
「あ、いえ。私、優さんのことを探していて。何か手がかりがあればと思って話を聞きにきたんです」
素直にそう言ったら、宮野さんは苦い顔をした。
「そうですか」
「でも、全然。空振りです」
「失礼ですが、どなたとお話を」
「優さんの秘書の田辺さんに」
その答えに宮野さんははっきりと苦笑いした。
「あの方ですか……」
含みのある返事に私は驚く。宮野さんは真面目であまり人への気持ちを出さない。宮野さんが田辺さんにいい感情を持っていないのは分かったけれど、それを顔に出すとは思わなかった。
私はそれを見て、心を決めて宮野さんに向き直った。
「あの、宮野さん、お願いがあります」
「はい?」
宮野さんは驚いた顔をした。
それからしばらくして、私は宮野さんと会社の近くの喫茶店に来ていた。個人経営の店は、昼の混雑時間をすぎているからか空いていて、落ち着く。
席に着くと早速私は宮野さんに向かって苦笑いした。
「優さんの事で、できるだけのことをしたくて……私、優さんを探すことにしたんです」
宮野さんは驚いた顔をした。
「それは……お一人では大変ではないですか?」
「いえ、少しずつできることからと思っているので。時間がかかっても、もう一度会ってきちんと話をしたいんです」
私は宮野さんに向かって苦笑いした。
「だから優さんの居場所を知る手がかりが欲しくて、ここに来たんです」
そう言ったら、なるほど、と宮野さんは大きく頷いた。
「でも田辺さん、かなり手強くて結局何も教えてもらえなかったんです」
予想できる答えだったのか、宮野さんも苦笑いで答えた。
「あの方はどうしても社長秘書になりたくて、でも優様がいなくなってそれが難しくなったので不満なんです」
「そうなんですか?」
「その後、明様の秘書になろうとして断られたようですので、気持ちが落ち着かないのかもしれませんね」
宮野さんは苦笑いした。私もつられて苦笑いする。
確かに押しの強い人で明とは合わなそうだけど、すぐに希望する方も断る方もすごいと思う。
「秘書にとってはどの方につくかで運命が決まりますからね」
それは私にもわかる。付いた上司が出世してくれれば、いい事も多い。さっきの彼女を見て、それも頷けた。
宮野さんは穏やかに笑った。
「でも懐かしいです。まだお子様だったお二人が結婚されるなんて思いもしませんでした。ランドセルの頃から知っていますからね」
随分昔のことを言われて、恥ずかしい。
「会社を継がれる優様を春奈様と明様で支えて、会社を盛り立てていくと思っていたので、今回のことは私もとても驚きました」
伏せた顔には本当に驚いている様子が窺えて、私もしんみりしてしまった。
「社長も気丈に働いていますけれど、やはり心労は隠せません。一人で車に乗るときはいつも難しい顔をされていますよ」
さっきのおじ様の顔が浮かんだ。
子供の頃から、優さんはおじ様に1番可愛がられていた。
後を継ぎたいという優さんの気持ちも、おじ様はとても喜んでいた。
こんな事になって、親として子供を心配する気持ち、だけど会社を動かさなければならないという重圧。悲しむ暇もないだろう。
私はため息をついた。
「明が優さんの仕事を引き継いだのですか?」
宮野さんは穏やかに笑った。
「そうです。明さまはしっかりされていますね。頼もしいです」
「どんな感じですか?明」
「とても精力的に働いてますね。優様のお仕事もほとんど請け負ってらっしゃいます。仕事を移られたばかりですので、大変だと思いますが非常に淡々と、でもしっかりこなされていますよ。遠くから見ていても感心します」
明は優秀だし、もともとプレッシャーと無縁の人間だった。だからきっと急な仕事の変化にもすぐに対応できるだろう。
しかも驚くほどいい成績を出すのだろうと予想する。
「明がいて本当に良かったですね」
「そうですね。優様がいなくなられる前に会社に戻られていたので、そう言った意味でもいいタイミングでした」
「いいタイミング、ですか」
私の言葉に宮野さんは焦った顔をした。
「すみません、優様がいなくなったことを言っているのではなくて……明様が川村に入って時間が経っていたので、明さまが優様の仕事をうまく引き継げたんです。社長の仕事もすぐにお手伝いできる状態だったので、社長もとても助かったと思います。社長も一度退く準備をされていたので、また最前線に戻ると言っても体力的にも気持ちの面でも大変だったと思いますので」
「あ、わかってます。気にしないでください」
私は逃げ笑いしてコーヒーを飲んだ。
「優さんは自分がいなくなっておじ様や会社に影響が出たらきっと悲しみます」
「それは大丈夫ですよ、明様がいれば」
宮野さんは大きく頷いた。
「社長は昔から明様の優秀さを褒めていらっしゃいましたし、大学を卒業して他の会社に就職されたときは本当に残念がっていました。明様が戻ってきて一番嬉しそうにしているのは社長ですよ。だからこそ今の仕事ぶりにも満足されているでしょう」
宮野さんの声に入っていて、それを聞くだけで、明がどれくらい期待されていて、すでにどれだけ期待に応えているのかわかる気がした。
確かに明が他社に就職した時のおじさまの落胆ぶりはすごかった。
定例の家族同士の食事会でも、口数が減ってしまうほどだった。優がいるからいいじゃないですかと明子さんが気を遣っていたのを覚えている。
「優がいるから、大丈夫ですよ」
だけど、おじさまはそれにどう返事をしたのだろうか、思い出せない。
『明は頼りになる』
ついさっき、そう言っていたおじ様を思い出す。
とても満足そうな顔をしていた。
頼りにしていた長男の不在は、優秀な弟の仕事ぶりに隠れてしまっていた。
「でも、みんな優様のおかえりを待っているのですよ」
宮野さんの言葉に我に返る。
「早く帰ってきて欲しいですね」
そう言われて私は頷いた。
「あの、宮野さん」
「はい」
「優さん、悩んだりしていませんでした?」
そう言ったら宮野さんは途端に眉根を寄せた。
「それは、たくさんの社員を預かる立場ですから、悩むこともたくさんあったと思いますよ」
「そう、ですよね。立場がありますからね」
それは私の求めていた答えとは違った。
だけど、間違いのない事実だと思う。会社をまとめる立場で、悩まない人なんていない。
「ですよね」
「そうですよ。ですからご心配されるようなことはありませんよ」
私は小さく息を吐いた。
「でも……」
「え?」
宮野さんは視線を落とした。
「確かにいなくなられる前、少し変わったと思ったことがありました」
私は思わず身を乗り出した。
「それはなんですか?」
宮野さんは少し躊躇って、それから口を開いた。
「お酒を召し上がる回数が増えていたように思います」
「お酒?」
「優様はお酒を飲むときは、いつも銀座の古いバーに行かれるんです。もちろん仕事終わりに行かれるので、遅い時間に少し行く程度でしたけれど。確かにその回数は増えていたと思います」
そんなこと、聞いたことがなかった。
仕事終わりに飲みに行くことも、行きつけのバーがあることも知らなかった。
そんなに飲みたいと思ったことがあったことも。
私は思い切って尋ねてみた。
「あの、そこで誰かと待ち合わせしている、とかありませんでした?」
宮野さんは苦笑いした。
「さあそこまでは。そこに行くときはお店の前で別れて、私は先に帰っていいと言われていましたから」
中での様子は分かりません。そう宮野さんは丁寧に答えた。
「そう、ですよね」
そのお店で待ち合わせたり、もしくはお店に行ったふりをして、他の場所に行くことだってできる。
お店の前で別れる宮野さんには、これが限界だろう。
思わず肩を落とした私に、宮野さんは慰めるように笑った。
「優様は必ず戻られますよ。ですから、気を落とさないでください」
顔を上げると、もう一度宮野さんが大きく頷いた。
だけど、私はそんな気になれなかった。
優さんの手がかりは何もないままだ。