もう一つの初恋
休みの日の午後、俺はコーヒーショップでコーヒーを飲んでいた。外はいい天気で休日の1番楽しく過ごせる午後に呼び出して来た相手を恨めしく思っていた。
「お待たせ」
俺の座るテーブルの前で人が立ち止まったのがわかって、顔を上げた。
「久しぶり」
「……おう」
「何それ、私、先輩なのに」
目の前の女性は不満そうに言って、目の前の席についた。水を持ってきた店員にアイスコーヒーを頼む。
あっという間に届けられたコーヒーを飲んで、俺の方へ身を乗り出してきた。
「色々片付いた?」
「まあな」
春奈から話は聞いているのだろう、彼女は多くは語らなかった。俺は彼女に向けて口を開いた。
「全部終わったよ」
そして兄貴がいなくなってから起きたたくさんの出来事を思い出す。
兄貴がいなくなった後、あっという間に探偵が居場所を突き止めた。母さんが会いに行って、あまりの事に泣いて帰ってきた。そして親父は弁護士を派遣した。
遺産相続権は剥奪する。今後会社に関わらない。川村の家にも立花の家にも関わらない。川村の名前を利用しない。その他にもたくさんの厳しい条件を弁護士が提示した。
なかなかまとまらなかったその話し合いが、この間ようやく終わった。
春奈が会いに行く前にはほとんど固まっていたけれど、その事があって親父はさらに厳しい条件を提示した。春奈と……多分俺を守るためだ。
兄貴は何も言わなかったけれど、谷川さんはお金の事を色々言ってきたらしい。でも弁護士がうまく片付けた。
弁護士にお任せだったとはいえ、片付くまで家の中には暗い空気が漂っていた。
兄貴はまだわかっていないけど、谷川さんは結構強かだから、兄貴はこれから苦労すると思う。
それがわかっていたから、親父は谷川さんとの交際を止めた。
勉強だけが理由じゃない。
知らないのは兄貴だけだ。
兄貴が送ってくる野菜も、もうやめてもらおうと思っている。兄貴の気持ちは少し落ち着くかも知れないけど、受け取る方は誰も幸せになれない。
それにその事で恩を着せられても困る。
でも、この間ようやく全てが終わった。
俺が考え込んでいると、目の前の彼女が口を開いた。
「春奈とはしばらく会うのをやめようって言われたでしょう?…ねえ、どうするの?」
俺は片眉を上げた。
「それ、先輩に報告する義務ありますか?」
それにムッとした顔をした。でもその後に
「相変わらず可愛くない」
俺の返事を彼女は冗談だと思ったのか笑った。本気で言っているのに、わかっていないのか、と呆れた。
目の前の彼女の事を、俺はあまり好きじゃない。
黒木エミ。春奈の同級生。昔ながらの言い方をすれば、親友ってやつだ。
女の友情なんて、ものすごく軽いものだと思うけどね。
1番信用ならない物だと思う。
「で?今日は何?」
俺の質問に黒木エミはものすごく苦い顔をした。
「ちょっと確認、というか言っておきたい事があって」
そうして姿勢を正して俺に向き直った。
「春奈に会うのやめようって言われて、その通りにするのかなって。そんなこと言っているけど、春奈は絶対に今回のことで傷ついているし、支えてあげる人がいたほうがいいと思うの」
そう言って俺をチラリとみる。
「それで俺に何が言いたいんですか?」
少し躊躇った後で、黒木エミは思い切って俺を見た。
「春奈のこと、本気だよね?簡単な気持ちじゃないのよね?だったら、春奈のことを支えてあげてほしいなって」
あまりにも予想外のことを言われて、俺は驚いた。彼女はじっと俺を見返した。ため息をついて、口を開く。
「そうだとして……黒木先輩に言う必要あるかな?」
彼女は苦い顔をして、私に向き直る。
「明くんが春奈の事を好きなら、しっかり春奈のことを幸せにしてあげてほしい。……多分春奈も明くんのことが好きだと思うから」
俺はため息を飲み込んだ。
一生懸命なことも、春奈を思って言っていることもわかる。
だけど間違っている。それは周りが言うことではない。
それを知って春奈が喜ぶと思えない。
忠告したい気持ちを抑えて、俺は社交用の笑顔を浮かべる。
「心配しなくて大丈夫です。春奈のことは俺がちゃんとします」
そう言ったら、黒木エミは嬉しそうにわらった。
「そうよね。春奈の事、好きだよね?」
俺はもう一度笑ってそれに無言で返事した。
だけど黒木エミは満足したように笑った。目の前のコーヒーを飲み干す。
「良かった。私、それが本当に気になっていて」
「心配する必要はないです」
「本当に良かった。それが気になって明くんのことを呼び出したの。ごめんなさい」
言うだけ言うと、荷物を手に取った。
「じゃあ、私行くね。呼び出してごめん。忙しいのに時間くれてありがとう」
「どうも」
立ち止まってもう一度俺を見る。照れたように俺を見た。
「ありがとう」
「え?」
黒木エミは嬉しそうに笑った。
「春奈は私の大切な友達だから。今度こそ幸せになってほしいの。明くんなら、春奈の事、安心して任せられる」
俺は笑って頷いた。
「ちゃんとしますので、ご安心を」
「あ、じゃあ、明くんに耳寄りな情報をひとつ」
黒木エミは腰を落として俺に近づくと、声を落とした。
「春奈、今この近くで友達と会ってるよ」
「友達?」
誰だろうと思っていると、黒木エミはおかしそうに笑った。
「優さんの昔の彼女の浜田さん。最近よく連絡を取っているんだって。あの二人が仲が良いってなんだかおかしいよね」
俺は彼女をチラリと見た。
「親切にどうも」
そう言ったらにこりと笑って、今度こそ黒木エミは店を出た。
その後ろ姿を見送って、俺は大きなため息をついた。
黒木エミは、世間一般的に『とてもいいヤツ』だと思う。
明るくて優しくて面倒見がいい。正義感も強くて困っている人を放って置けない。
だけど、『誰にでも優しい』と言うことは時に無意識に人を傷つける、残酷な凶器になる事もある。
それを教えてくれたのは、他でもないあの人だ。
黒木先輩、俺はあなたみたいな人が大嫌いだ。
誰にでも親切にしたら、みんなが幸せになると思っている。
そんなことない。
あなたの言う『親切』とか『優しさ』が人を傷つけることだってある。
その証拠に、あなたが谷川仁志に気軽に優しくしたから、親友の春奈は辛い思いをすることになった。
それなのに、春奈が幸せになれるか心配で、そのために俺を呼びつけるなんて、とてもおかしいと思わないか?
全てはあの日に始まった。
あの時谷川仁志に会わなければ、きっと春奈は予定通り兄貴と結婚していた。
俺は頑張ったけど、きっと結婚を止めるまではできなかったと思う。結婚したら兄貴も春奈を妻として愛する努力はしたはずで、それなりにうまく行ったと思う。
だけど兄貴には秘密があった。
兄貴の中の隠された感情。
仕事がうまくいかない。婚約者とうまく行っていない。家族へのコンプレックス。
ここから逃げたい……そんなとても小さな感情を大きく育てたきっかけは谷川さんとの再会だ。
谷川さんと再会してそれらが一気に膨れて、弾け飛んだ。
あの時、俺に谷川仁志を会わせなければ、こんなことにはならなかった。
俺に谷川仁志という切り札を渡したのは、黒木先輩だ。
歯車を狂わせたのは、あなただよ。
あなたの善意が始まりであり、決定打だった。
苦い気持ちを飲み干すように、俺は目の前の冷めたコーヒーを飲み干すと、店を出た。ふと思い立って携帯で電話をかける。
すぐに出た相手に、俺は話しかける。
「今どこ?」
「え?今?」
「今、俺も外なんだけどちょうど用事が終わったから、春奈が良ければ会えないかな、と思って」
電話の向こうはちょっと戸惑ったような声を出す。
「で、今どこ?」
春奈はためらったけれど、結局今の居場所を教えてくれた。意外にもとても近い。走っていけばすぐに着くようなところだった。
「ちょっと待ってて」
俺は電話を切りながら走り始めた。
人混みをかき分けて進むと、そこで待っていたのは春奈だった。
その姿を見たら、自然と笑顔になった。
色々と理由をつけて俺から距離を取ろうとする彼女を、俺は諦めきれない。
春奈は、本当に辛い思いをしたと思う。
彼女が兄貴を探すのは、本当はやめてほしかった。いなくなる前の兄貴はやりたい放題で、嘘ばかりついていたし、谷川さんの事を知ったら、絶対に傷付くと思った。
真実を知らない方が、傷つかないこともあるのに、どうしてそんなことをするのだろう。
だから俺は春奈の1番近くにいようと決めた。この先は傷つかなくていいように、絶対に守ろうと思った。
これからだって、そのつもりだ。
並んで歩きながら、俺は彼女に話しかける。
「浜田さんと何の話をしていたの?」
春奈は少し固まって、それから目線を上げて俺を見た後に、口を開いた。
「秘密」
それにとても嫌な予感がした。
だから思わず聞いてしまった。
「男を紹介するとか言われたんじゃないだろうな」
そう言ったら、春奈は驚いたように目を見開いて俺を見た。
その顔を見るだけでわかる。俺が言ったことは正解だ。
思わず大きなため息がでた。
「余計なことをする人だな」
そう言ったら、隣の春奈がおかしそうに笑った。
色々と言い返してくるけれど、全部ただの言い訳で、男友達、なんて都合のいい呼び方だと思う。
「春奈が知らないだけだよ。女性のそういうお節介って、本当に良いことがない」
そう言って大袈裟にため息をつくと春奈は苦笑いした。
「何それ?そんな経験があるの?」
それに俺は肩をすくめた。
「そうだね。苦労したことがあるよ」
俺は少し前のことを思い出す。
俺は自分の周りの女性たちに苦労ばかりさせられていると言ってもいいと思う。
俺は思わずもう一度ため息を吐いた。
「春奈を一番大切にしているのも、一番思っているのも俺だよ」
これだけは忘れないでほしい、そう思った。
浜田さんが彼女に男を紹介するなんて思わなかった。
うちの母親といい、黒木エミといい、浜田さんといい、どうして彼女の周りはお節介な女性ばかりなのだろう。
これ以上は邪魔しないでほしい。
彼女の隣は俺の場所だから、それだけは譲らない。
思わずうんざりした顔をしたら、それを気にしたのか春奈が俺に頼み事をしてきた。
もう少し待っていてほしい。
その願いを、俺は驚きながらも、もちろんすぐに引き受けた。
「でも、できるだけ早くしてくれないと、さすがに待ち切れない」
少し背をかがめて春奈を見つめると、照れたように視線を逸らせた。
「待ちきれなくなったらすぐに迎えに行くから、早くしてよ」
そして顔を赤くして、頷いた。
「うん、わかった」
その返事に満足して俺は彼女に笑いかける。
「行こう」
俺は彼女の手を握った。
思いもかけずその手が握り返されて驚いて彼女を見ると、彼女も視線をあげて俺を見た。
その耳が赤くなっている。
もう後少しかな、とその顔を見て思った。
あと少しで、きっと俺の願いは叶う予感がする。
油断はできないけど。
思わず小さく笑うと、彼女が怒ったような声を出した。
「何?」
「……なんでもない」
俺と視線を合わせて、春奈は笑って前を向いた。
俺は彼女の手を強く握った。
絶対に手放さない、そう思いながら。
俺は兄貴みたいに君に寂しい思いをさせたりしない。
次に春奈が幸せになる時、隣にいるのは俺だよ。
誰よりも幸せにするから、信じて。
だって、君は俺の初恋の人だから。
<完>




