遠出
アメリアが三歳くらいです。
雲一つなく晴れ渡った高い空に、はしゃぐ二つの声が響く。
「アメリア、こっちだよ!」
「まってー!」
馬車から降りた瞬間、広い芝生の上を走るクリストファーの後に、妹のアメリアが走って追いかけようとする。
そんな二人の背を押すように、涼やかな風が吹き抜ける。
「二人とも、勝手に遠くまで行ってはだめよ……!」
はしゃぐ二人にシャーロットが声をかけるが、遊ぶことに夢中なのか、大小二つの背は止まる気配がない。
クリストファーが広い芝生の上を一周するように駆け回っているのを、アメリアは一生懸命追いかけようとしているが、まだ幼いアメリアの拙い走り方は見ていて危なっかしい。
その小さな足が草に引っかかって転びそうになったとき、側から大きな手が抱き上げた。
「二人とも、あまりお母様を困らせるんではない」
アメリアは抱き上げた大きな手の主を見て、弾けるように笑った。
「おとうさま!」
背の高い父に高く抱き上げられて嬉しかったのか、レジナルドの首に小さな手を回して抱きついた。
先を進んでいたクリストファーも踵を返して戻って来る。
「ごめんなさい、お父様。アメリア、手を繋ごうか」
「うん!」
アメリアは父の腕の中から降りると、差し出されたクリストファーの手を握り、二人は並んで歩き始めた。
そこへようやくシャーロットが追い付く。
「旦那様、二人は……」
「手を繋いで一緒に歩いている」
「良かった……。最近、クリストファーの足がとても速くて……。アメリアもすぐついていくので、追いつかないんです」
「今日は泊りがけだから、余計にはしゃいでいるんだろう」
「そうかもしれません。昨日はなかなか眠ろうとしなかったので」
シャーロットは少し先を並んで歩く子どもたちの背を見て、柔らかな笑みを零した。
レジナルドが久しぶりにまとまった休みを取れたため、今日は山間の保養地に泊りがけで遊びに来ている。
クリストファーとアメリアの二人はこの日をとても楽しみにしていたらしく、昨夜は高揚感からかなかなか眠ろうとせず、今日も屋敷を出たときからはしゃいでいた。
「お父様、お母様、早くー!」
「はやくー!」
少し前を歩いていた二人は、同時に振り返って両親を呼んだ。
シャーロットはレジナルドの方を見上げて笑みを零し、二人に手を振りながら返事をした。
共に来ている使用人たちも次々と馬車から降り、お茶やお菓子などの荷物も持って、景色の良い場所まで移動する。
クリストファーとアメリアは再び芝生を駆け回り始めた。
兄のことが大好きなアメリアは、クリストファーの真似をすることも好きだ。
貴族の令嬢として生まれたのにお転婆で大丈夫だろうかと、シャーロットは少し心配だったが、レジナルドはあまり気にしていないらしく、のびのびと育っている。
アメリアは裾に木の葉をたくさんつけながら、シャーロットの方へと戻ってきた。
「どうしたの、アメリア」
敷物の上に座っていたシャーロットの膝に、アメリアが飛び込んでくる。
その手には白い花が握りしめられていた。
「このおはな、おうちにさいてるのといっしょ」
屋敷の庭にも多く咲いている、小さいけれど白く可憐な花だ。
シャーロットが好きで屋敷にも植えて貰っているので、アメリアは覚えていたらしい。
「お母様の大好きなお花よ」
「わたしも、すきー!」
シャーロットとアメリアが笑いあっている様子を、側でレジナルドが優しい眼差しで見つめている。
穏やかな風が山間を吹き抜けていた。
しばらくすると、先ほどまではしゃいでいたアメリアが、うつらうつらと舟をこぎ始めた。
「アメリア、眠いの?」
「ううん……」
アメリアは首を横に振ろうとするが、眠気の方が勝るのか体をシャーロットに傾けている。
「そろそろ宿に戻ろう」
「そうですね、アメリアもお昼寝の時間ですし」
レジナルドがアメリアを抱き上げたときには、もう瞼も閉じようとしていた。
シャーロットも頷いて帰る支度をしようとしていたら、クリストファーが少し不満げな表情を浮かべた。
「もう戻るの?」
「アメリアが眠いようなの」
「でも、もっと遊びたいよ……」
「クリストファー。明日、出発するまで時間があるから、朝にまた来よう」
「はーい……」
クリストファーはまだ遊び足りなさそうだったが、アメリアが眠いことを説明する母と、明日また連れてくると約束をしてくれる父に、少し残念そうにしながらも頷いた。
しかし、昨夜遅くまで起きていたせいもあってか、宿に戻る頃にはクリストファーもすっかり寝てしまい、アメリアと二人お昼寝となった。
仲よく眠っている二人の側にいるシャーロットに、侍女のデボラが静かに声をかけた。
「奥様。坊ちゃまとお嬢様は私たちが見ていますので、旦那様とご一緒に散策などしてきてはいかがですか」
「え?」
「せっかくですから、お二人で出かけてきてくださいませ」
デボラの言葉に、側にいた子守たちも頷いている。
突然の提案に戸惑ったシャーロットはレジナルドの方を伺うと、レジナルドは静かに頷いた。
「そうだな」
それを聞いたシャーロットは、慌てて帽子を被り直し、差し出された腕を取って再び外へ出た。
少し陽が傾き始め、橙色に染まる空の下をゆっくりと歩く。
宿からほど近い川辺は遊歩道が整えられており、ところどころにベンチもあるものの、今は他に散策する人影はなくときおり鳥の鳴き声が聞こえるくらいだった。
「どうした? 静かだな」
シャーロットは普段から物静かな方だが、さらに静かなことに気づいたレジナルドは顔を覗き込んで尋ねた。
シャーロットは白い頬を微かに赤らめ、少し俯きながら口を開いた。
「こうして二人でいることは、初めてだと思いまして……」
その言葉にレジナルドが僅かに目を見開いた。
夜会などに夫婦で出席したり、眠る前に二人だけで語らぐことはあったが、こうして二人きりで散策することは初めての経験だった。
まるで、恋人たちの逢瀬のようだ。
シャーロットは少しこそばゆいと感じた。
「そうだったか……。すまない、もう少し二人の時間を設けるようにしよう」
「あ、いえ、そういう意味で言ったわけではないのです」
申し訳なさそうなレジナルドの声に、シャーロットは慌てて首を横に振った。
二人の関係には最初からクリストファーがいて、最近はアメリアも生まれ子どもたちにまだ手がかかる頃なので、夫婦二人だけの時間というものは難しい。
それを不満に思っていたわけではなく、この結婚の前に恋人がいたことのなかったシャーロットにとって、こうして二人で歩くことが少し新鮮だっただけだ。
結婚して子どもも二人いるというのに、まるで恋人たちのようだと気恥ずかしくなってしまった。
「家族みんなで一緒にいるときが私はとても幸せです」
早くに家族を亡くしたシャーロットにとって、今の暮らしは幸せと言えた。
形だけの夫婦だと思っていたレジナルドととも、今は本当の夫婦となれた。
これ以上の望みはないと思っている。
「もちろんそれも良いが、こういう時間もたまには良いと思う」
レジナルドは組んでいた腕を引き寄せて、シャーロットの手を指先で撫でた。
シャーロットは頬を赤らめて頷く。
「あの、たまにで良いんです……。子どもたちがもっと大きくなってからでも、もっと先でも……」
「それは、私が少し待ちきれないな」
あまりにも長い先のことを言うシャーロットに、レジナルドは小さく笑った。
不意にレジナルドは背を屈めると、何かを手にしてから再びシャーロットの方を振り返った。
手にしていたものを、シャーロットの髪に挿しこむ。
何だろうと思ったシャーロットの視界の端に映ったのは、あの白い花だった。
珍しい花ではないので、歩道脇にも多く咲いている。
「似合っている」
珍しくはなくとも可憐なその白い花に、レジナルドは穏やかな表情を浮かべてシャーロットを見つめた。
まっすぐに見つめる瞳に、シャーロットは恥ずかしそうに微笑みを零す。
レジナルドは花を添えたシャーロットの頬を撫でると、そっと引き寄せて口づけをした。
髪に挿した白い花が、夕焼けで赤く染まっていた。
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