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伊織君が帰った後、結局、桐生が片づけを全部やってくれた。
だから、私はすることがなくて、ふてぶてしいこの猫のぬいぐるみと戯れている。
嫌だわ、ちょっと愛着わいちゃってる。
どうしようかしら。
「神崎、コーヒー飲む?」
「あ、ほしい」
「了解」
片付け終えた桐生は、棚からマグカップを2つ取り出してコーヒーを淹れてくれる。
コーヒー独特のにおいが部屋中に広がって、鼻孔を掠めた。
「はい」
「ありがとー」
ミルクがすでに入れられたそれに口をつける。
この何とも言えないほろ苦さが好きで、いつからかコーヒー好きになってしまった。
「神崎、」
「なに?」
テーブルを挟んで反対側に座った桐生は言いにくそうに話を切り出す。
思わずこっちまで緊張してしまう。
「あの、さ、」
「うん?」
「その……悪かった」
「は?」
「巻き込んで悪かったよ」
俯きがちにそう言った桐生は、そっと伏せていた瞳をこちらに向ける。
漆黒の瞳は濡れはしないものの、まるで泣いているように見えた。
「怪我までさせたし‥ほんとにごめん」
「怪我って‥別に大した怪我でもないんだから」
そんな謝られても困る。
そりゃあ巻き込まれて病院にでも送られたら文句の1つや2つは出るかもしれないけれど。
こんなかすり傷のようなもの。
正直、子どもの頃によくした火傷とかのがよっぽど重傷だ。
「でも巻き込んだ。巻き込んだし、」
「し?」
「…怖がらせた、よな」
その言葉に、私は何も言い返せない。
だってそれは、間違ってないから。
あの時私は、少なからず怖いと感じた。
そしてそれは、あの北高生をではなく、目の前にいる桐生を、私は怖がった。
「ごめん」
「…それなら、私だってごめんだね」
「………は?」
そうだ、私もごめんなさいだ。
「桐生を怖がったのは事実だから。ごめんなさい」
「お前が謝ることじゃないだろ」
「ううん。助けてくれようとした人を怖がるなんて、やっちゃいけないと思うんだよね、私は」
申し訳ないよ、やっぱり。
あの時、桐生は私を庇ってくれた。
それも紛れもない事実。
「ありがとう」
「‥助けたのは俺じゃない」
「確かに伊織君だけどね」
伊織君来てなかったら、状況的に結構ヤバかったし。
桐生も困り果てた顔してたし。
もうお手上げです、みたいな感じがひしひしと伝わってきてたもん。
「でもありがとう」
「…俺は何もしてない」
「始めに庇ってくれたのは桐生だったじゃない。だから、ありがとう」
本当に、助かったのは事実だから。
「…お前本当に変わってるな」
「そうかな?まぁ否定はしないけどね」
そう言って桐生に笑いかけると、桐生も同じように笑ってくれた。
それはいつもとは違う、柔らかい笑みだった。
なんだか見てるこっちが、少し気恥ずかしくなるくらいの綺麗な笑顔だったから、私は隣にいた猫のぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめる。
「それ、持って帰れよな」
「いらないって何度言えばわかるの」
「ここにあっても持て余すだけだ」
「ほら、もうここのソファと馴染んじゃってるしいいじゃない」
ほら、周りととけちゃって風景の一部に化してるよ。
いいじゃない、シンプルな落ち着いた部屋に特大サイズの猫のぬいぐるみ。
すっごい存在感あるけど。
「どこがだよ。めちゃくちゃ浮いてるじゃねぇか」
「ええー‥こんなの私の部屋においても同じだよー」
「俺の家にあるよりマシだろ」
桐生はそう言って、私の腕の中にある猫を睨みつける。
抱き心地はいいんだけどね。
「そろそろ愛着わいてるだろ」
「うーん‥実はちょっとわいてる」
「だろ。持って帰ってくれ。あっても困る」
桐生はどうやら本気で困っているらしい。
顔がそう言ってる。
私は抱きしめている猫をしばらく見た後にため息をついて「わかった」と一言だけ言った。
処分されるくらいなら持って帰ろう。
「助かる」
「‥なんでもっと可愛いやつにしなかったかな」
「うっせぇな。目についたのがそれだったんだよ」
「まぁ‥目は引くけど」
ブサイクだし。
でもやっぱり抱き心地はいい。
「神崎そろそろ帰るか?」
「んー‥そうだね、もう9時なっちゃうしね」
電車、何分があるんだろう。
普段乗らないから時間とかまったくわかんないや。
「30分ころにあったと思う。ちょっと待ってて、着替えてくる」
「え、ちょ」
と、声にならない声を聞かなかった桐生は、部屋から姿を消した。
着替えてくるって…なんで。
思わず、抱きしめている力が強くなる。
「悪い、待たせた」
「いや、待ってないけど」
初めて見た桐生の私服は、意外にも旭とよく似ていた。
…お洒落さんだなぁ。
「送ってく」
「え、いーよ」
「よくない。てか、お前ここから駅までの道わかんの?」
「…知らない」
「なら送られろ」
「…はい、」
そう言われちゃったら頷くしかないじゃないか。
桐生にうながされて、玄関まで行って、履きつぶしているローファーを履く。
桐生が先に扉を開けて外に出る。
それに続けて外に出ると、ひんやりとした空気が肌を掠めた。
そろそろ、夜に出歩くにはコートがいるかもしれない。
吐く息は白く、外気に触れた手はすぐに冷たくなる。
「さむ、」
「ちょっと待ってて」
また?と聞き返す前に、桐生は部屋の中へと戻っていく。
そしてすぐに出てきた桐生の手には、なにやらふわふわとした白いものがあった。
「はい」
そう言った桐生は私の首に白いマフラーをかけた。
もこもこのそれは、寒い今の時間帯にはとても暖かく感じる。
ふわりと、桐生独特のにおいがした。
「今晩冷えるみたいだから」
「…あり、がと」
「どういたしまして」
そう言って桐生はふわりと、極上の笑みを私に向ける。
その笑顔に、私の心臓は今までにないくらい煩く鳴り響いていた。




